セレスは震える足に力を込めて立ち上がった。
「ただ一人の男……?」
「はい」
だが、そのあとミリアは珍しく口ごもった。
「セレス様……カイル・フォン・ヴァルデン男爵をご存じでしょうか」
「ヴァルデン男爵家の名前は聞いたことがありますが、詳しくは知りません」
セレスが顎に手を当てると、ミリアはわずかに視線を落とした。
「私の古い友人です」
ミリアの声には複雑な感情が混ざっていた。
「士官学校時代からの知り合いで……彼は優秀な戦術家でした。ヴァルデン家は爵位こそ男爵ですが、代々王国に軍事顧問を輩出してきた家柄です」
「なるほど、そのような家柄でしたら、立派な兵士も揃っているかもしれませんね」
「兵士もですが、カイル本人が協力してくれれば、必ず現状を打開できるはずです」
セレスは少し意外そうな表情を浮かべた。
「あなたが、そんな風に誰かを頼るのは珍しいですね」
「彼は、特別ですから……」
ミリアは目を伏せた。
その日のうちに、彼らは南へ向けて出発した。
王都からヴァルデン領まで、距離はさほどでもない。だが道は次第に山へと上っていく。負傷兵を抱えての行軍は思うように進まず、兵たちの足取りは重かった。
――ある朝。
野営地を発ってまもなく、セレスは馬を並べ、ミリアに小声で尋ねた。
「ヴァルデン卿は戦術家なのでしょう? なぜベスティア領防衛の主力部隊に呼ばれなかったの?」
聖騎士団長の口調が、ふっとほどけていた。二人きりのときだけ、セレスはこうして素の声を聞かせる。
「上官に嫌われて、軍籍を外されています。今は自領で農業に励んでいると聞きました」
「農業……? 士官学校を出て、農業をしているというの?」
セレスは思わず聞き返した。
「自分の気に入らないことがあると、上官だろうと高位の貴族だろうと、容赦なく正論を叩きつける悪い癖がありますから。『家督を継いで領地の政務に励む』という名目で、中央から厄介払いされたのです」
ミリアは苦笑いしながら続けた。
「それ以降は軍に関わっていませんが、このまま王国が潰えるとなれば、協力してくれる可能性はあります。ただ、それもセレス様次第です」
「私次第か……他には?」
「あと、彼は『ヴァルデン卿』と呼ばれるのを嫌います。どうか、名前で呼んであげてください。それに――」
ミリアはそこで言葉を切った。
「それに、何?」
「……いえ、なんでもありません」
ミリアは前を見据え、馬の足を速めた。
◇
数日後の夕刻。
彼らは目的地である小さな城に到着した。
城というより、石壁に囲まれた館といったほうがいいだろう。
山々に囲まれた天然の要害。しかし領内には、山間とは思えないほど段々畑が幾重にも広がっていた。
館に三千もの兵や馬が入れるはずもない。ミリアは兵たちに、石壁の外の草地で待機するよう命じた。「畑には決して踏み入らないように」と言い添えるのも忘れなかった。
馬を降りたミリアは、セレスを振り返った。
「こちらです」
先導するミリアが、粗末な木戸を叩く。
しばらくして扉が開き――現れたのは、一人の青年だった。
カイル・フォン・ヴァルデン男爵。
三十近いと聞いていたが、それよりも随分と若く見える。ぼさぼさの黒髪と、その奥にある知的で鋭い眼差しが印象的だ。
身にまとっているのは貴族装束ではなく、泥に汚れた土色の麻衣。その手には、男爵という肩書きには不釣り合いな麦わら帽子が握られていた。
「セレス様は応接室でお待ちください。私は彼と外で話をします」
セレスは黙って頷くと、使用人の後についていった。
ミリアは主君の後ろ姿が見えなくなったのを確認し、カイルと共に庭へと向かう。
「久しぶりだな、ミリア」
「カイル……十年ぶりくらいかしら? 元気そうでよかった」
短い言葉の後に沈黙が落ちる。
本来ならば、懐かしさを語り合ってもおかしくない年月が過ぎている。だが二人の間には、そんな空気はなかった。
「それで、何の用だ? 士官学校時代の旧友に会いに来るには随分と大所帯だな」
ぶっきらぼうな口調。しかし、追い返そうという意思は感じられない。
ミリアは表情を引き締めた。
「王国が危機に瀕しているわ」
「王都が陥落したことなら知っている」
「なら話は早いわ」
ミリアは王都で起きた出来事と、セレスを連れてきた理由を簡潔に説明した。
カイルは話が終わるまで腕を組んで黙っていた。
「……なるほどな。事情はわかった」
その反応に、ミリアはわずかに安堵した。
「カイル。私たちはそれぞれの道を歩んだ。だから今さら昔の話をするつもりはないわ」
ミリアは真っすぐカイルを見た。
「でも今だけは違う。王国を救うために、あなたの力が必要なの」
カイルはしばらく何も答えなかった。山風が二人の間を吹き抜ける。
やがてカイルは苦笑とも諦めともつかない表情を浮かべた。
「……わかった。話だけは聞こう」
ミリアの肩から、少しだけ力が抜ける。
「ありがとう。カイル」
「礼はまだ早い」
カイルは踵を返した。
「その聖騎士団長とやらに会ってから決める」
そう言って館へ向かう。
ミリアはその背中を見つめた。
泥にまみれた麻衣に変わっても、彼は十年前と少しも変わっていないように見えた。
◇
その頃。
簡素な応接室で一人待たされていたセレスは、焦燥感に駆られていた。
(早く王都の人々を救わなくては……)
不意に、扉が乱暴に開いた。
「――お待たせした。貴女が、噂の聖騎士団長様のようだな」
カイルのその態度は不遜そのものだった。公爵家令嬢に向けるものとは、とても思えない。後からついてきたミリアが心配そうな表情をしていた。
「あ……」
セレスは慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。
「カイル様、お願いです。どうか、私に力を貸してください……!」
「いきなりだな。力とは兵のことか? 生憎、どこぞの大貴族様と違って、大した兵数は抱えていないがな」
「そ、それでも、聖騎士団の生き残り三千に、カイル様の兵を加えれば……それに、義勇兵として領民に声をかけてくだされば……」
「兵のみならず領民もか?」
「はい。先の戦いでは後れを取りましたが、私は王都を取り戻す覚悟です!」
「そして、無駄死にさせろと?」
「そんなことは二度とさせません。王国には戦女神の加護があります。それに、正義はこちら側にあるのです!」
「先の戦いでは加護と正義がなかったということか?」
「そ、それは……私の信念が足りなかったのかもしれません」
「神の加護とか、正義とか、信念だとか、心地よい言葉ではあるが、そんなもので戦には勝てんさ」
「貴方は戦女神の加護を信じてないのですか?」
「信じているさ。ただ委ねたりはしない。貴女にわかりやすく言うと、正しい行いをする者に加護は降りるものさ」
「正しい行いですか。それが正義というものではないのですか?」
カイルはため息をついた。
「正しい行いというのは、自分が正しいと主張することではない。そんなこともわからんのか?」
何かを言い返したくても、それを裏打ちする言葉も経験もないセレスは、悔しそうに黙り込む。
反応のなくなったセレスを見て、カイルは「困ったものだ」とでも言いたげに頭をかいた。
「……まあいい。そういえば剣には相当な自信があるんだろう? どうだ、俺と勝負しないか? なんなら、貴女が勝ったら兵を貸してやってもいいぞ」
「私に、手合わせを申し込むとおっしゃるのですか?」
「そうだ。口で話すより、その方が早い。俺も剣の腕は人並み以上だ。そこらの剣士には負けたことはない。貴女の『正義』とやらが本物かどうか、確かめてやる」
「カイル! 何をするつもりなの!」
ミリアが、慌てて二人の間に割って入る。
「ミリア、下がっていろ」
カイルの声は冷静だった。
「このお嬢様には、現実を見せる必要がある。……さあ、表に出ようか」
カイルはそれだけ言うと、さっさと応接室を出ていった。
セレスは一瞬ためらったが、すぐにその背中を追った。
館の裏手には、土を踏み固めた小さな広場があった。
カイルは納屋の軒先に立てかけてあった二本の訓練用木剣へと歩み寄った。鍬や鋤と並んで置かれているあたり、日頃から使っているらしい。
まず自分用に一本を掴み取ると、流れるような動作で、もう一本をセレスへと放り投げる。
「っ……!」
セレスは飛んできた木剣を、パシッと右手で受け止めた。カイルは木剣を軽く振り、不敵な笑みを浮かべる。
セレスは唇を強く噛み締め、木剣を構えた。
「ただ一人の男……?」
「はい」
だが、そのあとミリアは珍しく口ごもった。
「セレス様……カイル・フォン・ヴァルデン男爵をご存じでしょうか」
「ヴァルデン男爵家の名前は聞いたことがありますが、詳しくは知りません」
セレスが顎に手を当てると、ミリアはわずかに視線を落とした。
「私の古い友人です」
ミリアの声には複雑な感情が混ざっていた。
「士官学校時代からの知り合いで……彼は優秀な戦術家でした。ヴァルデン家は爵位こそ男爵ですが、代々王国に軍事顧問を輩出してきた家柄です」
「なるほど、そのような家柄でしたら、立派な兵士も揃っているかもしれませんね」
「兵士もですが、カイル本人が協力してくれれば、必ず現状を打開できるはずです」
セレスは少し意外そうな表情を浮かべた。
「あなたが、そんな風に誰かを頼るのは珍しいですね」
「彼は、特別ですから……」
ミリアは目を伏せた。
その日のうちに、彼らは南へ向けて出発した。
王都からヴァルデン領まで、距離はさほどでもない。だが道は次第に山へと上っていく。負傷兵を抱えての行軍は思うように進まず、兵たちの足取りは重かった。
――ある朝。
野営地を発ってまもなく、セレスは馬を並べ、ミリアに小声で尋ねた。
「ヴァルデン卿は戦術家なのでしょう? なぜベスティア領防衛の主力部隊に呼ばれなかったの?」
聖騎士団長の口調が、ふっとほどけていた。二人きりのときだけ、セレスはこうして素の声を聞かせる。
「上官に嫌われて、軍籍を外されています。今は自領で農業に励んでいると聞きました」
「農業……? 士官学校を出て、農業をしているというの?」
セレスは思わず聞き返した。
「自分の気に入らないことがあると、上官だろうと高位の貴族だろうと、容赦なく正論を叩きつける悪い癖がありますから。『家督を継いで領地の政務に励む』という名目で、中央から厄介払いされたのです」
ミリアは苦笑いしながら続けた。
「それ以降は軍に関わっていませんが、このまま王国が潰えるとなれば、協力してくれる可能性はあります。ただ、それもセレス様次第です」
「私次第か……他には?」
「あと、彼は『ヴァルデン卿』と呼ばれるのを嫌います。どうか、名前で呼んであげてください。それに――」
ミリアはそこで言葉を切った。
「それに、何?」
「……いえ、なんでもありません」
ミリアは前を見据え、馬の足を速めた。
◇
数日後の夕刻。
彼らは目的地である小さな城に到着した。
城というより、石壁に囲まれた館といったほうがいいだろう。
山々に囲まれた天然の要害。しかし領内には、山間とは思えないほど段々畑が幾重にも広がっていた。
館に三千もの兵や馬が入れるはずもない。ミリアは兵たちに、石壁の外の草地で待機するよう命じた。「畑には決して踏み入らないように」と言い添えるのも忘れなかった。
馬を降りたミリアは、セレスを振り返った。
「こちらです」
先導するミリアが、粗末な木戸を叩く。
しばらくして扉が開き――現れたのは、一人の青年だった。
カイル・フォン・ヴァルデン男爵。
三十近いと聞いていたが、それよりも随分と若く見える。ぼさぼさの黒髪と、その奥にある知的で鋭い眼差しが印象的だ。
身にまとっているのは貴族装束ではなく、泥に汚れた土色の麻衣。その手には、男爵という肩書きには不釣り合いな麦わら帽子が握られていた。
「セレス様は応接室でお待ちください。私は彼と外で話をします」
セレスは黙って頷くと、使用人の後についていった。
ミリアは主君の後ろ姿が見えなくなったのを確認し、カイルと共に庭へと向かう。
「久しぶりだな、ミリア」
「カイル……十年ぶりくらいかしら? 元気そうでよかった」
短い言葉の後に沈黙が落ちる。
本来ならば、懐かしさを語り合ってもおかしくない年月が過ぎている。だが二人の間には、そんな空気はなかった。
「それで、何の用だ? 士官学校時代の旧友に会いに来るには随分と大所帯だな」
ぶっきらぼうな口調。しかし、追い返そうという意思は感じられない。
ミリアは表情を引き締めた。
「王国が危機に瀕しているわ」
「王都が陥落したことなら知っている」
「なら話は早いわ」
ミリアは王都で起きた出来事と、セレスを連れてきた理由を簡潔に説明した。
カイルは話が終わるまで腕を組んで黙っていた。
「……なるほどな。事情はわかった」
その反応に、ミリアはわずかに安堵した。
「カイル。私たちはそれぞれの道を歩んだ。だから今さら昔の話をするつもりはないわ」
ミリアは真っすぐカイルを見た。
「でも今だけは違う。王国を救うために、あなたの力が必要なの」
カイルはしばらく何も答えなかった。山風が二人の間を吹き抜ける。
やがてカイルは苦笑とも諦めともつかない表情を浮かべた。
「……わかった。話だけは聞こう」
ミリアの肩から、少しだけ力が抜ける。
「ありがとう。カイル」
「礼はまだ早い」
カイルは踵を返した。
「その聖騎士団長とやらに会ってから決める」
そう言って館へ向かう。
ミリアはその背中を見つめた。
泥にまみれた麻衣に変わっても、彼は十年前と少しも変わっていないように見えた。
◇
その頃。
簡素な応接室で一人待たされていたセレスは、焦燥感に駆られていた。
(早く王都の人々を救わなくては……)
不意に、扉が乱暴に開いた。
「――お待たせした。貴女が、噂の聖騎士団長様のようだな」
カイルのその態度は不遜そのものだった。公爵家令嬢に向けるものとは、とても思えない。後からついてきたミリアが心配そうな表情をしていた。
「あ……」
セレスは慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。
「カイル様、お願いです。どうか、私に力を貸してください……!」
「いきなりだな。力とは兵のことか? 生憎、どこぞの大貴族様と違って、大した兵数は抱えていないがな」
「そ、それでも、聖騎士団の生き残り三千に、カイル様の兵を加えれば……それに、義勇兵として領民に声をかけてくだされば……」
「兵のみならず領民もか?」
「はい。先の戦いでは後れを取りましたが、私は王都を取り戻す覚悟です!」
「そして、無駄死にさせろと?」
「そんなことは二度とさせません。王国には戦女神の加護があります。それに、正義はこちら側にあるのです!」
「先の戦いでは加護と正義がなかったということか?」
「そ、それは……私の信念が足りなかったのかもしれません」
「神の加護とか、正義とか、信念だとか、心地よい言葉ではあるが、そんなもので戦には勝てんさ」
「貴方は戦女神の加護を信じてないのですか?」
「信じているさ。ただ委ねたりはしない。貴女にわかりやすく言うと、正しい行いをする者に加護は降りるものさ」
「正しい行いですか。それが正義というものではないのですか?」
カイルはため息をついた。
「正しい行いというのは、自分が正しいと主張することではない。そんなこともわからんのか?」
何かを言い返したくても、それを裏打ちする言葉も経験もないセレスは、悔しそうに黙り込む。
反応のなくなったセレスを見て、カイルは「困ったものだ」とでも言いたげに頭をかいた。
「……まあいい。そういえば剣には相当な自信があるんだろう? どうだ、俺と勝負しないか? なんなら、貴女が勝ったら兵を貸してやってもいいぞ」
「私に、手合わせを申し込むとおっしゃるのですか?」
「そうだ。口で話すより、その方が早い。俺も剣の腕は人並み以上だ。そこらの剣士には負けたことはない。貴女の『正義』とやらが本物かどうか、確かめてやる」
「カイル! 何をするつもりなの!」
ミリアが、慌てて二人の間に割って入る。
「ミリア、下がっていろ」
カイルの声は冷静だった。
「このお嬢様には、現実を見せる必要がある。……さあ、表に出ようか」
カイルはそれだけ言うと、さっさと応接室を出ていった。
セレスは一瞬ためらったが、すぐにその背中を追った。
館の裏手には、土を踏み固めた小さな広場があった。
カイルは納屋の軒先に立てかけてあった二本の訓練用木剣へと歩み寄った。鍬や鋤と並んで置かれているあたり、日頃から使っているらしい。
まず自分用に一本を掴み取ると、流れるような動作で、もう一本をセレスへと放り投げる。
「っ……!」
セレスは飛んできた木剣を、パシッと右手で受け止めた。カイルは木剣を軽く振り、不敵な笑みを浮かべる。
セレスは唇を強く噛み締め、木剣を構えた。
