「夏希ー、もう朝だからいい加減に起きなさい!」
騒がしい声に、微睡んでいた意識がはっきりとしていていく。
ゴシゴシとぼやける目を擦れば、見慣れた自分の部屋の天井がここは現実世界だと教えてくれた。
昨晩点けっぱなしで寝たエアコンの風が、ふわりと布団から飛び出した足に当たる。
カーテンの隙間からは、キラキラとした朝日が差し込んでいた。
不意にコンコンッと部屋のドアをノックされて、私が何か声を上げる前に勢い良くドアが開かれる。
「ちょっと!夏休みとはいえ、いつまでも寝てたら駄目だからね!お母さんもう仕事行くから、後のことよろしくね。」
早口でそう告げると母は、直ぐに忙しなく部屋を離れていく。それに「はーい…」と気の抜けたような返事をしながらも、私はベッドから起き上がれずにいた。
枕元に置かれたスマホを手に取り、画面に表示された日付を見てから一つ溜め息を吐く。
八月一日。
今日は、果歩たちに誘われた花火大会の日だ。
私が花火大会に誘われた後、過呼吸で倒れてから一週間が経った。
母いわく、私はあの日教室で過呼吸になり倒れてしまい、クラスメイトが急いで保健医を呼んできたそうだ。駆け付けた保健医に連れられて、私はそのまま病院に運ばれたそうで、連絡を受けた母は慌てて病院に向かったらしい。
それから私はずっと眠っていたようで、目を覚ましたのは倒れてから翌日のことだった。
医者の診断では、私の過呼吸はストレスが原因で起こるものようで、とりあえずは夏休みに入ったということもあり症状の様子を見つつ、また酷くなった時は通院をするように勧められた。
そんな私を母はとても心配してくれたが、父は相変わらず私の体調には興味ないようで、母が居る手前あからさまな文句は言ってこないけれど、顔を合わせる度「早く治せ」と言わんばかりに眉間に皺を寄せていた。
私の夏休みはそんな感じで体調の様子を見ながら、何をするわけでもなく、今のようにベッドの上でゴロゴロと寝転がりながら過ごしている。
ただ、今日は果歩たち誘われた花火大会の日ということもあり、私の気持ちは朝から重たく沈んでいた。
ピコンッと唐突にスマホが鳴って画面を見れば、果歩からのメッセージが来ていて今日の集合場所と時間が書かれている。
あの日、先に帰ってしまった果歩は私の状態なんて当然知らないのだろう。
私の都合を一度も考えたことはないくせに、自分の都合はいつも押し通そうとする彼女になんだか無性に苛立った。
胃がムカムカする気持ち悪さを感じて、はぁーっと深く息を吐いて布団の中で丸くなる。
瞼を閉じて、私は未来の私のことを考えた。
未来の私とは、過呼吸で倒れた時に夢の中で会ったのが最後だ。
あの時に彼女は「今は認められなくても、きっといつか自分のことを認められる日が来る」と言っていた。
その本当の意味を、私はまだ知らない。
未来の私からどれだけ温かい言葉を掛けられても、やはり私は直ぐには自分のことなんて認められなかった。
彼女と話して改めて気付いたけれど、私は結局自分に自信がないのだ。
だから、あれ程果歩たちに怒り震えていたのにも関わらず、私は今も誘いの一つさえ上手く断ることが出来なかった。
どうするべきか、頭の中がぐるぐると思考し始める。
布団の中でああでもこうでもないと、随分と長い間考え続けたけれど何も良い答えなんて見つからなかった。
考えれば考えるほど、私はリスクを回避したくなってしまう。
花火大会の誘いを断って果歩たちに悪く言われたらどうしようとか、この一件で夏休み明けの学校生活が今よりも酷いものになるかもしれないとか。
だったら、最初から大人しく言うことを聞いとけば良いのではないか。流石に今日ドタキャンするのは、計画通りに哲也への告白を進めたい果歩が許さないだろう。
いや、そもそもなんで私は果歩の事なんて気にしているんだろう。あんな奴どうでもいいのに、可笑しいではないか。
無意識に彼女の機嫌を気にする自分に嫌気が差した。
もう他人に対して、機嫌を損ねないように気を回す厄介な癖が私には染み付いてしまっているのかもしれない。
纏まらない考えに、私はまた現実逃避のようにギュッと目を瞑る。
せっかく未来の私が、たくさんのことを私に伝えてくれたのに何で私はまだウジウジと情けないままなのだろう。
布団に潜っている間にも刻々と時間は過ぎていく。
スマホで時間を確認してみれば、もう午後三時をとっくに過ぎていて、果歩が指定してきた待ち合わせの時間まで残り数時間しかない。
感覚では先程まで朝だったはずなのに、いつの間にそんな時間が過ぎてしまったのだろうと驚愕する。
もし行くのであれば、そろそろベッドから起き上がって支度を始めなければ間に合わないし、行かないのであれば直ぐにでも果歩に連絡をしなければならないだろう。
ただ約束の数時間前にドタキャンをする勇気がなかなか出ず、震える指でスマホ画面を何度も開いたり閉じたりしていた。
やはり、もう行くしかないのだろうか。
そんな絶望感が、私の身体を一層重くする。
今まで散々他人に縋って生きてきたツケが回ってきたのか、私に染み込まれた断れない癖は簡単には消えてくれないようだ。
諦めの感情と共にベッドから立ち上がり、しぶしぶ身支度を始める。
自分の部屋を出て洗面台の前に立つと、鏡には酷く顔色の悪い自分の姿が映った。
寝癖のついた髪はボサボサで、夏休み中はずっと寝転んでいるのにも関わらず目の下には薄っすらとした隈がある。
その姿は、最初に見た時の未来の私に何処か似ていた。
一体、私は何をやっているんだろうな。
ぼんやりと思ったことなのに、それはやけに自分の胸に突き刺さって痛みを覚えた。
胸に伝わる痛みを紛らわせるように、歯を磨いて顔を洗ってから、ボサボサになった髪を丁寧に梳かしていく。
今頃、未来の私はどうしているのかなと思った。
手入れの行き届いていないボサボサに伸びた長い髪をバッサリ切って、酷く汚れた部屋を綺麗に掃除して、美味しい肉を焼いてお腹いっぱいに食べて、彼女の生活はまたこれから先も少しずつ豊かになっていくのだろうか。
私のことを思い出しながら、少しずつ今の自分を認めて、例え周囲に馴染めなかったとしてもどうしようもない自分に絶望しても、彼女はまだ先の未来へと一人で進んでいくのだろうか。
念入りに梳かしてサラサラになった髪に、少しだけ沈んでいた気持ちを取り戻す。
ようやく身支度を整えた私は、スマホ画面に表示された時刻が思ったよりも進んでいることに気付いて慌てて外に出た。
エアコンが点けてあった室内とは違い、外はもう太陽が沈み始めているのに今だ肌に纏わりつくような暑さを感じる。
せっかく丁寧に整えた前髪は、汗が滲む額にペタリと張り付いてなんとも見栄えが悪かった。
それを手櫛で直しながら、じめじめと湿気が漂う街を歩く。
街路樹から浴びせられるたくさんの蝉の声を聞きながら最寄り駅の前まで着くと、休日、それも花火大会ということもあってか、あまりにもたくさんの人で溢れ返っていた。
おそらく駅に集まる人々と、私の行き先は同じ花火大会の会場だろう。
綺麗な浴衣を着た人や若いカップル、家族連れに友達同士の女子グループなど様々な人々が行き交っている。
同じ方向に向かっていく忙しない人混みの中で、私は人知れずに眉を寄せた。
人混みは嫌いだ。
この人混みの中に居ると、どうしたって自分だけが酷く浮いているような気がして居心地が悪く感じてしまう。
周囲に居る他人と自分を比べて、嫌でも自分の歪みを浮き彫りにしては、これでは彼等と同じではないとどうにも出来ないことを嘆く。
そんな人混みの中で、ふと私は未来の私が言っていた三択の最後の項目を思い出した。
一つ目の新しい友達を作ることでも、二つ目の初めての彼氏を作ることでもない。
今まで選択しようとも思わなかった三つ目の『一人で過ごす』という項目が、頭の中で浮かんでくる。
未来の私は三つの選択肢の中のどれか一つを実行して、私は高校卒業まで学校に通うのだと確かに言っていた。
新しい友達を作ろうとして、全然上手くいかずに落ち込んだり。
こんな自分のことを好きだと言ってくれる誰かが欲しくて、彼氏が欲しいなんて他人を理由に自信を付けようとして未来の私に諭されたり。
一つ目と二つ目の項目は、尽く失敗した。
けれど、三つ目の最後の項目は試したこともなければ、最初から『一人で過ごす』なんて惨めな選択は絶対に嫌だとこれまで強く避けてきたものだった。
そもそも果歩と綾乃にハブられて、教室で一人ぼっちになってしまった事が耐えられずに、未来の私に友達も居ない状況でちゃんと学校に通えるのか?卒業は出来るのか?と、縋ったことがきっかけで教えてもらった三択なのだ。
一人ぼっちを脱却するべく奮闘してきた私にとって、『一人で過ごす』なんて選択肢は絶対に取りたくなかったのだけど、不思議と今は以前ほどその気持が強いわけではなかった。
勿論、まだ一人になることへの恐怖心が完全に消えたわけではない。
こうして人混みの中に一人で居ることに対して、確かに居心地の悪さを感じている。
それだけでなく、やっぱり誰かから嫌われるのは嫌だし、出来ることなら皆に自分のことを受け入れて貰いたいと思う。
しかし、これは未来の私と出逢ってからの日々で気付いたのだが、そんな都合の良いことは多分誰であっても不可能なのだ。
何故なら、私達は皆好きなものも嫌いなものも、生き方が違う他人同士なのだから。
これまで私は、皆人それぞれ違うことを知っているはずなのに、自分が他人と違うことを恐れて、他人が自分と違うことを受け入れられないでいた。
孤独を怖がって他人を求めたり、誰かに受け入れられたかと思ったら、誰かに突き放されて。
夢の中で未来の私が言っていた「皆と自分が違うのは罪ではない、当たり前のことなんだ」 と。
この当たり前の居心地の悪さを、私は少しずつ認めていかなくてはいけないのだと。
もうそれなら、仕方ないこともあるよな…
たくさん何度も何度も考えて、私はたった今一つの諦めの感情に辿り着いた。
散々信じてきた理想を諦めて、これからはちゃんと本当の自分を受け入れていく。
その為に私は、未来の私が言った三択の三つ目の選択を選ぼうとしている。
ふわりと吹いた夏風が、私の背中を緩く押した。
私はバッグの中からスマホを取り出して、ずっと打ち込めずにいた花火大会への参加を断るメッセージを打ち込む。
果歩にメッセージを送った後、直ぐにスマホの電源を落として、人が溢れ返る駅前から足早に立ち去った。
花火大会を目指して駅に向かう人々の波とは、真逆の方向に一人で向かう私はこの人混みの中で少し浮いていたかもしれない。
けれど不思議と、先程よりも居心地の悪いものだとは感じなかった。
むしろ、少しだけ清々しい気持ちになって私の足取りはどんどん軽くなっていく。
夕方の空は段々と暗くなって、もう果歩たちは集合場所に集まっているかもななんて他人事のように思った。
混み合っていた駅前から離れて、そのまま行く当てもなく街を歩いていれば、偶々通り過ぎた店からはなんとも美味しそうな焼肉の匂いがした。
鼻を掠めていく香ばしい匂いに、肉を焼いていた彼女のことを思い出して思わずクスッと笑う。
ぐるぐると鳴ったお腹に「お腹が減ったなぁ」と呑気なことを思いながら、私は再び一人で夜空の下を歩き出した。



