未来へのバトン

「変わったんじゃないさ、麻衣。僕はずっと君を愛していたけれど、その愛を伝える『技術』を知らなかったんだ。不器用な遠回りをして、君に辛い思いをさせてすまなかった」

健一はそう言いながら、麻衣の手を包み込むように握った。
その掌は、かつて営業部長として数字と効率を追い続けていた頃には決して持ち得なかった、柔らかい温度を帯びていた。

妊娠が分かってからの健一は、まるで別人のようだった。
毎週末になると、慣れない手つきでスーパーの袋を提げて帰ってくる。
卵、ひき肉、野菜。
「これで何が作れるんだ?」と自分でも首をかしげながら、レシピサイトを見てはキッチンに立つ。

エプロンをかけた健一は、ぎこちない動作で卵を割り、フライパンを温める。
火加減が強すぎて焦げた出汁巻き卵。
裏返しに失敗して形が崩れたハンバーグ。
味付けが濃すぎたり薄すぎたり、毎回どこかしら“惜しい”料理ばかりだった。

それでも麻衣は、皿を前にすると必ず笑った。

「健一さん、これ……美味しいよ」

その言葉は、料理の出来栄えに対する評価ではなく、
“自分のために時間を使ってくれたこと”
“自分のために不器用な挑戦をしてくれたこと”
そのすべてへの感謝だった。

健一は照れくさそうに頭をかきながら、
「いや、もっと上手く作れるようになるよ」
と笑う。
その笑顔は、かつての“完璧主義の営業部長”のものではなく、
“家族のために不器用でも歩み寄ろうとする父親になる男”のものだった。

ふと、麻衣は思い出した。
あの夜、健一が語った「焦げた卵焼き」の未来の物語。
ロジックではなく、イメージで語った未来。
その未来が今、目の前のリビングで現実になっている。

焦げた卵焼きの匂い。
湯気の立つ味噌汁。
テーブルの上に並ぶ、形の崩れたハンバーグ。
そして、健一の不器用な笑顔。

「未来を語る力って、本当にあるんだね……」

麻衣がぽつりと呟くと、健一は少し驚いたように目を丸くした。

「未来を引き寄せるのは、計算じゃないんだな。
君の心の中に、幸せな映像を浮かべてもらうことなんだ。
その映像が、僕を変えてくれたんだよ」

麻衣は健一の手をぎゅっと握り返した。
その手は、これから父親になろうとする男の決意と、
妻を守りたいという静かな情熱で満ちていた。

二人の間に流れる空気は、
かつての「義務」や「計画」ではなく、
“寄り添い合う家族の時間”そのものだった。