4月の最終週。聖奈はいつもと違う大きめのリュックサックを背負いながら坂道をぐんぐん登っていく。駅から星ノ谷高校へと向かう道中のこの坂道は、「遅刻坂」と呼ばれるくらい急な傾斜で生徒たちを苦しめていた。中学時代、剣道部で毎日身体を動かしていた聖奈でさえ、息が上がりそうになる。
遅刻坂を登りきった聖奈は校門の前でフーッと息を整えると、レンガ造りのアーケードをくぐり抜けた。そして今日は校舎と反対、校庭の方へと向かう。
都会にしては広々とした校庭には8台のバスが停まっていた。今日から1泊2日の宿泊研修が始まる。
聖奈は添乗員にリュックサックを預けて「1年8組」の札が置かれているバスに乗り込んだ。
「聖奈おはよー」
先に来ていた茜が声をかける。
「おはよ」
聖奈は茜の前の席に腰を下ろした。
バスの座席と宿泊研修の活動班は1週間前のLHRで決められた。
「校風的には、自由に班決めてくださいってなりそうだけど、あのヤマセンだからね。めんどくさがってくじ引きにするとみた」
と、LHR直前、加奈子は予想を口にした。
加奈子曰く、「2人の王子がいるこのクラスで自由に班決めさせたら揉めるでしょ?」とのことだったが、ヤマセンも同じ考えだったのだろうか。
「まだ入学してから1ヶ月も経ってないし、班とバス座席はくじ引きなー。」
ヤマセンは天パの髪をむしゃむしゃと掻きながら用意したくじの箱を教卓の上に置いた。ちなみに、ヤマセンとは担任の山中先生のことである。
こうして班及びバス座席決めは10分も経たずに終了。そして、幸いにも聖奈と茜は同じ班になった。男女混合で1班あたり6〜7人。聖奈のいるA班は、茜の他、山本美咲、竹本奏多、中島彰人、藤原蒼の6人で構成された。
ちなみに加奈子はB班。その他B班には、宮田くん含めキラキラした感じのメンバーが多い。そのせいか、班決め後の加奈子は珍しく憂鬱そうな顔をしていた。
出欠確認が終わり、バスがゆっくり動き出した。学校を出て、ゆるやかにビル街へと入っていく。
「金子さんって、中学のとき剣道やってた?」
隣に座っている中島くんが口を開いた。どう話しかけようか悩んでいた聖奈は、少し救われた気持ちになった。
「うん、やってたよ」
「やっぱり。大会で見たことあるなって思ってた」
実は聖奈はかなり剣道が強い。中学2年と3年で都大会個人優勝しているくらいだ。なので知っている人がいても不思議ではない。
「もしかして中島くんも剣道やってた?」
「うん。高校でもやるつもり。金子さんは剣道部入らないの?」
「化学部に入ろうかなって思ってて。勉強も頑張りたいから運動部は厳しい」
「そっか。まあ、気持ちは分かる。まだ仮入部だけど授業中寝そうになるの堪えてるもん」
聖奈は後ろの席から眺める午後の授業風景を思い出しながらふっと笑みをこぼした。
◆◆◆◆◆
バスが動き始めて1時間半。ガタガタと車体を揺らしながらバスは山道をゆっくり上っていく。聖奈は前の座席の背に取り付けられている取っ手を握りしめた。
明らかに気持ち悪そうな顔の生徒が出始めたところで前方の視界が開けてきた。どうやら目的地に着いたらしい。緑いっぱいの景色が広がっている。バスを降りたときに感じた、春と夏をほんのり混ぜ合わせたような風が心地良い。
と、自然溢れる空気に浸っているのも束の間。研修所に到着し支度を終えた星ノ谷高校の生徒たちは、またすぐバスに乗せられ、今度は山の麓の方へと連れて行かれた。
学校側が用意したカレーの食材を集めながら山を登っていき、研修所近くにある屋外キッチンで調理して食べる……というのが今日1日かけて行われるレクリエーションらしい。ちなみに、肉だけは腐らないように研修所の冷蔵庫で一足先に眠っているんだとか。先生の説明を聞きながら、「せめて山登りと食材集めは切り離そうよ……」と心の中で呟いたのは聖奈だけではなかった。
「さて、登りますか。クーラーボックスどうする?」
レクリエーションが開始されてすぐに茜が仕切ってくれた。
「1つは俺が持つよ」
「じゃあもう1つは僕が」
さすがに女子には持たせられないと思ったのか、竹本くんと中島くんがクーラーボックスを肩にかけた。
聖奈たち6人は山の中へと足を踏み入れていった。
レクリエーション開始から30分。半分くらい進んだだろうか。体力を温存するつもりだったのか最初から口数は少なめだったが、今となってはもう足音と呼吸音しか聞こえない。だんだんと6人の足取りは重くなってきている。
「あの、ちょっと休憩しない? そろそろ水分補給したいし」
少し道が平坦になったところで聖奈は声をかけた。自分もそうだが、何より美咲を休ませてあげたい。足元がフラつきはじめて息もかなり上がっている。
「賛成。ちょっとしんどすぎー」
茜が道の端に寄って腰を下ろした。
「美咲も大丈夫?」
聖奈は無言で座った美咲に「宿泊研修のしおり」と書かれた冊子を扇いで風を送った。
「ありがとう」
美咲はなんとか声を絞り出した。
各々水を飲んだりタオルで汗を拭いたり、しばらく無言の時間が流れる。
「なんか一回休んじゃうと立てなくなるよね」
少し落ち着いた茜が静寂に耐えきれず口を開いた。
「それなー」
竹本くんが気怠そうに賛同したところで聖奈が立ち上がる。
「あのさ、どっちか代わろうか? 食材持つの」
「パス……」
中島くんはクーラーボックスの紐を聖奈に渡した。
「え……大丈夫?」
竹本くんが目を丸くする。
「うん。体力には自信あるから」
聖奈は心配させないように笑顔を見せた。
「聖奈はこう見えて剣道全国ベスト8だから多分大丈夫だよ」
茜が付け加える。
「マジで!? 強っ!」
驚いた竹本くんの声のボリュームが一段階上がった。
「熊が出たら守ってね」
「いや、竹刀ないからさすがに厳しい」
冗談っぽく笑う茜に聖奈は冷静にツッコんだ。
「奏多のは僕が持つよ」
「助かる」
竹本くんが持っていたクーラーボックスに手をかけながら藤原くんが微笑んだ。そのままクーラーボックスを開けて中身を確認する。どう考えても水が入っている聖奈の方が重い。
「聖奈、そっちのクーラーボックス貸して。材料いくつかこっちで持つから」
「……。」
聖奈は藤原くんの方へと顔を向けた。目を丸くしたまま表情が止まっている。男子に「聖奈」と名前で呼ばれたのが久しぶりだったからだろうか。聖奈はなんだか懐かしい気持ちになった。風に揺れる葉の音が少し大きく聞こえる。
「あ……、ごめんね」
ほんの少しだけど生まれてしまった奇妙な間に気付いた藤原くんは、少し困ったように謝った。
「蒼は下の名前で呼ぶのが習慣になっちゃってるんだよね?」
藤原くんの寂しそうな顔に気付いた美咲が助太刀を入れた。
「あの、全然イヤだったわけじゃなくて。男の子に下の名前で呼ばれたのが久しぶりでびっくりしちゃって」
聖奈は慌てて誤解を解こうとした。
「やっぱ海外だとファーストネームで呼ぶ感じなんだね。あ、もちろん私も下の名前で呼んでくれていいからね!」
微妙な空気を察した茜はわざとおちゃらけた態度をとりながら立ち上がった。
「ありがとう、茜」
茜は藤原くんに微笑みながら頷いた。
「さて、そろそろ行きますか」
茜の合図と共に支度を整えはじめる。
「じゃあ、これだけお願い」
藤原くんの厚意を思い出した聖奈は、負担にならなさそうなじゃがいもを取り出しクーラーボックスを閉めた。
◆◆◆◆◆
少し日が落ちてきて、涼しい風がサラッと流れた。各班の鍋からカレーのいい匂いがあふれてくる。屋外に設けられた木製のテーブルの上には盛り付けられたカレーが6つ。
「美咲、盛り付けありがとう」
茜は完成したカレーにパチパチと小さく拍手を送りながら感謝を述べる。すると、調理場の方から聖奈が小走りで現れた。
「水持ってきたよー」
そのままペットボトルの水を紙コップに注いでいく。それを美咲が手際良く配っていく。
「では、食べますか」
聖奈が座ると同時に茜が手を合わせた。
「いただきます」
茜の声につられて各々小声で「いただきます」と口にし、スプーンを動かした。
「うん、普通にうまいわ!」
竹本くんが満足そうにガツガツ食べている。対照的に、その隣にいる藤原くんは上品にカレーを口に運び、味わうように咀嚼した。
「うん。美味しいよ」
藤原くんが優しく微笑む。このカレーの大部分を作ったと言っても過言ではない美咲の顔が少しだけ赤くなる。
「美咲って家でも料理するの?」
聖奈はカレーをすくいながら美咲の方を向いた。
「うーん、お菓子はよく作るよ」
美咲は照れくさそうにカレーを見つめている。
「だから手際良かったのか! 私、美咲みたいな人と結婚したいわ!」
茜は少しだけ俯く美咲を愛おしそうに見た。
「そういえば金子さん、初日の自己紹介のとき食べるの好きみたいなこと言ってたよね」
急に中島くんに自己紹介のときの話を振られた聖奈は目を丸くした。
「よく覚えてるね」
茜はチラッと中島くんの方を見る。
「剣道の話しろよって思ったから」
「なるほど」
剣道の話をするのは自慢っぽくなりそうだと思ってしまった聖奈は、当たり障りのない自己紹介を意識した。その結果が「食べるの好き」である。
5人の視線が集まっているのを感じて聖奈は恥ずかしくなった。
「改めて言うけど、世界の郷土料理を食べるのが好きって言ったわけで。食いしん坊キャラじゃないからね」
聖奈は冷静な口調で否定した。
「ちなみに聖奈はエグレシア料理目当てで海外研修狙ってるんだってさ」
茜がイタズラっぽい顔をする。
「いや、料理目当てってわけじゃないから! ……まあ、エグレシア料理、好きだけど」
聖奈は否定しきれなかった。
「エグレシア料理?」
聞きなれない単語に美咲が少し身体を乗り出しながら尋ねた。
「うん。素朴な家庭の味って感じで美味しいよ!」
聖奈は少しウキウキしたような顔で美咲の方を見た。
「メラールだっけ? 牛肉をトロトロに煮詰めたシチューみたいなやつ。多分日本人の口に合うと思う。美味しかった」
「茜も食べたことあるの?」
「この前聖奈に誘われて。美咲も今度一緒に行ってみる?」
「本場の味って感じでおすすめお店があるの、学校の近くに」
「うん!」
謎めいたエグレシア料理で盛り上がる女子トークを聞きながら、男性陣は黙々とカレーを食べている。
「そういえばさー、海外研修に行けるのって成績上位者だよね」
竹本くんは目線をカレーからフッとあげた。
星ノ谷高校には約1週間の海外研修制度がある。1年生の中から希望者8名がエグレシア王国の国立大学や研究所などを訪問することができるのだ。選抜方法は1年次前期中間試験。「学年順位20番台で参加できた生徒を私は見たことがない。」と星ノ谷高校に勤めて10年の地学の先生が授業中に言っていた。
「あー、それなら大丈夫だよ。聖奈はこう見えて入学直後の実力試験クラス2位だから」
茜は自分ごとのようにドヤ顔をしてみせた。入学して2日目に行われた校内実力試験。たしかに聖奈はクラス順位2位。そして学年順位は7位だったりする。
「え! なんで知ってるの!」
実力試験の得点は誰にも教えていない。聖奈は驚いて少し大きな声が出てしまった。
「ごめん。順位表渡されたときにチラッと見えちゃったんだよね。ヤマセン、順位表渡すとき、紙表面向けたまま教卓の上に置いてたじゃん? 私の次が聖奈だからさ」
「なるほど……」
確かに聖奈も後ろの人の順位が見えないように目を逸らした記憶がある。さすがいろいろと雑なヤマセン。隠していたわけではないが、茜に「テストどうだった?」と聞かれたときに「まあまあだった」とテキトーなことを言ってしまったのが申し訳なくなってきた。
「ていうか、運動もできて勉強もできるとか女版宮田理玖じゃん」
竹本くんはわざとらしく「やってらんねー」と言わんばかりの顔をしてみせた。
「ちなみにその実力試験、1位は宮田だから。ていうか学年1位なんだけどね」
竹本くんはスプーンを皿に軽くカツカツと打ちつけながら続けた。
「なんか、同じ人間って思えなくなってきた」
茜も竹本くんに合わせるかたちで「やってらんねー」の顔をしてみせた。
「実際、中学でじゃ『超人』って言われてたしな、あいつ」
「もしかして、竹本くんって宮田くんと同じ中学だったの?」
竹本くんから湧いて出た新事実に聖奈は思わず反応した。
「うん、そうだよ」
「聖奈も小学校同じだったんだよね?」
茜は聖奈の肩をポンと叩いた。
「あ、うん。転校したから途中までなんだけどね。それに、クラス違ったから宮田くんは覚えてないと思う」
聖奈は少しだけ寂しい気持ちになりながらも、それが顔に出ないように隠した。
「やっぱり宮田くんって中学でもモテたの?」
茜は興味津々という顔で竹本くんの方を見る。
「もうやっばいモテモテ。でも彼女作らないんだよね。なんか、弟が重い病気らしくて忙しいんだと。部活も入ってなかったし。高校でも入らないって言ってた」
突然竹本くんの口から出た暗い話に6人の空気は瞬時に重くなった。
「私も塾の友達から聞いたことある。余命何年みたいな病気だって。……それでも何事もないようにいつも明るく接してくれるからさ、理玖、すごいよね」
美咲がフォローを入れるかのように呟いた。
「マジか……」
中島くんがポツリと言葉を発する。少しだけひんやりとした夜の風がフーッと漂う。
「そういえばさ、みんな部活は何やるの?」
聖奈は「我ながら良い話題変更ができた」と心の中で自分に拍手を送った。6人は敢えて何事もなかったかのように部活の話をした。
◆◆◆◆◆
カサコソカサコソ。
聖奈は鞄の中身をベッドの上に並べはじめる。
「聖奈ー。どうしたのー?」
顔パックをした茜がベッドの上から声を飛ばした。
「歯ブラシ入れてたポーチが見当たらない」
「あのボーダー柄のやつ?」
「うん」
聖奈はベッドの上に並べた荷物を戻しはじめた。やはり見つからない。
「それ、お風呂場に持っていってなかった?」
歯磨きを終えた美咲が洗面台から戻ってきた。
「やっぱ大浴場かなー? ちょっと行ってくる」
聖奈は部屋の鍵を手に取った。
「私も行こうか?」
「大丈夫! すぐだから!」
そう言うと聖奈は駆け足気味に部屋を出た。ドアが閉まる瞬間、背後から「ていうか茜、顔パックしたまま行くつもりだったの?」と美咲の声が聞こえた。聖奈も全く同意見だ。
脱衣所の棚からポーチを取り出した聖奈は、スリッパを履き、大浴場の引き戸を音を立てて開けた。
ガラガラガラガラ。
ガラガラガラガラ。
廊下に出た聖奈が引き戸をゆっくり閉めるや否や、男湯側の引き戸が開いた。
石鹸の香りがフワッと舞う。男の子とは思えないくらい透明感のある白い肌に、聖奈は思わず見惚れてしまった。
「聖奈も今お風呂?」
藤原くんの声に聖奈は我に返った。
「ううん。ポーチ忘れちゃって。」
聖奈は首を軽く横に振りながら答えた。
「藤原くんは今お風呂入ったの?」
「うん。ちょっと体調崩しちゃって」
「え、大丈夫?」
「もう平気」
藤原くんは優しく微笑みかけた。あまりの眩しさに「ああ、こりゃ白王子って呼ばれるわけだわな」と聖奈は妙に納得した。
2人は並んで部屋のある棟へと歩きはじめる。
「あのさ、藤原くんに1つ聞きたいことがあって……」
聖奈はまっすぐ進行方向を見つめながら話し始める。
「何?」
「昔、子役かなんかやってた?」
聖奈は淡々とした口調で問いかけた。
「やってないけど……どうして?」
「なんか入学式のときから見たことある顔だなーって思ってたんだよね。……でも勘違いみたい」
聖奈は藤原くんの顔をじっと見た。と同時に目が合ってしまいすぐさま視線を逸らす。ペタペタと鳴るスリッパの音が聖奈の耳にやけに大きく響いた。
「……似てる俳優さんでもいたのかなぁ」
「まあ、藤原くんはイケメンだしね」
「え、あ、ありがとう。聖奈もかわいいよ」
聞きなれない「かわいい」の響きに聖奈は思わずポーチを落としそうになった。
「無理に褒めなくていいからー」
聖奈は茜っぽい喋り方で動揺を誤魔化した。
「本当にかわいいよ」
聖奈は「ああ、こりゃ白王子って呼ばれるわけだわな」と1分ぶり2度目の感想を抱いた。
「そういえば僕も一つ気になってたんだけど。聖奈って帰国子女だったりする?」
予想外の質問に聖奈の脳内はハテナの文字でいっぱいになった。
「違うよ。日本から出たことすらない。なんで?」
「なんとなく。英語の授業のときに発音がネイティブっぽいなって思って。夕食のとき、宮田くんと途中まで小学校同じだったって話してたから、海外の学校に転校したのかなって」
「ネイティブっぽいって初めて言われた!」
聖奈は子供っぽい笑顔を見せた。
「ちなみに転校したのは宮田くんの方だよ」
「あ、そうなんだ」
宿泊棟に着いたところで2人は足を止めた。
「じゃあ、私3階だから。また明日ね!」
「おやすみ」
「おやすみ!」
聖奈は階段を駆け足で登った。少しだけ速くなった鼓動を、階段のせいにするかのように。
◆◆◆◆◆
バサっ!
明日の帰り支度を済ませた聖奈はベッドに倒れ込んだ。正直かなり眠い。
「聖奈ー?」
茜が心配そうに顔を覗き込んできた。
「さすがに疲れた……」
聖奈はゆっくりと仰向けに体勢を変えた。
「レクのとき荷物持ってくれてたしね」
美咲の言う通りレクで頑張りすぎたのもあるが、多分1番の原因は寝不足だと思う。宿泊研修前日にも関わらず本を読んでいて寝る時間が遅くなってしまったのだ。
「えー、泊まり名物、恋バナしたかったのにー」
茜は不満そうな口ぶりだ。
「2人は気にせず喋ってていいから。私にはうるさくても明るくても寝れるという特技がある」
聖奈は倒れたまま親指を突き立てて「グッ!」のポーズをしてみせた。
「まあ、しゃーない。それじゃ美咲とアダルティな夜を過ごすとしますわ。おやすみ」
そう言って茜は聖奈の背中を優しくポンポンと叩き、美咲側のベッドの方へと移動した。
「じゃあ電気消すね!」
ピッ。
美咲が押したリモコンの音に合わせてフッと部屋が暗くなる。小さくオレンジ色に光った常夜灯が温かく感じる。
「ねえねえ、美咲はやっぱり藤原くんなの?」
眠気でぼんやりとした意識の中で茜の声が聞こえた。
「うーん、うん……。やっぱかっこいいよね。優しいし」
「分かるわー。さすがクオーター」
「あの顔で見つめられるとドキドキしちゃう」
「ほんと美しすぎだよね。あ、ちなみに私的に藤原くんは観賞用だから、安心してくれっ!」
「分かってるって! やっぱり二次元LOVEって感じなの?」
「いや、恋愛は普通に三次元派だけど。私は追われたい派なのだよ。モテる人はタイプじゃない!」
「じゃあ黒王子派ってわけでもないのか」
「うん。タイプじゃないね」
「めっちゃキッパリ言うねえ」
「もちろん。……やっぱりもうカップルできはじめてるのかなあ、もうすぐ1ヶ月だし」
酷い眠気に襲われていたはずの聖奈だったが、気付けば茜と美咲の恋バナに耳を傾けていた。
「カップルは分からないけど、告白してる人はいるっぽいよ。黒王子と白王子に。全滅っぽいけど」
「でしょうね。そういえばさっき、7組の子が『理玖、今は忙しいだろうからこの気持ちまだ伝えるつもりないんだー。』みたいなこと言ってたなー」
「それって森田さん? 茶髪で髪ふわふわってした感じの。よくウチのクラスに遊びに来てる。モノマネ上手いね」
「そうそう、森田さん!」
「理玖と中学一緒らしいんだよね」
「なるほどねー。……うーん、なんだかなぁ。森田さん、あんまり私の好みのタイプじゃないんだよねぇ、人として」
「私もあんまり好きじゃないかも」
「宮田くんが森田さんと付き合うのも、なんか嫌かなぁ」
「分かる」
「上手く言えないけど、『今は忙しいだろうから』ってなんやねんって思っちゃったんだよね。森田さんの言い方も、宮田くんの弟の存在を蔑ろにする感じがしてさ……」
聖奈の心臓がドクンドクンと重々しく動いている。なんだか目が冴えてきた。
「あ、告白と言えばさー、吹奏楽部の先輩から聞いたんだけど、恋が実る鍵って知ってる?」
重々しい空気を変えようとする明るい美咲の声を聞きながら、聖奈は「このまま盗み聞きみたいなことをしていていいのか……?」と少し罪悪感を抱いた。そして少しだけ布団を深くかぶる。
「星ノ谷高校のどこかに隠されてるらしいっていうアレ? さっきお風呂入ってるときに7組の子たちが話してたわ」
「そうかも」
「あ、でも、願いが叶う鍵って言ってたような……違うやつかなぁ」
「合ってる合ってる。願いが叶う鍵って別名もあるみたいだから。昔……って言っても25年くらい前の話なんだけど、その鍵を見つけた人がエグレシア王国の貴族に見初められて結婚したんだって」
「めっちゃロマンティックじゃん!」
「ただ、3年前のメリアッシュ家襲撃事件で亡くなったんだけどね」
「え、アレここのOGなの?」
「うん、しかも吹奏楽部のOGなんだって」
「あの事件、すごい話題になってたよね」
「うん」
「そっか……。なるほどね。だから吹奏楽部では恋が実る鍵って言われ方してるのかもね」
その亡くなったOGが天国で旦那さんと幸せに暮らしていればいいなと誰かが願ったのだろう。「恋が実る鍵」という呼び方にそんな想いを見出していた。
「それにしてもさー、鍵だけで鍵穴側は無いんかい! って感じだよね」
茜のいつものおちゃらけた声が聞こえてきた。
遅刻坂を登りきった聖奈は校門の前でフーッと息を整えると、レンガ造りのアーケードをくぐり抜けた。そして今日は校舎と反対、校庭の方へと向かう。
都会にしては広々とした校庭には8台のバスが停まっていた。今日から1泊2日の宿泊研修が始まる。
聖奈は添乗員にリュックサックを預けて「1年8組」の札が置かれているバスに乗り込んだ。
「聖奈おはよー」
先に来ていた茜が声をかける。
「おはよ」
聖奈は茜の前の席に腰を下ろした。
バスの座席と宿泊研修の活動班は1週間前のLHRで決められた。
「校風的には、自由に班決めてくださいってなりそうだけど、あのヤマセンだからね。めんどくさがってくじ引きにするとみた」
と、LHR直前、加奈子は予想を口にした。
加奈子曰く、「2人の王子がいるこのクラスで自由に班決めさせたら揉めるでしょ?」とのことだったが、ヤマセンも同じ考えだったのだろうか。
「まだ入学してから1ヶ月も経ってないし、班とバス座席はくじ引きなー。」
ヤマセンは天パの髪をむしゃむしゃと掻きながら用意したくじの箱を教卓の上に置いた。ちなみに、ヤマセンとは担任の山中先生のことである。
こうして班及びバス座席決めは10分も経たずに終了。そして、幸いにも聖奈と茜は同じ班になった。男女混合で1班あたり6〜7人。聖奈のいるA班は、茜の他、山本美咲、竹本奏多、中島彰人、藤原蒼の6人で構成された。
ちなみに加奈子はB班。その他B班には、宮田くん含めキラキラした感じのメンバーが多い。そのせいか、班決め後の加奈子は珍しく憂鬱そうな顔をしていた。
出欠確認が終わり、バスがゆっくり動き出した。学校を出て、ゆるやかにビル街へと入っていく。
「金子さんって、中学のとき剣道やってた?」
隣に座っている中島くんが口を開いた。どう話しかけようか悩んでいた聖奈は、少し救われた気持ちになった。
「うん、やってたよ」
「やっぱり。大会で見たことあるなって思ってた」
実は聖奈はかなり剣道が強い。中学2年と3年で都大会個人優勝しているくらいだ。なので知っている人がいても不思議ではない。
「もしかして中島くんも剣道やってた?」
「うん。高校でもやるつもり。金子さんは剣道部入らないの?」
「化学部に入ろうかなって思ってて。勉強も頑張りたいから運動部は厳しい」
「そっか。まあ、気持ちは分かる。まだ仮入部だけど授業中寝そうになるの堪えてるもん」
聖奈は後ろの席から眺める午後の授業風景を思い出しながらふっと笑みをこぼした。
◆◆◆◆◆
バスが動き始めて1時間半。ガタガタと車体を揺らしながらバスは山道をゆっくり上っていく。聖奈は前の座席の背に取り付けられている取っ手を握りしめた。
明らかに気持ち悪そうな顔の生徒が出始めたところで前方の視界が開けてきた。どうやら目的地に着いたらしい。緑いっぱいの景色が広がっている。バスを降りたときに感じた、春と夏をほんのり混ぜ合わせたような風が心地良い。
と、自然溢れる空気に浸っているのも束の間。研修所に到着し支度を終えた星ノ谷高校の生徒たちは、またすぐバスに乗せられ、今度は山の麓の方へと連れて行かれた。
学校側が用意したカレーの食材を集めながら山を登っていき、研修所近くにある屋外キッチンで調理して食べる……というのが今日1日かけて行われるレクリエーションらしい。ちなみに、肉だけは腐らないように研修所の冷蔵庫で一足先に眠っているんだとか。先生の説明を聞きながら、「せめて山登りと食材集めは切り離そうよ……」と心の中で呟いたのは聖奈だけではなかった。
「さて、登りますか。クーラーボックスどうする?」
レクリエーションが開始されてすぐに茜が仕切ってくれた。
「1つは俺が持つよ」
「じゃあもう1つは僕が」
さすがに女子には持たせられないと思ったのか、竹本くんと中島くんがクーラーボックスを肩にかけた。
聖奈たち6人は山の中へと足を踏み入れていった。
レクリエーション開始から30分。半分くらい進んだだろうか。体力を温存するつもりだったのか最初から口数は少なめだったが、今となってはもう足音と呼吸音しか聞こえない。だんだんと6人の足取りは重くなってきている。
「あの、ちょっと休憩しない? そろそろ水分補給したいし」
少し道が平坦になったところで聖奈は声をかけた。自分もそうだが、何より美咲を休ませてあげたい。足元がフラつきはじめて息もかなり上がっている。
「賛成。ちょっとしんどすぎー」
茜が道の端に寄って腰を下ろした。
「美咲も大丈夫?」
聖奈は無言で座った美咲に「宿泊研修のしおり」と書かれた冊子を扇いで風を送った。
「ありがとう」
美咲はなんとか声を絞り出した。
各々水を飲んだりタオルで汗を拭いたり、しばらく無言の時間が流れる。
「なんか一回休んじゃうと立てなくなるよね」
少し落ち着いた茜が静寂に耐えきれず口を開いた。
「それなー」
竹本くんが気怠そうに賛同したところで聖奈が立ち上がる。
「あのさ、どっちか代わろうか? 食材持つの」
「パス……」
中島くんはクーラーボックスの紐を聖奈に渡した。
「え……大丈夫?」
竹本くんが目を丸くする。
「うん。体力には自信あるから」
聖奈は心配させないように笑顔を見せた。
「聖奈はこう見えて剣道全国ベスト8だから多分大丈夫だよ」
茜が付け加える。
「マジで!? 強っ!」
驚いた竹本くんの声のボリュームが一段階上がった。
「熊が出たら守ってね」
「いや、竹刀ないからさすがに厳しい」
冗談っぽく笑う茜に聖奈は冷静にツッコんだ。
「奏多のは僕が持つよ」
「助かる」
竹本くんが持っていたクーラーボックスに手をかけながら藤原くんが微笑んだ。そのままクーラーボックスを開けて中身を確認する。どう考えても水が入っている聖奈の方が重い。
「聖奈、そっちのクーラーボックス貸して。材料いくつかこっちで持つから」
「……。」
聖奈は藤原くんの方へと顔を向けた。目を丸くしたまま表情が止まっている。男子に「聖奈」と名前で呼ばれたのが久しぶりだったからだろうか。聖奈はなんだか懐かしい気持ちになった。風に揺れる葉の音が少し大きく聞こえる。
「あ……、ごめんね」
ほんの少しだけど生まれてしまった奇妙な間に気付いた藤原くんは、少し困ったように謝った。
「蒼は下の名前で呼ぶのが習慣になっちゃってるんだよね?」
藤原くんの寂しそうな顔に気付いた美咲が助太刀を入れた。
「あの、全然イヤだったわけじゃなくて。男の子に下の名前で呼ばれたのが久しぶりでびっくりしちゃって」
聖奈は慌てて誤解を解こうとした。
「やっぱ海外だとファーストネームで呼ぶ感じなんだね。あ、もちろん私も下の名前で呼んでくれていいからね!」
微妙な空気を察した茜はわざとおちゃらけた態度をとりながら立ち上がった。
「ありがとう、茜」
茜は藤原くんに微笑みながら頷いた。
「さて、そろそろ行きますか」
茜の合図と共に支度を整えはじめる。
「じゃあ、これだけお願い」
藤原くんの厚意を思い出した聖奈は、負担にならなさそうなじゃがいもを取り出しクーラーボックスを閉めた。
◆◆◆◆◆
少し日が落ちてきて、涼しい風がサラッと流れた。各班の鍋からカレーのいい匂いがあふれてくる。屋外に設けられた木製のテーブルの上には盛り付けられたカレーが6つ。
「美咲、盛り付けありがとう」
茜は完成したカレーにパチパチと小さく拍手を送りながら感謝を述べる。すると、調理場の方から聖奈が小走りで現れた。
「水持ってきたよー」
そのままペットボトルの水を紙コップに注いでいく。それを美咲が手際良く配っていく。
「では、食べますか」
聖奈が座ると同時に茜が手を合わせた。
「いただきます」
茜の声につられて各々小声で「いただきます」と口にし、スプーンを動かした。
「うん、普通にうまいわ!」
竹本くんが満足そうにガツガツ食べている。対照的に、その隣にいる藤原くんは上品にカレーを口に運び、味わうように咀嚼した。
「うん。美味しいよ」
藤原くんが優しく微笑む。このカレーの大部分を作ったと言っても過言ではない美咲の顔が少しだけ赤くなる。
「美咲って家でも料理するの?」
聖奈はカレーをすくいながら美咲の方を向いた。
「うーん、お菓子はよく作るよ」
美咲は照れくさそうにカレーを見つめている。
「だから手際良かったのか! 私、美咲みたいな人と結婚したいわ!」
茜は少しだけ俯く美咲を愛おしそうに見た。
「そういえば金子さん、初日の自己紹介のとき食べるの好きみたいなこと言ってたよね」
急に中島くんに自己紹介のときの話を振られた聖奈は目を丸くした。
「よく覚えてるね」
茜はチラッと中島くんの方を見る。
「剣道の話しろよって思ったから」
「なるほど」
剣道の話をするのは自慢っぽくなりそうだと思ってしまった聖奈は、当たり障りのない自己紹介を意識した。その結果が「食べるの好き」である。
5人の視線が集まっているのを感じて聖奈は恥ずかしくなった。
「改めて言うけど、世界の郷土料理を食べるのが好きって言ったわけで。食いしん坊キャラじゃないからね」
聖奈は冷静な口調で否定した。
「ちなみに聖奈はエグレシア料理目当てで海外研修狙ってるんだってさ」
茜がイタズラっぽい顔をする。
「いや、料理目当てってわけじゃないから! ……まあ、エグレシア料理、好きだけど」
聖奈は否定しきれなかった。
「エグレシア料理?」
聞きなれない単語に美咲が少し身体を乗り出しながら尋ねた。
「うん。素朴な家庭の味って感じで美味しいよ!」
聖奈は少しウキウキしたような顔で美咲の方を見た。
「メラールだっけ? 牛肉をトロトロに煮詰めたシチューみたいなやつ。多分日本人の口に合うと思う。美味しかった」
「茜も食べたことあるの?」
「この前聖奈に誘われて。美咲も今度一緒に行ってみる?」
「本場の味って感じでおすすめお店があるの、学校の近くに」
「うん!」
謎めいたエグレシア料理で盛り上がる女子トークを聞きながら、男性陣は黙々とカレーを食べている。
「そういえばさー、海外研修に行けるのって成績上位者だよね」
竹本くんは目線をカレーからフッとあげた。
星ノ谷高校には約1週間の海外研修制度がある。1年生の中から希望者8名がエグレシア王国の国立大学や研究所などを訪問することができるのだ。選抜方法は1年次前期中間試験。「学年順位20番台で参加できた生徒を私は見たことがない。」と星ノ谷高校に勤めて10年の地学の先生が授業中に言っていた。
「あー、それなら大丈夫だよ。聖奈はこう見えて入学直後の実力試験クラス2位だから」
茜は自分ごとのようにドヤ顔をしてみせた。入学して2日目に行われた校内実力試験。たしかに聖奈はクラス順位2位。そして学年順位は7位だったりする。
「え! なんで知ってるの!」
実力試験の得点は誰にも教えていない。聖奈は驚いて少し大きな声が出てしまった。
「ごめん。順位表渡されたときにチラッと見えちゃったんだよね。ヤマセン、順位表渡すとき、紙表面向けたまま教卓の上に置いてたじゃん? 私の次が聖奈だからさ」
「なるほど……」
確かに聖奈も後ろの人の順位が見えないように目を逸らした記憶がある。さすがいろいろと雑なヤマセン。隠していたわけではないが、茜に「テストどうだった?」と聞かれたときに「まあまあだった」とテキトーなことを言ってしまったのが申し訳なくなってきた。
「ていうか、運動もできて勉強もできるとか女版宮田理玖じゃん」
竹本くんはわざとらしく「やってらんねー」と言わんばかりの顔をしてみせた。
「ちなみにその実力試験、1位は宮田だから。ていうか学年1位なんだけどね」
竹本くんはスプーンを皿に軽くカツカツと打ちつけながら続けた。
「なんか、同じ人間って思えなくなってきた」
茜も竹本くんに合わせるかたちで「やってらんねー」の顔をしてみせた。
「実際、中学でじゃ『超人』って言われてたしな、あいつ」
「もしかして、竹本くんって宮田くんと同じ中学だったの?」
竹本くんから湧いて出た新事実に聖奈は思わず反応した。
「うん、そうだよ」
「聖奈も小学校同じだったんだよね?」
茜は聖奈の肩をポンと叩いた。
「あ、うん。転校したから途中までなんだけどね。それに、クラス違ったから宮田くんは覚えてないと思う」
聖奈は少しだけ寂しい気持ちになりながらも、それが顔に出ないように隠した。
「やっぱり宮田くんって中学でもモテたの?」
茜は興味津々という顔で竹本くんの方を見る。
「もうやっばいモテモテ。でも彼女作らないんだよね。なんか、弟が重い病気らしくて忙しいんだと。部活も入ってなかったし。高校でも入らないって言ってた」
突然竹本くんの口から出た暗い話に6人の空気は瞬時に重くなった。
「私も塾の友達から聞いたことある。余命何年みたいな病気だって。……それでも何事もないようにいつも明るく接してくれるからさ、理玖、すごいよね」
美咲がフォローを入れるかのように呟いた。
「マジか……」
中島くんがポツリと言葉を発する。少しだけひんやりとした夜の風がフーッと漂う。
「そういえばさ、みんな部活は何やるの?」
聖奈は「我ながら良い話題変更ができた」と心の中で自分に拍手を送った。6人は敢えて何事もなかったかのように部活の話をした。
◆◆◆◆◆
カサコソカサコソ。
聖奈は鞄の中身をベッドの上に並べはじめる。
「聖奈ー。どうしたのー?」
顔パックをした茜がベッドの上から声を飛ばした。
「歯ブラシ入れてたポーチが見当たらない」
「あのボーダー柄のやつ?」
「うん」
聖奈はベッドの上に並べた荷物を戻しはじめた。やはり見つからない。
「それ、お風呂場に持っていってなかった?」
歯磨きを終えた美咲が洗面台から戻ってきた。
「やっぱ大浴場かなー? ちょっと行ってくる」
聖奈は部屋の鍵を手に取った。
「私も行こうか?」
「大丈夫! すぐだから!」
そう言うと聖奈は駆け足気味に部屋を出た。ドアが閉まる瞬間、背後から「ていうか茜、顔パックしたまま行くつもりだったの?」と美咲の声が聞こえた。聖奈も全く同意見だ。
脱衣所の棚からポーチを取り出した聖奈は、スリッパを履き、大浴場の引き戸を音を立てて開けた。
ガラガラガラガラ。
ガラガラガラガラ。
廊下に出た聖奈が引き戸をゆっくり閉めるや否や、男湯側の引き戸が開いた。
石鹸の香りがフワッと舞う。男の子とは思えないくらい透明感のある白い肌に、聖奈は思わず見惚れてしまった。
「聖奈も今お風呂?」
藤原くんの声に聖奈は我に返った。
「ううん。ポーチ忘れちゃって。」
聖奈は首を軽く横に振りながら答えた。
「藤原くんは今お風呂入ったの?」
「うん。ちょっと体調崩しちゃって」
「え、大丈夫?」
「もう平気」
藤原くんは優しく微笑みかけた。あまりの眩しさに「ああ、こりゃ白王子って呼ばれるわけだわな」と聖奈は妙に納得した。
2人は並んで部屋のある棟へと歩きはじめる。
「あのさ、藤原くんに1つ聞きたいことがあって……」
聖奈はまっすぐ進行方向を見つめながら話し始める。
「何?」
「昔、子役かなんかやってた?」
聖奈は淡々とした口調で問いかけた。
「やってないけど……どうして?」
「なんか入学式のときから見たことある顔だなーって思ってたんだよね。……でも勘違いみたい」
聖奈は藤原くんの顔をじっと見た。と同時に目が合ってしまいすぐさま視線を逸らす。ペタペタと鳴るスリッパの音が聖奈の耳にやけに大きく響いた。
「……似てる俳優さんでもいたのかなぁ」
「まあ、藤原くんはイケメンだしね」
「え、あ、ありがとう。聖奈もかわいいよ」
聞きなれない「かわいい」の響きに聖奈は思わずポーチを落としそうになった。
「無理に褒めなくていいからー」
聖奈は茜っぽい喋り方で動揺を誤魔化した。
「本当にかわいいよ」
聖奈は「ああ、こりゃ白王子って呼ばれるわけだわな」と1分ぶり2度目の感想を抱いた。
「そういえば僕も一つ気になってたんだけど。聖奈って帰国子女だったりする?」
予想外の質問に聖奈の脳内はハテナの文字でいっぱいになった。
「違うよ。日本から出たことすらない。なんで?」
「なんとなく。英語の授業のときに発音がネイティブっぽいなって思って。夕食のとき、宮田くんと途中まで小学校同じだったって話してたから、海外の学校に転校したのかなって」
「ネイティブっぽいって初めて言われた!」
聖奈は子供っぽい笑顔を見せた。
「ちなみに転校したのは宮田くんの方だよ」
「あ、そうなんだ」
宿泊棟に着いたところで2人は足を止めた。
「じゃあ、私3階だから。また明日ね!」
「おやすみ」
「おやすみ!」
聖奈は階段を駆け足で登った。少しだけ速くなった鼓動を、階段のせいにするかのように。
◆◆◆◆◆
バサっ!
明日の帰り支度を済ませた聖奈はベッドに倒れ込んだ。正直かなり眠い。
「聖奈ー?」
茜が心配そうに顔を覗き込んできた。
「さすがに疲れた……」
聖奈はゆっくりと仰向けに体勢を変えた。
「レクのとき荷物持ってくれてたしね」
美咲の言う通りレクで頑張りすぎたのもあるが、多分1番の原因は寝不足だと思う。宿泊研修前日にも関わらず本を読んでいて寝る時間が遅くなってしまったのだ。
「えー、泊まり名物、恋バナしたかったのにー」
茜は不満そうな口ぶりだ。
「2人は気にせず喋ってていいから。私にはうるさくても明るくても寝れるという特技がある」
聖奈は倒れたまま親指を突き立てて「グッ!」のポーズをしてみせた。
「まあ、しゃーない。それじゃ美咲とアダルティな夜を過ごすとしますわ。おやすみ」
そう言って茜は聖奈の背中を優しくポンポンと叩き、美咲側のベッドの方へと移動した。
「じゃあ電気消すね!」
ピッ。
美咲が押したリモコンの音に合わせてフッと部屋が暗くなる。小さくオレンジ色に光った常夜灯が温かく感じる。
「ねえねえ、美咲はやっぱり藤原くんなの?」
眠気でぼんやりとした意識の中で茜の声が聞こえた。
「うーん、うん……。やっぱかっこいいよね。優しいし」
「分かるわー。さすがクオーター」
「あの顔で見つめられるとドキドキしちゃう」
「ほんと美しすぎだよね。あ、ちなみに私的に藤原くんは観賞用だから、安心してくれっ!」
「分かってるって! やっぱり二次元LOVEって感じなの?」
「いや、恋愛は普通に三次元派だけど。私は追われたい派なのだよ。モテる人はタイプじゃない!」
「じゃあ黒王子派ってわけでもないのか」
「うん。タイプじゃないね」
「めっちゃキッパリ言うねえ」
「もちろん。……やっぱりもうカップルできはじめてるのかなあ、もうすぐ1ヶ月だし」
酷い眠気に襲われていたはずの聖奈だったが、気付けば茜と美咲の恋バナに耳を傾けていた。
「カップルは分からないけど、告白してる人はいるっぽいよ。黒王子と白王子に。全滅っぽいけど」
「でしょうね。そういえばさっき、7組の子が『理玖、今は忙しいだろうからこの気持ちまだ伝えるつもりないんだー。』みたいなこと言ってたなー」
「それって森田さん? 茶髪で髪ふわふわってした感じの。よくウチのクラスに遊びに来てる。モノマネ上手いね」
「そうそう、森田さん!」
「理玖と中学一緒らしいんだよね」
「なるほどねー。……うーん、なんだかなぁ。森田さん、あんまり私の好みのタイプじゃないんだよねぇ、人として」
「私もあんまり好きじゃないかも」
「宮田くんが森田さんと付き合うのも、なんか嫌かなぁ」
「分かる」
「上手く言えないけど、『今は忙しいだろうから』ってなんやねんって思っちゃったんだよね。森田さんの言い方も、宮田くんの弟の存在を蔑ろにする感じがしてさ……」
聖奈の心臓がドクンドクンと重々しく動いている。なんだか目が冴えてきた。
「あ、告白と言えばさー、吹奏楽部の先輩から聞いたんだけど、恋が実る鍵って知ってる?」
重々しい空気を変えようとする明るい美咲の声を聞きながら、聖奈は「このまま盗み聞きみたいなことをしていていいのか……?」と少し罪悪感を抱いた。そして少しだけ布団を深くかぶる。
「星ノ谷高校のどこかに隠されてるらしいっていうアレ? さっきお風呂入ってるときに7組の子たちが話してたわ」
「そうかも」
「あ、でも、願いが叶う鍵って言ってたような……違うやつかなぁ」
「合ってる合ってる。願いが叶う鍵って別名もあるみたいだから。昔……って言っても25年くらい前の話なんだけど、その鍵を見つけた人がエグレシア王国の貴族に見初められて結婚したんだって」
「めっちゃロマンティックじゃん!」
「ただ、3年前のメリアッシュ家襲撃事件で亡くなったんだけどね」
「え、アレここのOGなの?」
「うん、しかも吹奏楽部のOGなんだって」
「あの事件、すごい話題になってたよね」
「うん」
「そっか……。なるほどね。だから吹奏楽部では恋が実る鍵って言われ方してるのかもね」
その亡くなったOGが天国で旦那さんと幸せに暮らしていればいいなと誰かが願ったのだろう。「恋が実る鍵」という呼び方にそんな想いを見出していた。
「それにしてもさー、鍵だけで鍵穴側は無いんかい! って感じだよね」
茜のいつものおちゃらけた声が聞こえてきた。
