「どうでしたか、昨日の花は。」
「よかったよ! あ、だけどな、どうにも甘すぎるやつが一本入ってたんだよ。しかも昨日に限った話じゃなくて、一昨日も、最近ずっと入ってる気がする。」
「そうですか。……食べましたか?」
「頑張って食べたよ。結構な甘党なんで、なんとか。」
今日もまた、ここ『フルールチェリー』では、奇妙な会話が繰り広げられる。
愛想の良い店員と、ちょっと怪しげな、でもよく笑う若い男。
「しっかしなー、あの砂糖みたいなひねりのない甘さは、だいたい恋愛感情なんよね? あれほど甘くなるまで思い続けるって、どんだけ拗らせてるねんっ。」
「…………」
「ちょっとちょっとなんで黙ってるの。」
「……わかる人にはわかるんですよ。そういう気持ち。」
桜井はしみじみと呟く。
「なになに、桜井ちゃん好きな人でもいるの?」
「いないに等しいです。」
「ん? どゆこと。」
「思いを叶えようとしてないので。一般的な”好きな人”には入らないかと。」
「そんなことあるの?」
意味深なことを呟くと、桜井はそっと微笑んだ。だがそこにはひまわりのような暖かさはなく、ただハナニラのように切ない青白さだけがあった。
いつものような光景なのに、その表情だけが浮いて見える。
「ってか、桜井ちゃん顔色悪くない? 病気?」
「なっ、何言ってるんですか!? びょ、病気なわけないでしょ!!」
「ちょっと声デカイって。」
過剰な反応示したあと、桜井は下を向いて、唇を噛んだ。最近、桜井はずっとその行動をとっている。言えないことがあるような、何かを隠しているような。
「榊さん、本当に花を食べると、込められた気持ちがわかるんですよね?」
「なに今更。そうだけど。誰の思いかは流石に特定できないけどな。」
「そうですか。……よかったです。」
「よかった? なんで?」
榊の問いはそのまま答えられることなく、空気に溶けていった。
最近、なぜか榊の質問は場の空気を冷たくすることが多い。それを察しているのか、榊本人も桜井について深く追求することはなかった。
それでも榊は花屋に通い続けた。そして毎回、余った花を5、6本持って帰る。
榊は違和感を感じていた。渡される花に、いつも妙に甘い花が一本だけ含まれていることに。種類は様々だったが、それらはすべて眩しいほどの純白で、一切の濁りがなかった。
日を経るごとに、渡される花の甘さは限度を知らぬほど濃く深くなっていく。
ついに榊は、それらを棚にしまって、食べることを拒んだ。
なににも一切染まっていない純粋な白い花は、皮肉にも、部屋の角で一番の異質な物体となった。
「ねーねー桜井ちゃーん。」
「なんですか。いま忙しいんですよ。」
「いや、暇じゃん。上下逆さで新聞読みはじめちゃってるジャーン。」
榊が指差した先には、何語なのかもよくわからない新聞を持って、背もたれのない折りたたみ式の椅子に腰掛けている桜井がいる。
「……あ、ほんとだ。」
「桜井ちゃん最近冷たくなーい? 一時期しぬほど絡んできたのに。顔色ずっと悪いし、なんかあった?」
桜井はその一言を聞くと、ゆっくり顔をあげて、遠くを見つめた。ずっとずっと先の、誰も知らない、遠いところだった。
「来月で、僕はここを辞めます。」
「……は?」
「だから、榊さん、よかったら店もらってくれませんか?」
桜井はさらっと、驚きの事実を告げた。
「待って待って待って。何それ、どういうこと? 俺に引き継げってこと?」
「だっていつも暇じゃないですか榊さん。」
「いやまあね?? 売れない画家で悪かったな!」
「じゃあ引き継いでくれるってことでいいですか。」
「はあ!? ……まあ断る理由はないけど……うーん……でもなんでいきなり辞めるのよ。聞いてないんだけど?」
「言ってないですもん。」
榊はぎこちなく俯いて、地面を見ながら話した。
「辞めて、どうすんの?」
「それは……言えないですよ。」
「俺にも?」
「ちょっとだけ近所に住んでるっていうだけのお客さんに、何を言うことがあるんですか。」
身に覚えのあるセリフが飛んできて、榊はより一層項垂れる。最近密かに感じていた違和感が大きくなっていくような気がしていた。
「……もう会えないってこと?」
「多分、そうですね。」
桜井の言葉には、別れのためらいなど少しもないようだった。
「たぶん、ってことはあるかも知んねーってこと?」
「それは………………そうですね。あるかもしれないですけど。」
榊を励ますことにしたのか、桜井の言葉には長い間が空いた。
桜井自身には一切のためらいがないように思える。だが、本人がどう思っているかは、誰も知ることはできない。
「ショックなんだけど。」
榊はそう言って、桜井のすぐ隣にもう一脚折りたたみ式椅子を持ってきて、そこに座った。
触れそうなほどの近い距離だったが、桜井がそれを嫌がることはなかった。
決して広くはないが鮮やかで明るい花屋の片隅に、二人は何も話すことなく、しばらく身を寄せあっていた。
桜井はこの季節に似合わない長袖を着ている。近くで見ると、長袖では隠せないほど、その腕が痩せ細っていることが伺える。
榊が拗ねたように桜井の肩に頭を乗せると、桜井はまたいつものように下唇を噛んだ。
「……なんでだよ。」
「何がですか?」
「全部だよ。今までの全部。ここ辞めるって話は特に。」
先に沈黙を破ったのは榊だった。口から漏れ出るような、小さな声だった。
「ちょっと前まで、あんなに、あんなに……」
「ん?」
その声は、かすかに震えている。
「ちょっと前まで、あんなに俺のこと好きだったじゃん!」
言い終えて自分の声の大きさに気づいたのか、榊は慌てて自分の口を手で覆った。
桜井はぽかんと口を開けて、榊を見ていた。
その次の瞬間。
店内の暖かい光に照らされた桜井の目には、きらきらした宝石が浮かんでいた。
「な、なんでお前が泣いて……!?」
「違います。」
「はあ? どう見ても泣いて、」
「”好きだった”が、間違いだって言ってるんですよ。」
目に涙が浮かんでいても、その瞳は鋭い。
「人の気持ちを必要以上に知るくせに、それに寄り添おうとは思わないんですね。……はは、いいな、楽そうで。尊敬しますよ。」
溢れる涙を拭こうともしないで、桜井は喉から声を絞り出した。
ひどく痛切な叫びに、榊は動けなくなった。
桜井は諦めるように二回首を振ると、店の奥に入っていった。
「店閉めるので、早く出てください。……今日の分は店先に置いてあるんで、勝手に取ってってください。」
その日の白い花は、喉を刺すような甘さの奥に、拭いきれない苦さが潜んでいた。
桜井が持病で死んだのは、それから三日後の雨の日だった。
