「ねぇ、今朝の見た?」
「夏希さ、とうとう竹本さんカップルと一緒に登校してたよね。」
「果歩と綾乃にハブられてるからって、流石にあれは悲惨だわ。どんなメンツだよって。」
学校について早々に一人になりたくて女子トイレの個室に籠れば、個室の外から女子たちの何処か面白がるような声が聞こえてきた。
私のことだと思った瞬間に、身体が凍り付いたように動かなくなる。
以前、果歩と綾乃に「うざい」と言われていたことを思い出して、心臓がドクドク鳴って冷たい汗が噴き出してきた。
まさか、また前回と同じような状況になるなんて思わずに私は息苦しくなる呼吸を必死に抑える。
「てかさ、何で夏希ってハブれてるの?」
「いやー?知らないけど。」
「私、果歩と綾乃と中学同じなんだけど、あの二人って嫌いな人には本当あからさまに態度に出すから厄介なんだよね。」
「マジで?ちょっと怖いんだけど。」
「まぁ、でも夏希もあの集団の中ではちょっとタイプ違うからなぁ。こうなるのも仕方ないっていうか。」
「あー、ね。」
暗く狭い個室の中で聞こえて来る声は、あの時のように果歩と綾乃ではなくて、おそらくクラスメイトの女子だと思われた。
私が果歩と綾乃からハブられていることは、同じクラスメイトであれば自ずと知れることだろう。
こうやって誰かに二人からハブられた自分のことを知られるのが怖かったけれど、今まで必死に考えないようにしていた。
しかし、実際に自分のことを噂されている場面に遭遇してしまうと嫌でも現状が思い知らされる。
やっぱり私は、誰かに噂されるような存在になってしまったのだとショックで酷く落ち込んだ。
クラスメイトたちも、私が果歩と綾乃たちのグループに居ることに違和感を感じていたのだ。それだけ私は、彼女たちに馴染めていなかったのだろう。
そして今朝、竹本さんと山田くんと一緒に登校したことも、周囲の噂の対象になるくらいには可笑しい状況だったのだ。
私は自分が望んでいる普通から、どんどん外れていってしまうことに途方も無い恐怖を感じた。
いつの間にか女子トイレ内は静かになっていて、私の噂をしていたクラスメイトたちがトイレから立ち去ったことに気付く。
狭く薄暗い個室の中で、私は止めていた息を吐き出すように深く呼吸をした。
あぁ、もう駄目かもしれない。
何もかもが上手くいかなくて、心底自分が嫌になる。
毎日、生きているだけでジェットコースターのような感情に振り回されて疲れ切っているというのに、何で追い打ちをかけるように色々なことが押し寄せて来るのだろう。
既に私の心は限界を迎えているのに、毎日の小さな絶望は解消されることなくどんどん積もっていく。
心の積もった絶望が今にも溢れんばかりに表面で揺れて、私の気持ちの余裕や自信さえも全て奪っていくのだ。
コントロールの効かない感情が、私の中で暴れ出す。
悲しみなのか、悔しさなのか、怒りなのか、情けなさなのか。全部混ざって、ぐちゃぐちゃになった感情が急激に呼吸を乱していく。
息苦しい。
苦しくて、死にそうだ。
気付けば思考もぼんやりとしてきて、私はトイレの個室に籠もったまま動けずに、またあの時のように校舎内に鳴り響くチャイムを薄れていく意識の中で聞いていた。
***
何処からか、泣いている子供の声が聞こえる。
決して泣き喚くような大きく耳障りな声ではなくて、ヒックヒックと止まらないしゃっくりを必死で押さえるような小さな声だった。
「いつまで泣いているんだ!早く泣き止め!」
酷く不機嫌そうな男の声が、子供を脅すように響き渡る。
子供の泣き声は恐怖に揺れて少し大きくなるも、直ぐに泣き止もうとして両手で口を塞いだ。
男は苛立ちを隠すことなく、次々に子供にぶつけていく。
「何でお前は学校に行けないんだ!」
遠い記憶の何処かで、聞いたことのある台詞だと思った。
「周りの子にそんな子居るのか?居ないだろ!お前だけだぞ、情けないのは!こんなことで、いちいちみっともない!」
捲し立てられる言葉は、ザクザクと子供の心を刺していく。
怖くて苦しくてパニックになり、無意識にボロボロと涙が零れ落ちた。
「お前は本当に俺の子供なのか!?ちゃんと普通に出来なくて、恥ずかしくはないのか!」
そんな男の言葉は子供の心を確実に殺した。
そして、呪いのように子供の首に巻き付いてキュッと強く絞め上げる。
ハァッハァッと子供の呼吸が異常な程に荒くなっていくのに、男は気付かないのか「五月蝿い!」とまた声を上げる。
おそらく子供は過呼吸にでも、なってしまっているのだろう。
止まらない嗚咽と苦しげな呼吸音は聞いているだけでも、聞いているだけでも可哀想で何故か自分までもが泣きそうになった。
それでも、男は「泣くな!」と何度も連呼する。
「明日は絶対に学校に行けよ!嫌でも引き摺って連れて行くからな!」
男はそう言い放つと苛立ちを抑えられないのか、ドシドシと足音荒く子供の前を立ち去って行った。
子供の悲痛な泣き声と苦しげな呼吸だけが、静かになった空間に響く。
しゃがみ込んで俯く子供の世界が、音を立てて崩れていくのを感じた。
その時に確信する。
ああ、この絶望があの子を作ったのだと。
男から受けた呪いがあの子を支配して、あの子の絶望はどんどん大きく強く育っていく。
決して離れられない絶望と共に、あの子自身もこれから徐々に大人になっていくのだ。
苦しみ喘ぎ泣く子供の傍らには、ランドセルがポツンと置かれている。
ぼんやりと意識が揺れた。
ポコポコと泡を立てて、水底に沈んでいくように意識が遠ざかっていく。
視界がじわじわと黒く染まった。
そして、誰も存在しない光も音も感じなくなった瞬間、私は初めて深い安心感を覚えたのだ。



