未来へのバトン

翌日、健一は会社にいても仕事に身が入らなかった。
かつてない焦燥感。麻衣との間に、修復不可能な溝ができたことを、彼の鋭すぎる直感が告げていた。

昼休み、健一はふとした拍子にネットで見つけた一冊の本、あるいはその要約資料に目を留めた。

『「伝える力」:関係資産を築き、大切な人を守るための技術と本質』。

普段なら「精神論か」と切り捨てるところだが、今の彼にはその言葉が、暗闇の中の細い光のように見えた。

「伝える力は才能ではなく、技術である」
「良好な関係は5対1の法則で成り立つ」

健一は、資料を読み進めるうちに、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
ゴットマン博士の研究によれば、1つのネガティブな言動(批判、非難、蔑み、無視)のダメージを打ち消すには、少なくとも5つのポジティブな関わりが必要だという。

健一は昨夜の自分を、いや、この一ヶ月の自分を振り返った。
(麻衣に、ポジティブな言葉をかけたのはいつだ……?)

「この料理は塩分が高い(批判)」
「なぜ掃除ができていないんだ(文句)」
「君の考え方は非効率だ(非難)」
「黙って僕の言う通りにしろ(脅しに近い強制)」

出るわ出るわ、資料に書かれた「致命的な7つの習慣」のオンパレードだった。麻衣を愛していると言いながら、健一が彼女に投げつけていたのは、愛ではなく「支配」と「管理」という名の鋭利な刃物だったのだ。

(僕と麻衣の関係資産は……完全に破産している)

50代にして初めて、健一は己の無力さを知った。
仕事で培ったロジックは、人を動かすことはできても、人を幸せにすることはできなかった。