拝啓、17の絶望。


 ピピピッと耳元で鳴るアラームの音が、また今日も私を殺していく。

 繰り返される耳障りな音に嫌気が差して、目を閉じたまま手探りでスマホを探す。手に取ったそれを適当タップすれば、ようやくアラームが鳴り止んで無意識に力が抜けた。

 少し経って諦めたように瞼を開けると、カーテンの隙間から入り込む日差しが眩しい。

 その光景に「また朝が来た」と、どうしようもない絶望感に襲われる。

 解放的な眠りから覚めて現実に戻された私は、新しい一日が始まることなんて全く望んでいない。

 そんな誰にも言えない気持ちを胸の奥に隠して、気怠い身体を起こした。

 いつもの日常をなぞるように素早く身支度を終えて、スクールバッグを片手に家を出ようとすると、ちょうど仕事に向おうとする父と遭遇する。

 作業着姿の父を見た瞬間、「最悪だ」と心の中で思わず悪態をついた。

 私は父が嫌いだ。視界に入るだけで無性に苛々して、とても正気ではいられない。

 急ぎ足で父の前を立ち去り、玄関に並べられたローファーに両足を突っ込む。

 決して父とは視線は合わせず、特に会話も無いけれどその存在を確認しただけで酷く落ち着かない気持ちになった。

 苛立つ存在から離れるように家から出て、早歩きのまま通学路を進む。
 
 アスファルトを照らす太陽は夏が近いからか、まだ朝だというのに確かな熱を持っていた。

 見上げた空は気持ちが良い程に青くて、先程までの苛立ちが増していく。
 
 そのやり場のない苛立ちを胸に、学校までの憂鬱な道をひたすらに歩き続けた。

 私は朝が嫌いだ。

 行きたくもない学校に行かなきゃいけない。嫌でも外に、社会に出なくてはならないこの瞬間が大嫌いだ。

 忙しなく行き交う人々も、通勤通学で混み合う電車も、笑い合う学生の声も全てが私を歪にする。

 いつから、そう思うようになったのか。

 淡々と歩みを進める冷たい人混みの中で必死に普通のフリをしては、自分だけがどうしても浮いているような気がして仕方ないのだ。

 そう思い始める以前は一体どうやって普通をこなせていたのか、まるで分からない。

 鬱々とした感情で電車に乗り、最寄り駅に着けば「夏希!」と聞き慣れた声が背後から掛けられた。

 その高い声に、ビクッと肩が震える。

 反射的に嫌だと思った。

 それでも、何かのスイッチを入れるように一つ息を吐いて自然な動作で振り返る。

 視界には行き交う人混みの中で、短いスカートを靡かせながら気怠げに歩く果歩と綾乃の姿が映った。

 近付いて来る二人に私は「おはよー!」なんて、いつものように声を弾ませながら手を振る。

 にっこりと笑みを浮かべる自分とは反対に、心の中で臆病な自分が目の前の二人の姿を細かく観察していた。

「おはよー、相変わらず朝から元気だね。」

 ブンブンと手を振る私を見て、綾乃は呆れたように言う。

 その反応に、私はまた何か間違えて(・・・・・・)しまったのかと心臓が震えた。

 一瞬にして湧き上がった恐怖を誤魔化すように、「えー?」と曖昧に笑いながら彼女たちと学校に向かう。

 同じ制服を着た学生の群れの中を三人で並びながら歩く私たちは、周囲から見れば仲の良い友達同士に見えるのだろうか。

 隣を歩く果歩は「昨日の音楽番組観た?」なんて呑気な会話を綾乃と続けていて、私はその会話の邪魔にならないように必死に相槌を打った。

 それでもこの相槌を打つ作業が、果歩と綾乃にとっての正解なのか分からなくて不安だけが募っていく。

「うわ、何あれ。」

 唐突に、そう声を上げた綾乃は眉を顰めて一点を見つめた。

 その視線の先を追いかけると、同じクラスの竹本さんと隣のクラスの山田くんが一緒に通学路を歩いている。

 一緒に歩く二人の姿を見た果歩は、少し目を見開くと綾乃と同じような表情で口を開く。

「えー、あの二人って付き合ってんの?」

「だったら、陰キャ同士お似合いじゃん。」

「ははっ、ちょっと笑わせないでよ!」

「てか、ああいう(・・・・)人でも彼氏出来るんだね。」

 綾乃が言う「ああいう人」とは、竹本さんのような教室の片隅で一人ポツンと居る、所謂スクールカースト最下層の人物だろう。

 重たい前髪で顔を隠し背筋を曲げて歩く竹本さんは、クラスでも目立たず空気のような存在だった。

 誰とも関わることなく、いつも一人で行動している彼女にまさか彼氏が居たなんて。

 綾乃と果歩同様に、私も少なからず驚いた。

 竹本さんと言えば、授業で先生に指名された際にもボソボソと小さな声で話し「聞こえない」と注意されていたり、体育の授業でも亀のような歩みで動くため鈍臭く、クラスメイトたちをよく苛立たせている印象がある。

 かといって勉強が出来るわけでもなく、社交的でも容姿が整っているわけでもない彼女を評価できるものは何一つ思い浮かばない。

 綾乃が「ああいう人」と無意識に差別するくらいには、私も心の何処で竹本さんのことを自分よりも下の人間だと思っていた。

「あんな竹本さんにも彼氏が居るっていうのに、何で私には居ないわけ!?」

 果歩は目の前を歩く二人を眺めながら、うんざりとしたように言う。

「いや、でも山田は無いわ。」

「それは分かる!私だって山田は嫌だよ!絶対有り得ない!」

「あははっ、必死すぎでしょ?」

「だって!何かもう生理的に無理じゃん!」

 綾乃の言葉に、果歩はブンブンと首を振って大袈裟なまでに反応する。

 竹本さんの隣を歩く山田くんもまた、彼女と同じようにスクールカースト最下層の人物だった。

 寝癖がついたようなボサボサの髪に眼鏡をかけた彼は、野暮ったい印象で全然魅力的には見えない。

 それこそ、クラスでも垢抜けていて目立つタイプの果歩と綾乃の想像する「彼氏」という存在からは程遠い姿だろう。

 果歩と綾乃は「あれは無い!絶対無理!」と、心底馬鹿にしたようにケラケラ笑いながら言い合っている。

 そんな彼女たちを横目に、私はその馬鹿にした視線が自分に向いていないことに密かに安堵する。

 私は、まだああ(・・)はなっていない。

 目の前を歩く竹本さんと山田くんは、冷たい笑い声を上げる彼女たちに気付いているのか分からないけど、まるで見世物のように思えた。

 学生たちの群れの中で、果歩や綾乃のような垢抜けた存在の笑いの種になるなんて絶対に嫌だ。

 そんな恥を晒すことになったら、私は生きていられなくなるかもしれない。 

 私は普通でいたい。周囲からハブられたくない。出来ることなら、誰からも認められる人間でいたいと強く思う。

 だからこそああ(・・)はなりたくないし、自分の悪口を言っていた彼女たちからも離れることが出来ないのだ。

 二週間前、果歩と綾乃が女子トイレで私のことを「うざい」と言っているのを聞いてしまった。

 その時のことを思い返すだけでドクドクと心臓が嫌な音を立て始め、嫌でも彼女たちの会話が脳内で再生される。

 狭く薄暗い個室で息を殺しながら「うざい」という声を聞いた瞬間、私はもう終わりだと思った。

 果歩と綾乃はクラスでも目立ち垢抜けていて、所謂スクールカーストで一軍と呼ばれる存在だ。

 高校二年生になって同じクラスになった二人とは、席が近くなったことをきっかけに仲良くなった。

 学生生活はグループに所属出来るかで大きく変わる。日々を一緒に送る友達が居なければ、学校なんて地獄でしかない。
 
 新学期が始まったばかりで慣れない環境の中、一年の頃に行動を共にしていた子とはクラスが離れてしまったこともあり、彼女たちと交流出来たことはとても嬉しかった。

 けれど、人というのは一緒に居る時間が経てば経つほど自分とのズレを認識し始める。
 
 最初は見ないフリをすることが出来ても、日々露わになる自分とのズレは段々見過ごすことが出来ないものとなるだろう。
 
 あの日の女子トイレでの出来事は、私と彼女たちが人間的に合わないと自覚し始めた矢先のことだった。

 嫌な予感はずっとしていた。

 彼女たちが女子トイレで言っていたように会話やノリが合わなかったり、何だか気まずいような空気を感じたりすることが多くなって、私は毎日彼女たちに馴染むことに必死になった。

 身だしなみや制服の着こなしにも気を使い、社交的な彼女たちに合わせて話し方や性格も少しずつ変えていったし、彼女たちにとって都合の良い人間であろうとした。

 けれど結局、私は彼女たちに馴染めずに「うざい」と影で嫌われているのだ。

 それでも、どうしたって彼女たちのグループを離れて一人で行動することなんて出来ない。

 雑談や笑い声が絶えない教室で、誰とも関われずに一人でポツンと居るなんて考えただけでも地獄だ。

 今更、大して仲良くない他のグループに入れてもらえるなんて到底思えないし、彼女たちから離れたら私は一気にスクールカーストの最下層へと落ちるだろう。

 それこそ、目の前を歩く竹本さんと山田くんのように「ああいう人」と周囲からレッテルを貼られて、果歩と綾乃のようなスクールカースト上位層の笑いのネタになるかもしれない。

 そんなのは絶対に嫌だ。

 しかし、どれだけ私が嫌だと願っても既に果歩と綾乃が女子トイレで私を「うざい」と言って嫌い、笑いのネタにしているのを聞いてしまったのだけど。

 そうとは言え、二人はそのことを知らずに、現状はまだ私は彼女たちのグループからハブられていなかった。

 このまま彼女たちにとって使えると判断されていれば、私はハブられずに済むかもしれない。今の私にはそれだけが救いなのだ。

 通学路を歩きながら、今だに竹本さんと山田くんの話しをしている二人に近寄る。

「あーあ!私も彼氏ほしいな!」

「…山田みたいな?」

「だから、絶対嫌だって言ってんじゃん!」

 そう叫ぶ果歩と誂うように笑う綾乃のやり取りには、何処か竹本さんたちをネタして楽しんでいるのが感じられた。

 私はそれを冷めた視線で眺めてから、二人の空気に便乗するように笑みを浮かべる。

「でも、果歩は可愛いから直ぐに彼氏出来るんじゃない?」

 媚びるようにそう言った私に、果歩は「えー、そうかな!?」と態とらしく腕を組む。

「そんなこと言うなら、夏希が誰か紹介してあげなよ。」

「えー!私全然男子と仲良くないし、綾乃の方が男友達多いじゃん!」

「確かに、綾乃って男友達多いよね。誰か紹介してー!」

 果歩はそう言うと、目を輝かせて綾乃に飛びかかった。

 初夏の日差しが眩しい中、ギュッとくっつかれた綾乃は暑苦しいと言わんばかりに顔を歪めている。

 果歩の力強い抱擁に綾乃は「やめろ!くっつくな!」なんて騒いでから、「…てか、果歩さ」と何やら私には聞こえない声でヒソヒソと話し合っていた。

 私はそれを横目にまた間違えたのかもしれないと、一瞬で不安になる。

 あの日から自分を「うざい」と思っている二人の前で、どう振る舞えば良いのか正解がずっと分からない。

 けれど、私に出来ることは二人のグループからハブられないように、必死に媚びて都合の良い存在になることだけだ。

 目に見えて嫌われハブられるのは一体いつの日なのか、毎日怯えながら過ごしていく。

 くっつきながら歩き出す果歩と綾乃の後ろを金魚の糞のようについて行くと、不意に少し前を歩く竹本さんと山田くんの二人が目に入った。

 いつも背筋を曲げて俯きがちの竹本さんは、背の高い山田くんの隣では顔を上げて話している。

 まだお互いに距離感が掴めないのか、時折肩をぶつけ合う二人に私は何とも言えない気持ちになった。

 学生の群れの中で散々果歩と綾乃に馬鹿にされていたのに、二人はちっとも気付いていないように寄り添って歩く。

 私だって、いつかは隣を歩けるような彼氏がほしい。

 私のことを「好きだ」と肯定してくれる存在さえいれば、私はもうこんなに自分のことを歪だと思わなくても良い気がするのだ。

 例え果歩や綾乃に好かれなくとも、この世界に馴染むことが出来て、私の求めている普通になれる気がする。

 自分でさえ分からなくなっていた私をきっとその人が見つけてくれるのではないかと、二人を眺めながら都合の良いことを思う。

 私は心の何処かでずっと、自分を許してくれる存在を待っているのだ。