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遠くにあった意識が徐々に戻ってくる。
ぼやけた視界に一つ瞬きをすれば、冷たい雫が頬をつたった。
目を擦って身体を起こせば、周辺にはゴミが溢れていて思考が止まる。
「え、」
何本ものペットボトルに、散らかし飛んだティッシュの塊。脱ぎ捨てられた衣類の残骸と、床にばら撒かれたままの郵便物。
ゴミと埃の積もったその汚い部屋には、一度だけ見覚えがあった。
「なんで…」
昨日、夢で見たばかりの光景が再び目の前に広がっている。
その光景に戸惑いながらも、私は先程まで学校の保健室のベッドに居たはずの記憶を思い返す。
おそらく、私はあのまま眠ってしまったのだろう。
昨日見た夢をもう一度見るなんて、何とも不思議だと思った。
しかし、夢の中と分かっていても目の前に広がる汚い部屋はやはりリアルで、本当に夢なのかと疑いたくなる。
ベッドのマットレスの柔らかさや汚いゴミへの不快感、閉め切ったカーテンに籠もった空気など、まるで現実と変わりないように感じて少し怖くなった。
アパートの一室らしき部屋は、相変わらず汚くて掃除された痕跡は全く無い。
女性ものの服も下着も、ゴミも書類も全部がぐちゃぐちゃに放置されていて、夢の中とはいえ思わず顔を顰めたくなる。
そして、やはり前回と同様に他人のベッドに座り込んでいる抵抗感を感じて立ち上がれば、足元に散らばったままの郵便物が目に入った。
封筒やハガキに書かれた『藤沢夏希 様』と書かれた自分の名前に、十年後の日付。
奇妙なそれを手を取ろうとした時、不意にジャーッと水を流すような音が聞こえてから、ガチャッと廊下のドアが開けられた。
以前と全く同じような状況に心臓がバクバクと鳴る。
ドアから出て来る存在に身構えていれば、想像していた通りに長い髪をゆらりと揺らした不気味な女が姿を現した。
「…っ!」
それに声にならないと声を上げて怯えるも、私はあまりの恐怖からか前回と違って身動き一つ取れない。
固まったまま立ち尽くす私の存在に気付いたのか、女は歩みを止めて長い髪を掻き上げる。
「あれ?」
女は何処か間が抜けたような声を上げると、素顔を晒して確認するように私を見つめた。
真っ直ぐに向けられる視線は居心地が悪くて、この女に対する警戒心や恐怖心がどんどん高まっていく。
ただの夢なら早く覚めてくれと願いながら、恐る恐る女の顔を確認すればなんだか見覚えのある顔だと思った。
女はパチパチと瞬きをすると一度目を擦ってから、再び私に視線を向けてその目を見開く。
そして、「うーん?」と低い声で唸り頭を抱え始めた。
「これって、まさか統合失調症ってやつ?病院行った方がいいのかなぁー。」
ブツブツと呟きながら気怠そうに溜め息を吐く女の顔を、私はまじまじと観察する。
ドクドクと五月蝿い心臓に一つ確信を得て、震えた指先に力を込めるように拳を握った。
「…あの、」
ゴクリと息を呑んで発した私の声に、女は顔を上げて「うわ、喋った。」と驚いたように言う。
それはこっちの台詞だと内心女に突っ込みながらも、私はポカンと呆けたような表情をする女に意を決して口を開いた。
「貴女は、誰ですか。」
そう問い掛けた私の声は、ほんの少しだけ震えていた。
女はそんな私をじっと見つめてから、全てを察したように告げる。
「藤沢夏希。貴女よりも年取ってるけどね。」
自分と同じ名前を名乗る女に私は動揺しつつも、「やっぱり」と何処か納得する。
長い髪を揺らした女の顔は、私と信じられない程によく似ていたのだ。
似ていると言ってもそっくりという訳ではなく、今の私の顔のパーツはそのままに輪郭はシャープになり、目が若干大きくなっている。
手入れされて薄くなった眉のせいか、女の顔は今の私よりも垢抜けて見えた。
「…未来の私って、ことですか?」
女の見た目と言葉から一つの答えを導き出した私に、目の前の彼女は軽く頷いた。
「そうなるんじゃない?よく分かんないけど、貴女の姿は過去の私そのものだし。」
曖昧な反応をしながら女、もとい、未来の私だという人物は今一度私を確認するように見つめてくる。
仮にこれが現実世界だったら、未来の自分なんて存在を到底信じられないだろう。
けれど夢の中だからなのか、未来の自分と対面してもそこまでの違和感を感じなかった。
そうとはいえ、未来の自分と遭遇するなんて実に奇妙な気分だ。
未来の私は私の着ている制服に目をつけると、遠慮なくシャツの袖を引っ張って「うわ、高校の制服とか懐かしー。」なんて呑気に言っている。
ピシッと袖を引っ張られる感覚に驚きつつも、私は目の前の不思議な存在に呆気にとられた。
「高校ってことは何年生?何歳?」
「…高校二年生、十七歳。」
「マジで?若。」
未来の私も私の存在に最初は驚いていたようだが、直ぐに受け入れたのか淡々と話し掛けてくる。
「この頃の私って、こんなだったんだ。」
「こんなって、どういう意味?」
「いやー?別に。ただ若いなって。」
…本当にそう思っているのか。
未来の私は特に表情は変えることなく私を見ているが、同じ自分とあってか考えていることは少しだけ分かるような気がする。
今もただ私を「若い」と思っているだけでなく、「こんな芋っぽかったっけ?」と私の容姿をじっくりと見て失礼なことを考えているに違いない。
失礼なことと言っても、結局は未来の私も私と同じ自分自身であるからある意味自虐的とも言えるが。
そもそも私のことを「若い」と言っている未来の私は、一体いくつなのだろうか。
「貴女は何歳なの?」
「何歳だと思う?」
「……」
「ちょっと、そんな面倒臭いって顔しないでよ。」
呆れたような表情を作る私に、未来の私は何処かうんざりするように「貴女よりも十歳年上の二十七歳。」と告げた。
「…二十七歳の私って、こんななんだ。」
「こんなって、どういう意味?」
「いやー?別に。」
二十七歳だと言う未来の私に、私は何とも言えない気持ちになった。
と言うのも、二十七歳ってもう少し大人っぽくて洗練されているイメージがあったからだ。
目の前に居る未来の私からは全くそんな要素は見当たらず、長い髪は手入れが行き届いていないのかボサボサで、服も襟元がだらしなく伸び切ったスウェットを着ていた。
今の私よりも痩せていて輪郭がシャープになり、目鼻立ちはくっきりと見えて垢抜けた印象はあるものの、その目元には薄っすらと隈がある。
なんか、ちょっとショックだ。
「ねぇ、今ちょっと失礼なこと考えてるでしょ?」
「…どっちがよ。」
未来の私は私が考えていることを感じとっているのか、不服そうに目を細めた。
先程、私を見て言葉を濁していた自分を思い返してほしい。
じぃっと睨み付ける私を気にすることなく、未来の私はグッと両手を上げて背伸びをすると「はぁー」と気の抜けたような声をげる。
「でも、まぁ。過去の自分が見えるなんて、私もとうとう本当に壊れ始めたかなぁ。」
そんなことを呟きながら、未来の私は床に散らかったゴミや衣服を掻き分けるように踏んでズカズカと部屋のベッドの上に腰を下ろした。
ゴチャゴチャと物が散乱するベッドの上で、枕元に転がっていたペットボトルを掴むとそれを遠慮なく一気に飲み干していく。
その行動を見るに、この汚い部屋の主はやはり未来の私なのだろうと実感した。
いや、それよりも…
「この部屋は何なの!?」
「へ?」
「汚過ぎるでしょ!」
いくら夢の中とはいえ、この汚い部屋にはもう耐えられないと声を上げる私に、未来の私は「そ、そうかぁ」と引き攣ったような表情をしていた。
「此処って貴女の部屋?」
「そうだけど?」
「だったら、掃除くらいしなよ!一体どうしたらこんなに汚くなるわけ!?」
「え?えーっと、気付いたら?」
「本当に信じられない。」
ベッドの上で胡座をかいてキョトンとした表情で、私を見上げてくる未来の私にうんざりする。
どうしたらここまで酷く汚れるのか。私はそんなに掃除が出来ない人間であったかと頭を抱えたくなった。
閉め切ったカーテンの中、ゴミ充満した部屋で平然とベッドに座り込む未来の私の姿に「こんな汚い部屋に居たら病気になりそう。」と思わず本音を漏らせば、目の前の彼女は「そうかもね。」と力無く笑う。
私は、そんな未来の自分の姿に少しずつ苛立ってきた。
二十七歳というならば、もっとちゃんとしているのが普通ではないのか。
多少なりとも身なりに気を使って、生活も綺麗に整っていて、大人という言葉に見合った洗練された女性という私の未来の理想像から、彼女は遠く離れている。
こんなだらしない人間が未来の私だなんてとても考えたくないし、例え夢の中の出来事だとしても許せなかった。
「貴女、私よりも大人なんでしょ。だったら、ちゃんとしてよね。」
苛立ちを隠すことなくそう吐き捨てると、ベッドに座り込んだ未来の私は隈の残る目を大きく見開いた。
そして、「ちゃんと…か。」と小さく呟いたかと思うと、長い髪をだらっと垂らして深く俯く。
そのままガクッと首を下げた未来の私は、まるで電池が切れてしまったように何も言葉を発しなくなった。
「え、ちょっと…!」
突然、反応しなくなった彼女に驚いてその表情を確認しようとすれば、長い髪が顔を囲うように垂れ下がっていて彼女の表情は全く分からない。
一体、何を考えているのか。
身体の動きを止めて、長い髪を垂らし静かに俯く彼女の姿はとても近寄りがたく不気味だ。
先程まで淡々と話をしていた様子とは違って、別人のように黙り込んでしまった未来の私にどう対応していいのか分からず暫く無言の時間が続く。
けれど少し時間が経つと、ずっと俯いていた未来の私が長い髪をゆらりと揺らして顔を上げた。
「ねぇ、『ちゃんと』ってどうすればいいんだろうね。」
「え?」
唐突な未来の私からの問い掛けに、意図が読めずに困惑する。
眉を顰めることしか出来ない私に、今まで黙り込んでいたことが嘘のように未来の私は言葉を続けた。
「今の貴女が思う『ちゃんとした人間』って、どんな人?」
「…それは普通に、誰に見られても恥ずかしくない人とかじゃないの?」
私は、一瞬脳裏に浮かんだ何かを掻き消すように答えた。
未来の私は、私の答えに一つ頷く。
「なるほどね。今の私を見て、貴女は私を恥ずかしく思っているわけだ。」
そう淡々と話す未来の私の言葉を、私は上手く否定することが出来ずに口籠る。
彼女の言ったことは事実だし、私はどうしても『ちゃんとした人間』でいたいと思うのだ。
そんな私の気持ちを察するように、未来の私は「まぁ、そりゃそうだよね。この部屋を見れば何か言いたくなるよ。」と肯定するように続けた。
「別にそう思うことは正しいし、私もちゃんと出来ない自分のことを恥ずかしいって思うから。」
「それなら、」
「でもね、どうにも出来ないこともあるんだよ。」
「え?」
自分自身がそう思っているなら、何故それを実行することが出来ないのか。
私には、未来の私が言っていることがいまいち理解出来なかった。
「ねぇ、今の貴女はちゃんとした高校生活送れてる?」
「え、」
「自分のことを誰に見られても、恥ずかしくないと思えている?」
未来の私から続けられた言葉は、私の胸に深く突き刺さった。
その瞬間、これまであった出来事を思い出してハッとする。
果歩と綾乃にハブられたこと、哲也は私のことなんて微塵も興味無いこと、一緒に花火大会には行けないこと、皆がいるグループには馴染めないこと、これから教室に居場所なんて無いこと。
友達だった二人からハブられて、騒がしい教室でひとりぼっちで過ごす姿なんて誰にも見られたくない。
あんな狭い教室の中で、スクールカーストの最下層へ落ちた私をクラスメイトたちは何て思うだろうか。果歩と綾乃から除け者にされた私を、哲也はどう思うだろうか。
不意に先日、同じクラスの竹本さんが隣クラスの山田くんと一緒に歩いていた姿を思い出す。
いつも教室で一人ポツンと過ごす彼女は、容姿が整っているわけでも社交的なわけでもなく、皆から空気のように扱われている存在だった。
そんな竹本さんと同じようなタイプの山田くんが一緒に歩いているだけでも、果歩や綾乃といったクラスの目立つ存在からは笑いのネタにされるのだ。
彼女たちの基準で「ああいう人」と差別されて、後ろ指をさされる。
そうなりたくなかった私は、見た目も中身も彼女たちに近付けようとした。誰にも変な目で見られなくなかったし、自分は「ああいう人」とは違うと本気で思っていた。
私は、普通の学校生活が送りたかったのだ。
仲の良い友達が居て、クラスメイトたちともワイワイ騒げて、好きな男の子と青春っぽいことをして。
それなのに、どうして普通のことが一つも叶えられないのだろう。
未来の私が言う「どうにも出来ないこと」が、少しだけ分かるような気がした。
「ねぇ、私ってこれからどうなるの?」
私は胸の中を覆い尽くす不安を吐き出すように、未来の私に問い掛ける。
「どうなるって?」
「友達とか、学校とか。私はちゃんとやっていけるの?」
「んー、どうだと思う?」
「分かんないから貴女に聞いてるの!」
未来の私の曖昧な態度に、切羽詰まる私の苛立ちはピークに達した。
例えこれが夢の中だろうと、私は真剣に誰かに話しを聞いて欲しかったのだ。
それに目の前の彼女が未来の自分だと言うのなら、私がこれから先どんな日々を過ごしていくか知っているはず。
ゴミに囲まれたベッドに座る未来の私を強く睨み付ければ、彼女は少し困ったように眉を下げる。
「大丈夫。貴女はちゃんと高校卒業出来るよ。」
「…本当に?」
不安気に声を溢す私に、未来の私は「うん。」と確かに頷いた。
「果歩と綾乃にハブられたし、哲也にも会いたくない。教室に行くのも怖くて仕方ないのに、これから本当にちゃんと学校に通えるの?」
私は今抱えている悩みを、未来の私に全て打ち明ける。
こんな状況になってしまった私は、本当に今まで通りに学校へ行けるのだろうか。
これまでだって学校が息苦しくて仕方なかったのに、この夢が覚めてしまったら、私はまた逃げられない現実に嫌でも向き合わなければいけないのだ。
未来の私は私の言いたい事を全て理解していると言わんばかりに、「うん、本当だよ。」と再び頷く。
そして、そんな私を後押しするように長い髪を揺らして指を三本立ててみせた。
「じゃあ、三択で教えて上げる。」
「三択?」
「そう、三択。今から言う三つの中のどれかを実行して、私は高校卒業まで学校に通うの。」
奇妙なことを言う未来の私は、そのまま指を一本ずつ増やしながら三つの選択肢を述べた。
「①新しく友達を作る②初めての彼氏を作る③一人で過ごす」
「それが三択?」
「うん。未来の私が言うんだから、嘘じゃないよ。」
淡々と穏やかな口調で話す未来の私の声に、私の苛立ちも徐々に落ち着いていく。
何一つ状況が解決したわけではないけれど、誰かに話しを聞いてもらってほんの少し安心したのかもしれない。
それに同じ自分の言葉だからか、やけに説得力があって素直に受け入れることが出来た。
はぁーっと深く息を吐きながら、唇を尖らせる。
「そこまで教えてくれるなら、全部話してくれても良いじゃん。」
ゴミに囲まれたベッドに座る未来の自分をチラリと見ながらそう呟くと、「私の話なんて聞かなくても、貴女の進む道はきっと変わらないよ。」と全てを分かりきったように言われた。
それでも、私はもっと確かな安心感が欲しくて未来の私に詰め寄った。
「ねぇ、本当に私は…うわぁ!」
一歩足を踏み出したその瞬間、床に散らかっていたペットボトルを踏んで思いっきり体勢を崩す。
そんな私を見て、未来の私が驚いたように目を大きく見開いたのがスローモーションのように見えた。
前回の夢と同じように、私はそのまま勢い良く硬い床の上に頭を打ち付ける。
あまりの衝撃に「痛っ!」と声にならない声を上げた途端に、私の視界はじわじわと真っ黒に染まっていった。
***
「藤沢さん、大丈夫!?」
真っ暗闇の中で聞こえた声に、ハッとして目を開ける。
そこには白い天井を背景にして、私を心配そうに覗き込む保健医が居た。
一瞬、自分の置かれた状況が分からずに思考が止まりかけるが徐々にこれまでの記憶を取り戻していく。
あぁ、そうだ。
私は夢を見ていたんだと気付いた時に、ようやく「大丈夫です。」と保健医に告げることが出来た。
「藤沢さんのベッドで痛いって聞こえたから、様子を見に来たんだけど…」
そう眉をハの字に下げた保健医は「頭痛がするの?」と、無意識に頭を触っていた私を気に掛けるように言葉を続けた。
「あ、大丈夫です。」
先程のまでの夢を思い出しながら、私はぼんやりとする頭で保健医に返事をする。
保健室の開け放された窓から入り込んだ風が、ベッドを囲っていたカーテンがひらりと揺らす。
とても不思議な夢だった。
前回見た夢と同じ場所で、未来の私に遭遇するのだ。
現実世界と変わらないくらいに、リアルな夢の中から覚めた私は今だに思考がふわふわしていた。
そんな私を心配した保健医は、「体調が優れないのなら今日は早退しても良い」とまで言ってくれた。
保健医からの申し出を、私は直ぐに受け入れて早退したいことを訴える。
今日はもう、教室に戻る気になんかなれない。
私の訴えを聞き入れて、慣れたように早退の手続きをし始めた保健医の背中を眺めながら、私は深く息を吐き出した。
未来の私が言っていた三択。
そのうちのどれかを実行して、私は卒業するまで学校に通うのだという。
夢でのお告げという感じだろうか。
そういったことはあまり信じないタイプだけれど、正直今は何にでも縋りたい状況だった。
保健室のベッドに座り込んだまま、私は先程まで見ていた夢をまた思い出す。
十年後の二十七歳の自分よりも、明日からの自分が全く想像出来なかった。



