化学的に応援してます

「はい、みんな席についてー。今日からうちのクラスに新しい仲間が増えることになりました。水樹くんです」



ホームルームの時間、担任がだるそうに告げると、教室のドアがガラガラと開いた。入ってきたのは、水樹(みずき)という男子生徒だった。


黒髪を耳の上できっちり揃え、無駄のない立ち姿。どこか鋭い眼光。何より特徴的なのは、その全身から漂う「余計な人間関係を一切遮断しています」という絶対ゼロ度に近い空気感だった。自己紹介も「水樹です。よろしくお願いします」の二秒で終了。


女子から小さな歓声が上がったものの、本人は冷徹な顔で指定された窓際の席へと歩いていった。



「冷たい奴だなあ」「仲良くなれなさそう」
ひそひそと交わされるクラスメイトの噂話。だが、俺の観察は違った。





【瀬尾の脳内観察メモ】
一見すると氷のように硬質で冷淡な無機物に見える水樹だが、歩行時の重心移動が微妙に固い。

視線は常に床の一定ラインを彷徨い、指先は制服の縫い目を強く握りしめている。


要するに、めちゃくちゃ緊張して冷却状態を装っているだけだ。過冷却の遷移(せんい)直前といったところか。刺激を与えれば一瞬で結晶化するぞあいつ。



そんな「過冷却男子」の水樹に、即座に接近を試みた粒子があった。クラス委員長の油谷(ゆや)さんだ。



油谷さんは面倒見が良く、太陽のように温かな雰囲気を持つ女子だ。文系だが、誰に対しても分け隔てなく接する性格で、まさにクラスの潤滑油的ポジション。彼女は早速、印刷されたプリント類を抱えて水樹の机へと向かった。




「水樹くん! 校内案内とか授業の準備で分からないことがあったら、なんでも聞いてね! これ、今週の配付物と教科書のリスト!」



油谷さんは満面の笑みでプリントを差し出す。だが、水樹は視線すらろくに合わせず、ボソッと呟くだけだった。







「……別に。必要ない。一人でやる」





「えっ? でも、移動教室の場所とか、理科室のローカルルールとか結構ややこしいよ?」




「調べれば分かる」








水樹の冷ややかな反応に、周りの生徒たちは「うわ、油谷さんかわいそ」「せっかく親切にしてくれたのに」と眉をひそめた。

当の油谷さんも、一瞬あっけに取られたような顔をした。






しかし、俺の目には全く別の景色が見えていた。






【瀬尾の脳内ツッコミ】

おいおい、周りは「水と油」だのと言っているが、全く本質が見えていないな。

水樹のあの態度、あれは拒絶じゃない。拒絶なら最初からプリントを受け取らない。だが水樹の手元を見ろ。油谷さんが差し出したプリントを、指先が触れないよう細心の注意を払いながら、壊れ物を扱うように受け取っている。そして油谷さんが離れた瞬間、喉仏が大きく上下した。




いいか、お前ら。これは無機物と有機物の出会いなんかじゃない。『シアン酸アンモニウム』と『尿素』の関係だ!


化学式を見てみろ。シアン酸アンモリウムは無機塩(NH4OCN)。

尿素は有機化合物((NH2)2CO)。

構成している元素の数と種類は全く同じ「CH4N2O」だ。分子式が完全に一致しているのに、構造と性質が全く異なる『構造異性体』の関係なんだよ!



無機物っぽくて冷たいシアン酸アンモニウム(水樹)に、熱(油谷さんの温かなアプローチ)を少し加えてやれば、一気に有機物である尿素へと異性化(加熱反応)を起こすのは歴史が証明している。


お前ら、お互いの構成要素の波長(価値観)がぴったり一致しすぎてて、無意識に惹かれ合ってるからこそ逆に反発が大きく見えてるだけなんだよ! くっつきかけてるんだよ最初から!






俺は心の中で大きくため息をついた。周りの奴らは「あの二人、絶対合わないよね」なんて無意味な結論を出しているが、俺にはお見通しだ。二人ともお互いを強烈に意識しすぎている。油谷さんは「冷たくされた」ことではなく、「どうすればあの頑なな心を解きほぐせるか」で頭がいっぱいになり、水樹は「親切にしてくれた可愛い女子にどう接していいか分からずテンパっている」だけなのだ。







それから数日、二人のじれったい距離感は続いた。




油谷さんは毎朝「水樹くん、おはよう!」と声をかけ、水樹は「……おは」と消え入るような声で返し、すぐに顔を背ける。




一見進展がないように見えて、水樹の返答までの所要時間が初日の3.2秒から0.8秒まで縮まっていることを、誰も気づいていない。反応速度論的に言えば、すでに活性化エネルギーのハードルは大幅に下がっている。










(……はあ、見てるこっちがエネルギーを消耗する。このままじゃ無駄な可逆反応を繰り返すだけだ。ちょっとした触媒を入れて不可逆反応にしてやるか)












金曜日の放課後。俺は動いた。






化学準備室で備品の整理を任されていた俺は、担任の先生に「すみません、重いガラス器具の棚移動があるので、手伝いを二人ほど呼んできていいですか?」と申し出た。先生は「おう、誰でもいいぞ」と許可を出した。




俺は教室に戻ると、ちょうど日誌を書いていた油谷さんと、さっさと帰ろうとしていた水樹の元へ向かった。


「油谷さん、ちょっと手伝ってくれないか? 化学準備室の実験器具の移動なんだけど。あと……水樹くんも、力仕事だから頼めるかな」

「えっ、あ、私でいいの? いいよ!」と油谷さん。

水樹は一瞬嫌そうな顔をしたが、「……別に、暇だし」とボソッと呟いて立ち上がった。





俺は二人を特別教室棟の奥にある化学準備室へと案内した。準備室の中は、薬品の匂いと独特の静寂が満ちている。俺はあらかじめ準備しておいた「それっぽいダンボール」を二人の前に置いた。



「この箱、ガラス製の蒸留装置と冷却器が入っててめちゃくちゃ重いんだ。一人で持とうとすると落として割れるから、二人で両端を持って奥の薬品庫に運んでほしい」

「わかった! 水樹くん、いっしょに持とう」

「……ああ」





二人がダンボールの両端を掴む。必然的に、距離が数十センチまで縮まる。水樹の顔が目に見えて硬直した。




「じゃあ俺、向かいの第ニ理科室から追加の台車持って来るから。ちょっと運んでおいてくれ」





そう言い残し、俺は準備室を出た。そして——鍵をかけるような野暮な真似はしない。ただ、ドアをカチャンと静かに閉め、ドアの小窓から見えない死角に身を潜めた。





準備室の中では、沈黙が流れていた。





「……ねえ、水樹くん」
沈黙を破ったのは油谷さんだった。





「……何だ」






「水樹くんって、本当はすごく優しい人でしょう?」

「は? なに言って……」









「だって、さっき箱持つとき、私の方に重さがいかないように、自分の側に箱を引き寄せてたでしょ? 持ち手も、私が持ちやすいように位置を譲ってくれたし」





「! ……それは、ただ……お前が力なさそうだったからで……」




「ふふ、そういうところ! 転校してきた日もさ、みんなに話しかけられて緊張してただろ? 私、分かってたよ。嫌で無視してたんじゃなくて、どう答えていいか分からなかったんだよね」





「……っ」







水樹の沈黙。だが、ドア越しでも伝わってくる。水樹の精神的防壁がガラガラと音を立てて崩れていくのが。






「私ね、水樹くんと仲良くなりたかったんだ。クラスに早く馴染んでほしいなって。……でも、迷惑だったかな?」





「……迷惑なわけ、ないだろ」



水樹の声は、いつもの冷たさが完全に消え去り、震えていた。










「俺……人見知りで、前の学校でもうまく話せなくて……だから、カッコつけて冷たいフリして……本当は、油谷さんが声かけてくれて、すごく嬉しかった。……ありがと」



「水樹くん……! うん! これからいっぱい話そうね!」





小窓からチラリと覗くと、水樹の顔は耳の先まで真っ赤になっていた。油谷さんもまた、恥ずかしそうに、でも嬉しそうに飛び切りの笑顔を浮かべている。






【瀬尾の脳内勝利宣言】


ほら見ろ! 言っただろ!!



シアン酸アンモニウム(水樹)に加熱(油谷さんの言葉)が加わったことで、ついに完全な異性化反応が完了した!


冷酷な無機物から、温もりある有機物(尿素)への不可逆的な変化だ!


手元を見ろ水樹! 箱を支えるお前の手が、さりげなく油谷さんの手に重なりかけてるぞ!


そこからさらに共有電子対を形成して結合するつもりか!? お前らもうさっさと分子結合してカップルになれよ!






俺は満足げにうなずくと、数分ほど時間を潰してから「あー、台車なかったわー」とトボトボ戻るフリをしてドアを開けた。





「あ、瀬尾くんお帰り! もう運んじゃったよ!」


「サンキュ。……あれ、水樹くん、顔赤くないか? 暑い?」


「っ!? な、なんでもない! 部屋が蒸し暑いだけだ!」




水樹は慌てて顔を背けたが、その表情にはもう最初の刺々しさは微塵もなかった。油谷さんはそんな水樹を見て、クスクスと可愛らしく笑っている。





こうして、今日のミッション


——「転校生と委員長の構造異性体形成反応」は、見事な生成物を得て成功裏に終わったのだった。






……まあ、当人たちは「これから親しい友達として頑張ろうね!」なんて純粋な顔をしているが、数ヶ月以内に彼らが恋人関係へと相移行するのは、この瀬尾の眼には完全に予測できている。




「さて……帰るか」



俺は制服のポケットに手を突っ込み、二人の甘酸っぱい熱気が充満する準備室をあとにした