ガチャッと家に帰ると、予想通りに薄暗く人気は無かった。
その事に密かに安堵しながら、ローファーを脱ぐ。
慣れたように廊下を進み直ぐに自分の部屋へと向かうと、この世界を拒絶するようにバタンッと強く部屋のドアを閉めた。
「…疲れた。」
溜息と共に溢れた言葉が、より一層身体を気怠くさせた。
クラスメイトが私のことを噂していたショックでトイレの個室に入ったまま眠り、保健医に心配を掛けた後のこと。
私は歩き出そうとして大きくふらついてしまい、再び保健医を酷く焦らせた。
やはり長い時間便器に座っていたからなのか、立ちくらみがして身体に上手く力が入らなかったらしい。
慌てふためく保健医の指示の元、私は即座に保健室に運ばれて身体の不調に関する質問を何度か受けた。
それに適当に答えて、自分の身体の事なのに何処か他人事のように話す私に保健医は終始呆れたような表情をしていた。
最終的に保健医には「体調や私生活で何かあったら必ず自分に相談すること」と、「今日は早退してとにかく体調を万全にするように」と強く告げられた。
そして先程、私のことが心配だからと共働きの両親に代わって、わざわざ車で自宅まで私を送り届けてくれたのだ。
本当に保健医には頭が下がる。
正直、あの噂を聞いた後に教室に戻る気にはならなかったし、学校なんて居心地の悪い場所から早く帰れて良かったと思う。
手早く制服を脱ぎ捨て、部屋着に着替えてからベッドに寝転ぶ。
自分の体調のことなんてよく分かっていないけど、何故だか強烈に身体が重くて疲れた。
ベッドに横たわると一気に眠たくなって、私は自分しか居ない空間にすっかり安心して、少し眠ってしまおうと自然と閉じていく瞼に身を任せる。
それからどれくらいの時間が経ったのか、気付けばコンコンッと部屋のドアをノックされた音で目が覚めた。
「あら?寝ていたのね?」
ドアを叩いたものの、なんの了承も無しに入って来たのは母だった。
母は私を見ると「早退したんだって?学校から連絡があってびっくりしたんだけど、体調は大丈夫なの?」と、建前的に聞いてくる。それに「大丈夫」とだけ軽く返す。
ベッドから起き上がり部屋の外へと出ると、周囲はすっかり暗くなっていた。
母も着いてきて共にリビングへと向かえば、ソファにはだらしなく腰を掛けて作業着のままくつろぐ父の姿がある。
うわ、最悪だ。
その存在を視界に入れただけでも、気分は一瞬で急降下していき無性に苛々した。
父と同じ空気を吸うだけでも、嫌悪感でどうにかなってしまいそうだ。
ソファに座っていた父は私の姿に気付くと、眉間に皺を寄せながら口を開いた。
「母さんから聞いた。お前早退したんだってな。体調不良か?」
「…いや、そこまで体調が悪いわけでは、」
苛立つ感情を抑えながら答えると、父は私の言葉に被せるように発言する。
「だったら、何だ?お前はたいして体調が悪くないのに早退してきたってことか?」
そう呆れるように言い放つ父に、私は直ぐに頭に血が昇り「は?」と低い声が出る。
「もうすぐ期末テストだってあるんだろ?今がどういう時期か理解してるよな?高校二年生にもなって、まともに体調管理も出来ないのか?」
不機嫌さを一切隠さずに、私を脅すように父は言葉を続けていく。
それを浴びせられながら、私は湧き上がる怒りを抑えるのに必死だった。
大きな感情を前に指先が震えて、心臓が煩くなる。
呼吸が少しずつ乱れていくのを感じて、掌をギュッと強く握った。
コイツは昔からいつもこうだ。
他人の事情なんてお構いなしに、自分の都合ばっか押し付けてくる。そして、それが当たり前に通ると本気で思っているのだ。
目の前のコイツを今すぐぶっ殺してやりたい。
そう思った時。
ふと、泣いている子供の姿が頭に浮かんだ。
声を上げないように口元を押さえて、ボロボロと涙を溢す子供の悲痛な声が私の頭の中で響き渡る。
何で、急にこんなことを思い出すのだろうか。
朧気ですぐに忘れてしまいそうになる記憶を必死に引き寄せて、私は思考する。
確か学校のトイレで見た長い夢の中で、そんな光景があったはずだ。
ランドセルを傍らに置いた子供がずっと泣いている。そんな子供に不機嫌な男が、苛立ち混じりに酷い言葉を容赦無くぶつけていくのだ。
サウンドバッグのように男の言葉をぶつけられた子供は、呼吸がどんどん苦しげになっていって…
あれ…?
そこで私は、今更のようにある事に気付いた。
あの子のことを知っている。
いや、知っている以前にあの子は幼い頃の私ではないのか。
「お前は人の話しを聞いているのか!」
苛立った低い声がリビングに全体に響き渡り、私はハッとして思考の渦から戻ってくる。
私が夢で見た光景を考えているうちに、いつの間にか目の前に居る父は鋭く私を睨み付けていた。
父の話しを聞くことも無く、考え事に気を取られていたからだろうか。昔から父は自分の思い通りにならない私を酷く叱りつけて、無理矢理言うことを聞かせることが得意だった。
その酷く既視感のある表情に、私は夢の中で子供に苛立ちをぶつける男が父であると確信する。
あぁ、そうか。
あれは夢ではない、過去の記憶だったのかと改めて気付いた。
そして、忘れていたはずの記憶が一気に蘇ってくる。
小学生の頃。気の強い女子に駆けっこで勝ってしまったことが原因で、その女子から目の敵にされてしまったことがあった。
女子は私を気に入らないと言って、友達同士で私を仲間外れにしたのだ。
私が話し掛ければ皆に無視されたり、私が一人で居ると仲間内でヒソヒソと何か話し合っては馬鹿にしたように私を見て笑う。
そんな状況が続いて、私はある日学校に行く事を酷く拒絶した。
泣きながら学校へ行く事を嫌がる私に、母は直ぐにお手上げ状態で、父はここぞとばかりに私を怒鳴りつけた。
父は私が他の子たちと同じように学校へ通えないことが、とても許せなかったようで必要以上に私を追い詰めた。
プライドが高くて傲慢な父にとって、自分の子供が不登校になることは耐えられない屈辱だったのだろう。
そんな私を父は「情けない」「恥ずかしい」「何でちゃんと普通のことが出来ないんだ」と罵り、「引き摺ってでも学校へ連れて行く」と脅すように言い放った。
幼い私には、自分の心を殺して父に従う他に選択肢がなかったのだ。
教室で一人周囲からの冷たい視線に晒される日々に耐えられなくて、私は機会を見計らって他のクラスメイトたちに取り入ったり、クラスでも力のある子の言うことを都合良く聞いて、どうにか他人と一緒に居られる術を探し続けた。
そう思い返せば、私のやっている事は昔も今もそんなに変わらないのかもしれない。
父が言った「ちゃんと普通のこと」が出来るようになれば、こんな思いを二度としなくて済む。
そうやって呪いのように自分に言い聞かせながら、何年も学校生活を送り続けてようやく周囲に馴染めるようになってきたというのに…
なんで私は、またあの頃と同じような日々を送っているのだろう。
父を恐れて自分を押し殺した幼い私と、今の私はもう違うはずなのに。
私はまだ、あの時の呪いに一人囚われているのか。
「ははっ」
「おい!何が可笑しい!」
どうしようもない自分に思わず笑い声が溢れ落ちれば、それを聞いた父は何を勘違いしたのか、バンッと強く目の前のテーブルを叩き付けて激昂する。
何も可笑しくなんかない、ただ私の全てが虚しいのだ。
なんだか全部がどうでもよくなって、私は考えることを放棄した。ぼんやりとした思考で、父から次々と暴言が飛んで来るのを受け止める。
そして、不意に夢の中で私のことを普通だと言っていた未来の私のことを少しだけ思い出した。



