銀光のセレスティーヌ ー 虚像の聖騎士と風変りな軍師 ー

皇宮の廊下に隣接する待合所(サロネ)。
窓の外では陽が傾き始め、まだ会議の緊張が解けきらない空気が漂っていた。
エルム・クロウたちは柔らかなソファに腰掛け、ジークフリードの帰りを待っていた。

廊下の向こうからジークフリードが近づいてきた。
マクシミリアンは弾かれたように立ち上がり、駆け寄りながら声をかけた。

「殿下! どうなりましたか?」

ジークフリードが大評議室で纏っていた殺気は、すっかり消えていた。
何かを吹っ切ったような顔だった。

「……負けたな」

マクシミリアンは自分の首まで懸けられていたことを思い出し、顔が青くなった。
エルム・クロウはカシュタイン子爵とともに立ち上がり、礼をした。

顔を上げ、ジークフリードの様子をうかがう。自分の策は失敗に終わったはずだ。それなのに、怒りの色はどこにもない。

「……さては、約束を守りませんでしたね?」

「『会議の間はお前の言うことを聞く』か? 半分は守ったぞ」

エルム・クロウはため息をついた。

「半分ですか……では、この首を差し上げるわけにはいきませんね。残りの半分はマクシミリアンの首で、どうぞご自由に」

「だから、俺の首まで勝手に差し出すな」

「お前、本当に面白い奴だな。元王国人」

「その『元王国人』という言い方なんとかなりませんか?」

「そうだな。たしかエルム……ん? 『知恵の黒烏(エルム・クロウ)』か。偽名だな」

「……」

マクシミリアンがここぞとばかりに言った。

「殿下、彼女の名はエレノア・クロムウェルです」

「マクシミリアン!」

「まあよい。本人がそう呼ばれたくないのだろう。では、エルム・クロウ、帰るとしよう。詳しい話はそこでしてやる」

◇

カシュタイン子爵の邸宅に戻ると、ジークフリードは食堂の席に着くなり、事の顛末を三人に伝えた。

カシュタイン子爵はしばらく考えたあと静かに言った。

「殿下がそれでよろしければ、私からは言うことはありませぬ」

マクシミリアンも頷いた。

「残念ではありますが、殿下と共に王国(ローゼンベルク)進攻に臨みたいと思います」

エルム・クロウは言った。

「……それで、殿下はせめて帝国元帥の座をお受けしたのでしょうか?」

「宰相のベルトルトはそのつもりだったらしいが……」

「まさか断ったのですか?」

ジークフリードは苦笑した。

「奴らの掌で踊るのが嫌でな。『黙れ』の一言で終わらせてやった。おかげで、うやむやになった。いざとなったら『俺の国を作る』と捨て台詞も吐いてきたがな」

エルム・クロウはそれを聞いて考え込んだ。

「……」

「それに俺は元帥でなくても、俺の軍団を率いて暴れることができれば問題ない」

エルム・クロウは、まだどこか思考の外にいるような声で答えた。

「……わかりました」

食事を終え、話がひと段落したのを見計らい、カシュタイン子爵が柔らかな声をかけた。

「ところで、クロムウェル殿」

名が『エレノア』だというのは息子のマクシミリアンから聞いて、知られてしまっているだろうとは思っていた。
だが突然、カシュタイン子爵に本名の姓で呼ばれたエルム・クロウは驚いた。

「子爵様。その呼び方は……それにマクシミリアン、さっき思ったのだけど私の姓を調べたの?」

「侍女に『聖騎士団にいた』って言ったらしいじゃないか」

エルム・クロウは自慢げに言うマクシミリアンを見て、ため息をついた。

「……うかつだったわ」

子爵は苦笑した。

「まあ、よいではないか。どうも『エルム・クロウ』というのは私には呼びにくくてな。この邸宅内だけでも許してはくれぬか?」

「……承知しました……ただ、クロムウェルの姓はあまり好きではありません。できれば『エレノア』とお呼び下さい」

「承知した。エレノア殿」

「ありがとうございます。それで何でございましょうか?」

「そうそう。話がずれてしまったな……どうだ? 毎日宿通いも大変であろう。今宵くらいは我が邸宅で休んでは? 来賓用の部屋もまだ余っているし」

「そんな。着替えも持参しておりませんし……」

「領地に残してきた妻の寝間着をお貸ししよう。背丈も同じくらいだからな」

「子爵様!?」

子爵は戸惑うエルム・クロウをよそに、ささっと侍女を呼んだ。

「お呼びでしょうか? 旦那様」

「そこの彼女……エレノア殿に妻の寝間着を用意してくれ」

「『エレノア』殿?……あ、はい。承知いたしました」

侍女は一瞬戸惑ったが、子爵がそう呼ぶ女性が目の前のエルム・クロウだと気づき、頷いた。

侍女たちは、最初はエルム・クロウを得体の知れない女性士官と思って警戒していたが、この数日間のやりとりですっかり心を開いていた。

帝国の女性たちにとって、歴史があり、優雅で文化的な王国(ローゼンベルク)の流行は興味深いものだった。

もっとも、エルム・クロウ自身はそうした流行にさほど関心があるわけではなく、詳しい知識を持っているわけでもない。それでも王国出身の彼女から聞く話は、侍女たちにとって十分に刺激的だった。

そんな侍女たちに、エルム・クロウは半ば拉致されるようにして、来賓用の部屋へ連れていかれた。

◇

その夜。
あてがわれた客間は、彼女が慣れ親しんだ質素な宿とは比べ物にならないほど広く、天蓋付きの寝台や、磨き上げられた鏡台までが備え付けられていた。

エルム・クロウはなかなか眠る気になれず、窓辺に腰掛け、月を見ていた。

「こんな豪華な寝間着で、こんな豪華なベッド。本当に久しぶりだわ……」

ジークフリードに『なぜ帝国に来たのか?』と問われたのを思い出す。

カシュタイン子爵家で過ごした数日は、思いのほか心地よかった。今日、初めてこの屋敷に泊まることになったが、それが妙に嬉しく感じられてしまった。

「何をやってるのかしら……」

こんなことでは、王国への復讐心が弱まってしまうのではないか。
エルム・クロウは、窓際のテーブルに置いた義手を見つめた。

自分が命を懸けて積み重ねてきたものよりも、見た目や血筋を選んだ王国。
その象徴として聖騎士団長に据えられたのが、セレスティーヌ・フォン・ランカスターだった。

「あの子、そういえばドルクハルトに勝って、ベルクマン将軍を退けたのね……」

エルム・クロウは、それを認めることを拒むように呟いた。

「……いいえ。きっとカイルたちがいたからだわ」

そう考えれば、セレスティーヌ自身の実力を認める必要はない。

だが、頭に浮かんだのは、かつての後輩たちの顔だった。

カイル。ミリア。フェリックス。

彼らのことを思い出すと、不思議と王国への復讐心は湧いてこなかった。

ふと窓の外を見ると、庭を囲う柵の外に人影が見えた。
敷地の外の通りを単に歩いているのではない。明らかに不審な動きをしていた。

よく見ると荷馬車の後ろから次々と人が降りている。
そして、数人が柵に手をかけてよじ登ろうとする。

(間違いない……刺客だわ)

エルム・クロウは急いで義手をつけ、剣を手に取ると、足音を殺して部屋を出た。

三人に伝えるべきか……いや、あの三人なら、刺客ごときに寝首をかかれることはない。それより、外の連中の数と配置を探る方が先だ。

明かりをつけ、警戒していることを見せれば、退いていくか?
いや、荷馬車が一台とは限らない。気づかれたとわかれば、寝込みを襲うのをやめ、数による制圧か、放火に切り替えてくるかもしれない。

そうなれば、侍女たちは間違いなく殺されるだろう。

エルム・クロウは暗闇の中、月明かりを頼りに一階の厨房の横の勝手口に静かに向かった。
夜の邸宅は静まり返り、自分の呼吸の音だけが妙に大きく聞こえた。

もう刺客は庭内に入っているだろう。
案の定、勝手口の外に複数の人の気配がした。

(入ってきたところを不意打ちするか……いや……)

エルム・クロウは勝手口の横に剣を立てかけ、扉を開けた。
そこには、フードを目深にかぶった二人の男がいた。

エルム・クロウは、二人に自然な口調で声をかけた。

「待っていたわ。入りなさい」

二人の男は驚いたように顔を見合わせた。

「貴様。何者だ?」

男たちは警戒し、腰の剣に手をかける。

エルム・クロウは両手を広げ、呆れたように言った。

「貴方たちの依頼主に頼まれて、先に潜入していた者よ。約束の時間より随分遅かったのね」

「なんだと? そんな話、聞いてないぞ。本当か?」

エルム・クロウは鋭い口調で、指示するように言った。

「詮索している時間はないわ。それより、逃走経路にはきちんと人を配置しているでしょうね?」

そのリーダー然とした雰囲気に押され、男たちは答えた。

「お、おう。南の正面の門と北の裏門に四人ずつだ」

「私が依頼主に必要だと伝えた人数は用意できたの?」

「もちろんだ。荷馬車四台で三十人」

「は? 全然足りないじゃない。ふざけないで!」

「いや……しかし、宰相閣下は三十人と……」

「文句を言ってやりたいところだけど、貴方たちに言っても仕方ないわね。それで? 任務後、すぐに離れられるよう、御者役は残したのでしょうね?」

「も、もちろんだ」

(御者役で四人、見張り役が八人。実質、邸宅内への突入は十八人ってところね)

「三人は二階の寝室にいるわ。東側の部屋が来賓用、西側が子爵たちの部屋よ」

(どうせ知っているはず。信用させるには、本当のことを混ぜるのが一番だわ)

「そんなことは百も承知だ。主力は直接バルコニーから突入する予定だ」

「なるほど。そこまで調べがついているのね。人が足りないだなんて怒ってしまってごめんなさい。貴方たちなら大丈夫そうね」

「いや、俺たちにとって『念には念を』は正しい考えだ。気にするな」

そう言って、二人はエルム・クロウに背を向け、厨房のほうへ静かに移動しようとした。
エルム・クロウは、立てかけておいた剣を拾い、素早く鞘から抜いた。

一人の首を切りつける。
もう一人が振り向くより早く、その胸を貫いた。
二人の男が、声を上げる間もなく崩れ落ちる。

エルム・クロウは血を払うように剣を振り、静かに呟いた。

「『念には念を』……だったかしら?」

二階から、窓ガラスの割れる音が響き、エルム・クロウは顔を上げた。

「人が多い分、思ったより雑なやり方なのね」

そして、わずかに口元を緩める。

「まずは二人。邸宅内には、あと十六人ってとこね……三人に期待するわ」