翌朝。
宿営地の広場に集められた聖騎士団の面々は、不安げにセレスを見つめていた。
セレスは勇気を振り絞り、毅然と語り始めた。
「皆さんに、伝えなければならないことがあります。私は……虚像の栄光にすがっていました。何も知らぬまま本物の英雄になろうとし、結果として、皆さんの命を危険に晒しました」
セレスの視線が、包帯を巻いた兵たちの列をゆっくりとなぞる。
「戦いで命を落とした方々は、私が殺したも同然です」
兵士たちの間に、重苦しい静寂が広がる。
「ですが、これからは違います。ここにいる戦術家、カイルと共に、戦い方を学び直します。新しいセレスティーヌとして」
露骨な失望のため息。戸惑いの眼差し。反応は様々だった。
「最初は、また失敗するかもしれません」
セレスは声を震わせながらも、正面から彼らを見据えた。
「でも、私には夢があります。王都を奪い返し、戦争を終わらせ、この国を本来の姿に戻すこと。そのためなら、どんな泥を啜ることも厭いません!」
軍服に着替えたカイルが、一歩前に出た。
「今日からは俺が指導する。異論がある者は申し出てくれ」
兵士たちは互いに顔を見合わせた。
一人は敗北したばかりの若き団長。もう一人は軍を退き、今では平民と共に農作業に明け暮れていた領主の男爵。
諦めにも似た困惑が漂う中、彼らの口を閉ざさせたのは――セレスの瞳に宿る、剥き出しの情熱だった。
自分たちもまた、「戦女神」という都合のよい虚像を彼女に押しつけ、その双肩にかかる重荷から目を逸らしていたのだと、少なくない兵が気づかされた。
その殻を自ら壊し、歩き始めた彼女の覚悟が、兵士たちの冷え切った心をわずかに動かした。
青空の下にカイルの声が響く。
「――ならば、早速訓練だ。覚悟しておくように」
◇
数時間後、麓の刈り入れを終えた畑には、動ける聖騎士団の兵たちと、ヴァルデンの正規兵が整列していた。
その先頭に立つセレスの声には、確かな張りがあった。
「今日から本格的な訓練を始めます」
隣に立つカイルは腕組みをし、その表情には一切の甘さがない。
「王都でやっていた『お遊びの演習』のことは忘れろ。できなければ、容赦なく居残りだ」
兵士たちの間に緊張が走る。カイルが声を張り上げた。
「まずは基本的な『密集防陣』からだ。聖騎士団は、指揮官の影響もあるのか、陣形を無視して突出する癖が染み付いているからな。……その前に一人紹介しよう。エミール! エミールはいるか?」
気まずそうに視線を逸らすセレスの前に、同じ年格好の少年がひょいと進み出た。
「何ですか? 叔父さん」
「ぷっ……おじさん」
ミリアが思わず吹き出した。
カイルは不機嫌そうに顔をしかめ、話を続ける。
「エミールは俺の甥だ。新たにセレスの副官になってもらう。ただしミリアにも引き続き副官を務めてもらう。二副官制だ。役割も異なるし、ミリアには作戦によって別動隊を任せることも増えるだろうからな」
「僕がですか? 訓練の段取りだけのはずじゃ……」
「いや、それだけではない。副官として、セレスの護衛も兼ねてもらう。こいつの二刀流の腕は、セレスほどではないが良いものを持っている。それに盗賊相手ではあるが実戦経験もある」
「わかりました。エミール・リンドバーグです。皆さん、よろしくお願いします!」
テキパキと動くエミールが、兵士たちに指示を出す。
「五人一組で行動してください。各グループに番号札を配ります。今回は初回なので試験形式です。合格基準は高めに設定していますから、手を抜かないようにしてください」
セレスは、同世代の少年に弾んだ声で挨拶した。
「セレスティーヌよ。よろしくね、エミール。その若さで実戦経験があるなんて凄いわね」
エミールはあどけなさが残る少女の言葉に、一瞬あっけにとられた。
「『その若さ』って……」
「え?」
「いえ、何でもありません……よろしくお願いします。セレスティーヌ様」
エミールは頭を下げると、カイルの傍に行き小声で言った。
「肖像画のセレスティーヌ様はもっと大人っぽくて凛々しかったですが、本当は天然なんですか?」
「なんだ? 期待と違ったか?」
エミールは「関係ありません」と顔を赤くして、ぷいっと兵士たちの輪の中へ戻っていった。
その様子を見て、カイルとミリアが顔を見合わせて小さく笑う。
「ミリア。小隊長クラスへの指導は、お前に頼みたい。聖騎士団へ合流してすぐ戦だったんだろう。連中と顔をつなぐには、ちょうどいい機会だ」
「そうね。わかったわ。任せて」
セレスはエミールの態度に少し首を傾げたが、手際よくグループ分けが進む様子を見守り、胸を高鳴らせた。
(本当に、ここから始まるんだ……)
◇
午後の訓練では、実戦形式の模擬戦が行われた。
セレスとエミールの隊に対し、カイルとミリアの隊が対峙する。
刈り入れを終えた畑の西側にセレスたち、東側にミリアの隊が布陣した。カイルは、その後ろの小高い丘に陣取っている。
「セレスティーヌ様の正面突破の力は大したものですが、それだけではいけません」
「わかっているわ、エミール。痛い目にあってるもの」
エミールが兵たちへ声を張る。
「皆さん、まずは防衛陣形を組んでください!」
丘の上で、カイルが鋭い指示を飛ばした。
「ほう……ならばこれはどうする? ミリア、右翼を突け!」
ミリアの隊が、セレスたちの右翼へ食いついてきた。
「エミール、右が危ないわ。行かせないで!」
エミールの率いる右翼が、盾を並べてそれを受け止める。押し返されたミリアの隊は、崩れかけたように、じりじりと後退し始めた。
(追えば、崩せる――)
手綱を握る手に力がこもった。ウィンドル平原と同じ光景だった。
追えば、右翼は前へ伸びる。そのとき、がら空きになるのは――。
セレスは丘を見上げた。さっきまでそこにあったカイルの旗が、消えている。
「……追わないで。右翼は盾を並べて、その場で踏みとどまって。予備隊は左へ!」
直後、左手の段々畑の一段下から、伏せていたカイルの本隊が姿を現した。土手を駆け上がり、セレスたちの左翼へと回り込もうとする。
右を追っていれば、伸びきった隊列を左と後ろから突かれ、三方から囲まれていた。
「左から本隊です! 罠です!」
エミールが叫ぶより早く、セレスの予備隊は左翼に到着していた。回り込もうとしたカイルの本隊の鼻先を、盾の壁が塞ぐ。
そこで、終了を告げる角笛が鳴り響いた。
「勝負なし、だな」
馬を寄せてきたカイルは、口の端を緩めた。
「想定以上に早く適応している。良いコンビになるかもしれん」
「エミールが右翼を支えてくれたおかげです」
駆け寄ってきたエミールに微笑むセレスに対し、カイルは釘を刺す。
「エミールもよくやった。だが二人とも、油断は禁物だぞ」
「「はい!」」
二人は声を揃えて、元気よく返事をした。
◇
グランゼイド帝国。
帝都ライヒェンバッハの皇宮では、皇帝ヴィルヘルム三世が玉座で思索に耽っていた。
重い扉を開けて入室したのは、宰相ベルトルト。
その片手には、伝信竜が運んできた小さな巻物が握られていた。
――伝信竜。
その姿から、伝説に語られる飛竜にちなんで「竜」の名を冠しているが、実態は翼を持った小柄な爬虫類に近い。
帰巣本能に頼るため一方通行だった伝書鳩に対し、知能の高い彼らは二地点間の「相互往復」をこなす。
さらによく訓練された個体ともなれば、移動し続ける部隊の巣箱さえも正確に追跡し、帰還することができた。
空を駆ける最新の情報伝達手段として、軍や貴族、それに一部の大商人といった限られた者たちの間で重用されている。
ベルトルトが差し出した巻物に、ヴィルヘルム三世は目を通した。
「王都の制圧は順調のようだな」
「は。最初は抵抗があったものの、今は落ち着いて、いや、『諦めて』かもしれませぬが、我々の命令におとなしく従っております」
「ふむ。例の副官の手腕が役に立っているのかもしれん。勇猛さが売りのディートハルトだけでは占領政策は荷が重いだろう」
「……かもしれませぬ」
「ところで、聖騎士団は王都から逃げおおせたそうだな」
「は。聖騎士団長と一部兵力は、ヴァルデン男爵領方面へ逃れたとのことです。王都を守る聖騎士団が民を見捨てて逃げるとは、なんとも無様ですな」
玉座の脇の卓には、大陸図が広げられている。ベルトルトの言葉に、皇帝はその一点を指した。
「所詮は大貴族の娘だからな。なるほど、山岳地方のヴァルデンか。天然の要塞、公爵令嬢の命を守るには丁度よい場所だ」
皇帝はそう呟くと、ふと思い出したように、宰相へ視線を向ける。
「まて、ヴァルデンか……ヴァルデンの領主は、ベスティア領の王国軍主力に加わっているのか?」
「いえ、軍を辞めさせられて、今は自領に引き籠もって農作業に身をやつす腑抜けだと聞いております。王都のディートハルト将軍に、追撃命令を出しますか?」
ヴィルヘルム三世は少し考え込んだ。
「本当にベスティア領への出兵に参加していないのだな?」
ベルトルトは困惑しながら返事をした。
「……はい。そのように聞いております」
「ならばよい。ヴァルデンの者が主戦場で軍略を振るっていれば、我が主力も無傷では済まぬと思ったが……国の存亡をかけた戦に呼ばれもせぬとはな。王国自身が、もはや使えぬと見限ったということだ」
皇帝は、興味を失ったように地図から指を離した。
「かつて名軍師を輩出したヴァルデン家も、今やただの百姓の家系に堕ちたというわけだな。僻地のヴァルデン領など、今は戦略的に何の価値もない」
「放置なさるので?」
「兵の数も大してなかろう。聖騎士団長が怯えてヴァルデン領に籠もるならそれでよし。だが、のこのこ出てくるようなら――そのときに叩き潰せばよい」
「かしこまりました」
ベルトルトは深々と頭を下げた。
だが、その僻地では今、聖騎士団が静かに、しかし確実に、牙を研ぎ始めていた。
――皇帝は、まだそれを知らない。
宿営地の広場に集められた聖騎士団の面々は、不安げにセレスを見つめていた。
セレスは勇気を振り絞り、毅然と語り始めた。
「皆さんに、伝えなければならないことがあります。私は……虚像の栄光にすがっていました。何も知らぬまま本物の英雄になろうとし、結果として、皆さんの命を危険に晒しました」
セレスの視線が、包帯を巻いた兵たちの列をゆっくりとなぞる。
「戦いで命を落とした方々は、私が殺したも同然です」
兵士たちの間に、重苦しい静寂が広がる。
「ですが、これからは違います。ここにいる戦術家、カイルと共に、戦い方を学び直します。新しいセレスティーヌとして」
露骨な失望のため息。戸惑いの眼差し。反応は様々だった。
「最初は、また失敗するかもしれません」
セレスは声を震わせながらも、正面から彼らを見据えた。
「でも、私には夢があります。王都を奪い返し、戦争を終わらせ、この国を本来の姿に戻すこと。そのためなら、どんな泥を啜ることも厭いません!」
軍服に着替えたカイルが、一歩前に出た。
「今日からは俺が指導する。異論がある者は申し出てくれ」
兵士たちは互いに顔を見合わせた。
一人は敗北したばかりの若き団長。もう一人は軍を退き、今では平民と共に農作業に明け暮れていた領主の男爵。
諦めにも似た困惑が漂う中、彼らの口を閉ざさせたのは――セレスの瞳に宿る、剥き出しの情熱だった。
自分たちもまた、「戦女神」という都合のよい虚像を彼女に押しつけ、その双肩にかかる重荷から目を逸らしていたのだと、少なくない兵が気づかされた。
その殻を自ら壊し、歩き始めた彼女の覚悟が、兵士たちの冷え切った心をわずかに動かした。
青空の下にカイルの声が響く。
「――ならば、早速訓練だ。覚悟しておくように」
◇
数時間後、麓の刈り入れを終えた畑には、動ける聖騎士団の兵たちと、ヴァルデンの正規兵が整列していた。
その先頭に立つセレスの声には、確かな張りがあった。
「今日から本格的な訓練を始めます」
隣に立つカイルは腕組みをし、その表情には一切の甘さがない。
「王都でやっていた『お遊びの演習』のことは忘れろ。できなければ、容赦なく居残りだ」
兵士たちの間に緊張が走る。カイルが声を張り上げた。
「まずは基本的な『密集防陣』からだ。聖騎士団は、指揮官の影響もあるのか、陣形を無視して突出する癖が染み付いているからな。……その前に一人紹介しよう。エミール! エミールはいるか?」
気まずそうに視線を逸らすセレスの前に、同じ年格好の少年がひょいと進み出た。
「何ですか? 叔父さん」
「ぷっ……おじさん」
ミリアが思わず吹き出した。
カイルは不機嫌そうに顔をしかめ、話を続ける。
「エミールは俺の甥だ。新たにセレスの副官になってもらう。ただしミリアにも引き続き副官を務めてもらう。二副官制だ。役割も異なるし、ミリアには作戦によって別動隊を任せることも増えるだろうからな」
「僕がですか? 訓練の段取りだけのはずじゃ……」
「いや、それだけではない。副官として、セレスの護衛も兼ねてもらう。こいつの二刀流の腕は、セレスほどではないが良いものを持っている。それに盗賊相手ではあるが実戦経験もある」
「わかりました。エミール・リンドバーグです。皆さん、よろしくお願いします!」
テキパキと動くエミールが、兵士たちに指示を出す。
「五人一組で行動してください。各グループに番号札を配ります。今回は初回なので試験形式です。合格基準は高めに設定していますから、手を抜かないようにしてください」
セレスは、同世代の少年に弾んだ声で挨拶した。
「セレスティーヌよ。よろしくね、エミール。その若さで実戦経験があるなんて凄いわね」
エミールはあどけなさが残る少女の言葉に、一瞬あっけにとられた。
「『その若さ』って……」
「え?」
「いえ、何でもありません……よろしくお願いします。セレスティーヌ様」
エミールは頭を下げると、カイルの傍に行き小声で言った。
「肖像画のセレスティーヌ様はもっと大人っぽくて凛々しかったですが、本当は天然なんですか?」
「なんだ? 期待と違ったか?」
エミールは「関係ありません」と顔を赤くして、ぷいっと兵士たちの輪の中へ戻っていった。
その様子を見て、カイルとミリアが顔を見合わせて小さく笑う。
「ミリア。小隊長クラスへの指導は、お前に頼みたい。聖騎士団へ合流してすぐ戦だったんだろう。連中と顔をつなぐには、ちょうどいい機会だ」
「そうね。わかったわ。任せて」
セレスはエミールの態度に少し首を傾げたが、手際よくグループ分けが進む様子を見守り、胸を高鳴らせた。
(本当に、ここから始まるんだ……)
◇
午後の訓練では、実戦形式の模擬戦が行われた。
セレスとエミールの隊に対し、カイルとミリアの隊が対峙する。
刈り入れを終えた畑の西側にセレスたち、東側にミリアの隊が布陣した。カイルは、その後ろの小高い丘に陣取っている。
「セレスティーヌ様の正面突破の力は大したものですが、それだけではいけません」
「わかっているわ、エミール。痛い目にあってるもの」
エミールが兵たちへ声を張る。
「皆さん、まずは防衛陣形を組んでください!」
丘の上で、カイルが鋭い指示を飛ばした。
「ほう……ならばこれはどうする? ミリア、右翼を突け!」
ミリアの隊が、セレスたちの右翼へ食いついてきた。
「エミール、右が危ないわ。行かせないで!」
エミールの率いる右翼が、盾を並べてそれを受け止める。押し返されたミリアの隊は、崩れかけたように、じりじりと後退し始めた。
(追えば、崩せる――)
手綱を握る手に力がこもった。ウィンドル平原と同じ光景だった。
追えば、右翼は前へ伸びる。そのとき、がら空きになるのは――。
セレスは丘を見上げた。さっきまでそこにあったカイルの旗が、消えている。
「……追わないで。右翼は盾を並べて、その場で踏みとどまって。予備隊は左へ!」
直後、左手の段々畑の一段下から、伏せていたカイルの本隊が姿を現した。土手を駆け上がり、セレスたちの左翼へと回り込もうとする。
右を追っていれば、伸びきった隊列を左と後ろから突かれ、三方から囲まれていた。
「左から本隊です! 罠です!」
エミールが叫ぶより早く、セレスの予備隊は左翼に到着していた。回り込もうとしたカイルの本隊の鼻先を、盾の壁が塞ぐ。
そこで、終了を告げる角笛が鳴り響いた。
「勝負なし、だな」
馬を寄せてきたカイルは、口の端を緩めた。
「想定以上に早く適応している。良いコンビになるかもしれん」
「エミールが右翼を支えてくれたおかげです」
駆け寄ってきたエミールに微笑むセレスに対し、カイルは釘を刺す。
「エミールもよくやった。だが二人とも、油断は禁物だぞ」
「「はい!」」
二人は声を揃えて、元気よく返事をした。
◇
グランゼイド帝国。
帝都ライヒェンバッハの皇宮では、皇帝ヴィルヘルム三世が玉座で思索に耽っていた。
重い扉を開けて入室したのは、宰相ベルトルト。
その片手には、伝信竜が運んできた小さな巻物が握られていた。
――伝信竜。
その姿から、伝説に語られる飛竜にちなんで「竜」の名を冠しているが、実態は翼を持った小柄な爬虫類に近い。
帰巣本能に頼るため一方通行だった伝書鳩に対し、知能の高い彼らは二地点間の「相互往復」をこなす。
さらによく訓練された個体ともなれば、移動し続ける部隊の巣箱さえも正確に追跡し、帰還することができた。
空を駆ける最新の情報伝達手段として、軍や貴族、それに一部の大商人といった限られた者たちの間で重用されている。
ベルトルトが差し出した巻物に、ヴィルヘルム三世は目を通した。
「王都の制圧は順調のようだな」
「は。最初は抵抗があったものの、今は落ち着いて、いや、『諦めて』かもしれませぬが、我々の命令におとなしく従っております」
「ふむ。例の副官の手腕が役に立っているのかもしれん。勇猛さが売りのディートハルトだけでは占領政策は荷が重いだろう」
「……かもしれませぬ」
「ところで、聖騎士団は王都から逃げおおせたそうだな」
「は。聖騎士団長と一部兵力は、ヴァルデン男爵領方面へ逃れたとのことです。王都を守る聖騎士団が民を見捨てて逃げるとは、なんとも無様ですな」
玉座の脇の卓には、大陸図が広げられている。ベルトルトの言葉に、皇帝はその一点を指した。
「所詮は大貴族の娘だからな。なるほど、山岳地方のヴァルデンか。天然の要塞、公爵令嬢の命を守るには丁度よい場所だ」
皇帝はそう呟くと、ふと思い出したように、宰相へ視線を向ける。
「まて、ヴァルデンか……ヴァルデンの領主は、ベスティア領の王国軍主力に加わっているのか?」
「いえ、軍を辞めさせられて、今は自領に引き籠もって農作業に身をやつす腑抜けだと聞いております。王都のディートハルト将軍に、追撃命令を出しますか?」
ヴィルヘルム三世は少し考え込んだ。
「本当にベスティア領への出兵に参加していないのだな?」
ベルトルトは困惑しながら返事をした。
「……はい。そのように聞いております」
「ならばよい。ヴァルデンの者が主戦場で軍略を振るっていれば、我が主力も無傷では済まぬと思ったが……国の存亡をかけた戦に呼ばれもせぬとはな。王国自身が、もはや使えぬと見限ったということだ」
皇帝は、興味を失ったように地図から指を離した。
「かつて名軍師を輩出したヴァルデン家も、今やただの百姓の家系に堕ちたというわけだな。僻地のヴァルデン領など、今は戦略的に何の価値もない」
「放置なさるので?」
「兵の数も大してなかろう。聖騎士団長が怯えてヴァルデン領に籠もるならそれでよし。だが、のこのこ出てくるようなら――そのときに叩き潰せばよい」
「かしこまりました」
ベルトルトは深々と頭を下げた。
だが、その僻地では今、聖騎士団が静かに、しかし確実に、牙を研ぎ始めていた。
――皇帝は、まだそれを知らない。
