未来へのバトン

葛西健一(54歳)は、大手精密機器メーカーの営業部長として、人生のほとんどを「効率」と「正論」に捧げてきた。部下からは「氷の論理(アイス・ロジック)」と恐れられ、トラブルがあれば即座に原因を究明し、最短距離の解決策を提示する。それが彼の誇りであり、生き方だった。

そんな健一が、2年前に26歳下の麻衣(28歳)と再婚したとき、周囲は驚愕した。しかし健一にとって、それは「人生の後半戦における最適なリスクヘッジと幸福の追求」という論理的な帰結だった。若く聡明な麻衣となら、穏やかで建設的な家庭が築ける。そう確信していた。

だが、結婚3年目を迎えようとする今、二人の間に流れる空気は、健一がかつてリストラを断行した際の会議室よりも冷え切っていた。

「麻衣、今月のスケジュールを共有しよう」

夕食の席、健一はタブレット端末を開いた。画面には、麻衣の基礎体温グラフと、妊活アプリから算出された「最重要日」が赤い円で囲まれている。

「明日から三日間がピークだ。僕も会食はすべてキャンセルした。サプリメントの摂取タイミングも、吸収率を考えて食後30分以内に調整してくれ。それから、体温が0.2度低いのが気になる。明日は少し厚着をして、代謝を上げる努力を……」

麻衣は、自分が作ったはずの肉じゃがを、まるで砂でも噛むような無機質な表情で見つめていた。箸は一口も進んでいない。

「……ねえ、健一さん。私、何かのプロジェクトの担当者だっけ?」
「何?」
「明日の予定、サプリの指示、代謝の管理。……これ、仕事じゃないんだよ? 私たちの、子供のことなんだよ?」

健一は不思議そうに眉を寄せた。

「もちろんだ。だからこそ、最善を尽くすべきだろう。感情的に取り組んでも確率は上がらない。僕たちは年齢差というハンデがあるんだ。ロジックに基づいた戦略こそが、君に子供を抱かせてあげるための最短ルートなんだよ」
「『抱かせてあげる』……?」

麻衣の声が、微かに震えた。

「どうしてそんなに上から目線なの? どうして、私の気持ちを一度も聞かないの? 私は、健一さんと愛し合いたいだけで……数字を合わせるためにベッドに入るわけじゃない!」
「感情論は横に置こう。結果が出なければ意味がないだろう」

健一が放ったその一言が、決定打だった。
麻衣は勢いよく椅子を引いて立ち上がった。ガタン、という高い音がリビングに響く。

「もういい。健一さんの『正論』には、血が通ってない。……おやすみなさい」

寝室のドアが、重く、拒絶するように閉まった。
健一は一人、明るすぎるダイニングライトの下で取り残された。画面の中の「赤い円」が、まるで自分を嘲笑っているかのように見えた。