未来へのバトン

あのアイスクリームの夜から、健一の日常は一変した。

といっても、ドラマのようにすべてが劇的に好転したわけではない。麻衣との間にあった深い溝は、数回の謝罪で埋まるほど浅いものではなかったからだ。

しかし、健一は決意していた。これは「技術」の習得なのだ。仕事で新しいプログラミング言語を覚えるように、あるいは難解な契約条項を読み解くように、彼は「伝える力」を実践し続けた。

まず彼が徹底したのは、「マイクロ・インタラクション(微小交流)」の積み立てだった。

「麻衣、おはよう。今日のシャツ、アイロンをかけてくれたんだね。ありがとう。すごく気持ちがいいよ」

「麻衣、このコーヒー、淹れ方を変えた? 香りがすごくいいね」

これまでの健一なら、アイロンがかかっているのも、美味しいコーヒーが出てくるのも「当然のインフラ」として見過ごしていただろう。だが、彼は学んだ。ポジティブな比率を「5対1」にするためには、こうした些細な「承認」と「感謝」を、意識的に口に出さなければならない。

最初はぎこちなかった。麻衣も「……どういたしまして」と戸惑い気味に応じるだけだった。しかし、二週間、三週間と続けるうちに、麻衣の表情から刺々しさが消えていった。