『世界は僕のモノだと思っていた 〜神になった者の最後の救済〜』
序章 救済の一節
私にとっての世界とは、靴箱の底に沈む濡れたゴムの匂いと、毎朝上履きの中に敷き詰められた鋭利な画鋲の感触でしかなかった。そんな無機質なもので私の世界は構成される。
「毎回試験は赤点」「50m走は速くて12秒」
「すっごく泣き虫」それが私を象徴する性質。生まれつきなんだ。私はあらゆる意味で「弱者」だった。弱さは存在すること自体が罪なのだと、教えられるまでもなく皮膚で理解していた。だって今こんな人生を送ってしまっているから。
——だが、本当にそれは「生まれつき」だったのだろうか。不思議なことに、私には幼少期の記憶が一切ない。白く塗り潰されたキャンバスのように何もかもが欠落している。何度も思い出そうとするがそこには永遠と続く白い情景が広がるのみ。
私は聞く。
「お母さん、どうして私には昔の思い出が残ってないの?」
「重い病気にかかっていたからなのよ」
と優しく微笑む。
これがテンプレになっている。
しかしその病名を聞いたことは一度もなかった。その質問のときはいつも母は答える前に一息置いていた。
「ねえ、どんな気持ち? あんなちゃん」
分厚く塗られたべっとりとしたリップグロスが、歪んだ弧を描く。ロングヘアの少女——この狭い教室の支配者。彼女の声は教室の角まで届き、一斉に人間が哀れみの燻んだ目を私に放射する。だが、私の中に湧き上がる感情はもう何一つなかった。怒りも、悲しみも、絶望すらも。私の世界からは、ずっと前に色が脱色してしまっていた。人の苦しみの先に待つのは諦めのみ。
「……ごめんなさい」
私の選択肢はその文言が何千と並んでいるもの。どれを選んでも同じである。彼女たちが欲しいのは理由のある謝罪ではない。ただ屈服し、自我をすり減らす愚かな人間の顔が見たいだけなのだから。時間が過ぎ去るのを待つだけの木偶になることが、私の唯一の生存戦略だった。その教室にはいっときの空白が流れる。やけに外の蝉が騒がしく必死に鳴いていた。
「キンコーン」
昼休みのチャイムが学校中に響き渡った。
私から言えば悪魔が迎えにやってくる汽笛といえよう。
「さ、行こうか」
少女が目の前に現れる。強い音を立て私の手首は握られる。向かう場所は決まって一つしかない。毎度の定位置だ。ジメついていて、生温い女子トイレ。そこで顔以外の全てを殴られる。私はその度にこの世界の在り方に憎しみが募っていった。世の中というものは、理不尽に踏みつけられる「受け皿」が存在することで辛うじて均衡を保っている。
私は涙を腕で拭き取る。天井の明るい蛍光灯が目の先で揺れ動く。私はシステムの下層に配置されただけの存在だろう。
下校のとき、一枚の落ち葉を踏んだ。それは茶色く、脆い。その存在にすら私は気づかない。
雲が月を覆う夜、食材を刻む母親を横目にカッターナイフを持ち出した。自室に戻ると私はその刃を腕に当てていた。刃先を押し込もうとするたび、手が情けなく震える。私は罪を被る弱い存在である私に罰を与える。しかしやはり私の息は荒れたままでそれ以上は何もない。こんなことも上手くこなせない自分に涙をこぼす。静かな部屋に私の殺傷力のない嗚咽が響いた時、ドアが軽やかな音を立てて開いた。
「どうしたの? あんな」
そこには悲しみの顔をした母が立っていた。リビングとの壁は薄いことはわかっていた。泣き声を聞かれてしまったのだろう。母は静かに部屋に足を踏み入れ、カッターを握りしめる私の手を優しく包み込み、そのまま強く抱きしめた。
「何があんなを苦しめているのか、話せるようになるまでお母さんは待つわ。何があっても、私はあなたの味方だから」
母はいかなる時も私のことを愛してくれた。私にとって生きる理由の根源はそこにある。その優しさに触れ、再び踏み締めて生きていこうと誓った。
そんなときのことだ。突然、部屋全体が眩しく灼けつくような純白の光に飲み込まれた。視界が焼き切れそうな光芒の中、薄目を開けた私の目に飛び込んできたのは——鳥の羽とは明らかに異質な、金色の幾何学模様を帯びた巨翼だった。
「初めまして」
あまりにも現実離れした光景に、息をすることすら忘れた。初めまして、と。天使とは、これほど平然と人の言葉を騙るものなのか。
「……どちら様、ですか」
脳は処理を終えることなく、返答することを最優先にした。聞かずともわかっていた。それが「天使」と呼ばれる存在であることに疑いの余地はなかったからだ。でも私は確かめずにはいられなかった。
「あなたを救いに来た者です」
その絶世の容貌には、神聖なまでの優しさと希望——そして、その奥底にどうしても隠しきれていない、微かで爆発的な憎悪が宿っていた。
それ以来、天使は私の影のように寄り添うようになった。誰もいない通学路、静まり返った自室。天使は人間の認知をすり抜けながら、恐ろしいほどの速度と精密さで私に様々な「助言」を与えた。天使とは羽の生えた天才のことだったのかと一人で結論づけた。
「ねえ……どうして私だったの?」
ある夕暮れ、誰もいない屋上で私は尋ねた。天界から見下ろしたとき全くもって気付けないほどに陰に隠れた人間である私が選ばれたのだ。凄く不思議な話である。
「君が特別だからだ」
不完全な答えだった。けれど、天使はそれ以上教えてくれることはなかった。私がしつこく聞き出す立場ではない事は分かっている。この地獄から連れ出そうとしてくれる存在に、私はただ縋るしかないのだから。
そんなある朝、天使は唐突に私へ命じた。
「今日、学校を休んで街の図書館へ行きなさい」
今まではそんな直接的で意図が読めない言葉など吐いたことがなかっただけに驚いた。しかし言われるままに私は足を進める。いつの間にか私は天使へ絶対の信頼を置いていたのだ。そこは木々が生い茂った場所に立地している古びた雰囲気を持つ図書館である。カビと古い紙の匂いが充満する室内の奥深く、人気の途絶えた書庫へと導かれていった。
「あの棚の上から二段目、左端。その本を手に取りなさい」
天使の示すままに、私は細い指を伸ばした。漆黒の革装丁の本。好奇心のままにそれを開いた瞬間——私の存在そのものが、底なしの暗闇へと引きずり込まれていく感覚に襲われた。私にとって普通の読書のはずだったその行為は、全てを歪ませる一手となる。
そこに書かれていたのはひとりの少年が世界を呪い、踏みにじっていった残虐な物語だった。
第一章 死へ向かう誓い
——ぶちっ。
小さな命が潰れる湿った音が、静寂に響いた。真っ赤な甲殻を持つ、一匹のてんとう虫だった。それを指先で潰したのは、僕だ。命というものは、決して平等になど作られていない。強者は生き、無力な者はただ踏みにじられる。僕はただ、この世界の冷酷な摂理を指先で体現したに過ぎない。
「何をしているの?」
背後から届いた声は、まるで銀の鈴を転がしたかのように美しく、透き通っていた。
「虫を、殺していたんだ」
指についた赤い体液を拭いもせず冷淡に答えると、その子は鈴を鳴らすように高く笑った。不思議な子だ、と思いながら振り返る。
そこに立っていたのは、光を吸い込んだような眩い銀髪を持つ、美しい少女だった。
僕はその瞬間、落雷に打たれたような衝撃とともに、一つの明確な意志を刻み込んだ。——必ず、この手でこの美しい少女を殺してやろう、と。
「姫様!」
遠くから、重厚な鋼の鎧を鳴らした男が大声で駆けてくる。ああ、なるほど。この少女は、この国を統べる王家の姫君だったのだ。
「レオン!」
続いて僕の母が蒼白な顔で駆け寄ってくる。僕たちは無造作に引き離され、引きずられるように家へと連れ戻された。離れていく距離の中で、最後まで僕と姫の視線は絡み合ったままだった。彼女の瞳には、死を予感した恐怖ではなく、底知れない愉悦が揺らいでいた。
第ニ章 世界が僕を殺した日
僕が壊れ始めたのは三年前の夜だった。
当時の僕の家は、貧困の底にあった。毎日のように人の物を盗み金貨に変え、生計を立てていた。こうなったのも全部父のせいである。母と結婚した父は財産になる物全てを奪って姿を消した。それからというもの生き延びるための唯一の手段は盗みとなっている。母は僕が盗みをしている事は知らず、採掘の仕事だと伝えられている。帰るたびに母は優しい笑顔を向け、目を見て「ありがとう」と一言言ってくれるのだ。それが僕にとっての誇りだった。
「お兄ちゃん、おかえり!」
そんな母の隣には可愛らしい僕の妹がこちらに光を点した目を向けている。
ある日、人の声と熱気が渦巻く夜の市場。今夜は何か「大物」が手に入る——根拠のない直感が、僕の背中を押していた。僕はその大物を狙い、細めた目を四方八方に配っていた。そんなとき、人込みの隙間を、一瞬、妖しく光る美しい宝石が通り過ぎた。あれを逃せば次はない。僕は吸い寄せられるようにその男の影を追った。
男が肉屋の店頭で足を止めた瞬間、僕は滑り込むように指先を男の鞄へと滑らせた。ずっしりと重い感触が掌に触れる。それを掴み取るやいなや、僕は脱兎のごとく闇の中へ駆け出した。背後から追ってくる気配はない。暗がりで息を整えながら、ガッツポーズを作った。
月光の下で盗み出した石を確かめる。吸い込まれそうなほど美しく、そしてどこか禍々しい光を放っていた。すぐにでも金に換えるため、僕は路地裏にある鑑定士の店を叩いた。そこは白髪の老夫婦が静かに営む古物商だった。
「これを見てほしい」
カウンターに石を差し出した瞬間、老夫婦の顔から血の気が引いた。
「これは……あいつらの所有物じゃないか! 頼む、何も見ていない! とっとと出ていってくれ!」
半ば突き飛ばされるように店を追い出された。背中に冷や汗が流れる。僕は取ってはならない悪魔の持ち物を盗んでしまったのだと、初めて本能的な恐怖を覚えた。
その夜。薄暗い隠れ家で眠りについた僕を揺り動かしたのは、頑丈なドアが爆音とともに破壊される音だった。覚えているのはそこまでだ。暗闇の中から放たれた高位の睡眠魔法が、僕の意識を塗り潰した。
目を覚ましたとき、僕の全身は太い鉄の鎖で頑丈に拘束されていた。
「君が、あの石を盗んだのだね」
僕を見下ろすのは、黒い装束に身を包んだ大柄な男だった。周りを取り囲む男たちも同じ漆黒の衣装を纏っている。そして——僕の目の前には、同じように捕らえられ、腕を縛られた母と妹の姿があった。ふたりの瞳からは、すでに生の色が失われていた。
「さあ、始めよう。愚かな羽虫が犯した大罪の償いを」
男の淡々とした合図とともに、小柄な男が巨大な肉切り斧を振り上げ、母へと近づいていく。
「やめてくれ! 母さんは関係ない! 僕が、僕がやったんだ!」
僕の叫びは、虚空を割るだけだった。男の手元が下がり、重厚な刃が母の首筋を容赦なく断ち切った。鮮血が床を染める。
我が家はかつて、クズのような父の手によって破滅させられた。財産のすべてを奪われ、暴力を振るわれ、それでも母は必死に血を吐く思いで僕たちを育ててくれたのだ。その母が、僕の浅知恵のせいで、目の前で首を撥ねられた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
黒衣の男たちへの命乞いなのか、母への贖罪なのかも分からぬまま、僕は額を床に擦り付け、血を吐くように謝罪を繰り返した。
「次は、妹だ」
「頼む、お願いだ、僕を殺してくれ! 妹だけは……!」
僕の懇願は、彼らにとって娯楽のBGMに過ぎなかった。妹の細い身体は壊れるまで痛めつけられ、最期は首を絞められて苦悶のうちに息絶えた。僕が無力だったからだ。僕が弱かったからだ。
この世界では、誰もが生まれながらに一つの超常能力『ギフト』を授かる。怪力、魔法、回復——様々な恩恵が存在する中で、僕はごく稀に生まれる完全な「無能力者」だった。僕が価値のないゴミ屑だったから、家族は無残に殺されたのだ。
それからの日々は、終わりのない地獄だった。幾度となく皮膚を削がれ、骨を砕かれる拷問。瀕死に陥るたびにヒーラーの魔法で治癒され、再び苦痛のどん底に叩き落とされる。肉体が崩壊と再生を繰り返す中で、僕の頭を満たしていたのは家族の断末魔だけだった。
「早く殺してくれ……頼むから殺してくれ……」
「何を言っている。お楽しみはこれからじゃないか」
そんな会話を何ヶ月も繰り返した、ある日のことだった。再び爪を剥がそうと近づいてきた拷問官に対し、僕は残された最後の力で抵抗した。彼の太い手首に、思い切り歯を立てたのだ。肉を食いちぎる感触とともに、生温かく鉄臭い血が口内いっぱいに広がる。
「痛えっ! このガキが!!」
重い拳が僕の側頭部を撃ち抜き、視界が真っ暗に染まった——はずだった。だが、その意識の海底で僕が見たのは、たった今噛み千切った拷問官の、くだらない人生の記憶のすべてだった。
目を覚ますと、部屋の中に人の気配はなかった。交代の休憩にでも行ったのだろう。僕は、脳裏に刻み込まれた拷問官の歪んだ記憶に意識を集中させた。肉体の芯から、ぞわりと不気味な熱量が湧き上がる。次の瞬間、僕の腕や足の筋繊維がみるみる肥大化し、爆発的な腕力が全身に充満していくのを感じた。今なら、この重厚な鉄鎖すら引き千切れる——そう直感し、腕に力を込めた。
ガチァンッ!
重厚な鎖が、まるで腐った縄のように弾け飛んだ。その瞬間、僕は己の真の『ギフト』を理解した。僕は死者の血肉を喰らうことで、その者の持つ能力と記憶、存在そのものを模倣・強奪できるのだ。
「何の音だ!?」
廊下から足音が近づいてくる。見張りが入ってくる直前、僕は身体を収縮させ、元の無力な少年の姿へと戻った。
「実は僕……金属を分解する腐食のアビリティに覚醒したんです。この鎖を少しずつ劣化させて壊しました」
見張りの男は、自身の知識の範囲内で納得したような顔をした。思考の隙を与えず、僕は滑らかに言葉を重ねる。
「よければ……あなたの持つその美しい長剣で、僕の力を試してみませんか?」
呑気な男はあっさりと乗ってきた。檻の外から、無造作に剣を投げ入れてくる。剣は僕の足元に転がった。
「ごめんなさい……足の骨が折られていて拾えないんです。もう少しだけ、こちらへ寄せてくれませんか?」
男は腰の鍵で檻を開け、無警戒に足を踏み入れた。剣を引き寄せようと彼がかがんだその瞬間を、僕は待っていた。
身体を一瞬で膨張させ、極限の腕力で男の頭部と四肢を力任せに引き千切った。生温かい血の雨が降り注ぐ。圧倒的な暴力を振るう快感が、脳髄を痺れさせた。
異変に気づいた残りの見張りが雪崩れ込んできた。血の海と化した牢獄を見て、彼らは絶叫した。
「どういうことだ!? 何が起きた!?」
「急に俺の剣が宙に浮いて……男が自分自身を切り刻み始めたんです!」
見張りの男の姿へと変身した僕が叫ぶと、リーダーらしき男が激昂した。
「あのガキ、隠れて『物体浮遊』のアビリティを持っていたのか! なぜ自害させた、貴様!」
リーダーが僕の胸ぐらを掴み上げる。僕は怯えた振りをしながら呟いた。
「は、早く主様の元へこの死体を運びましょう……!」
「主」が何者かは知らなかったが、この組織の奥底に漂う不穏な気配は感じ取れていた。僕は巧みに男たちを誘導し、狭い地下牢の奥へと死体を回収させに入らせた。
全員が牢の最奥に入り切った瞬間、最後尾にいた僕は流れるように鉄格子を閉め、鍵を回した。
「……おい、何の真似だ!?」
一斉に振り返る男たち。僕は見張りの皮をベリベリと剥がすように解除し、素顔を晒して微笑んだ。
「君たちは、本当に救いようのない馬鹿だ。今から全員、死んでもらう」
先ほど奪った記憶の中から覚えた高位の火炎魔法を、狭い檻の中へ解き放った。燃え盛る業火の中、ヒーラーの男だけが狂ったように神へ祈りを捧げ、焼き尽くされる皮膚を自己再生させながら苦痛に耐え続けていた。
全身を黒く焦がしながら、リーダーの男が絶叫する。
「全ては……全ては『あのお方』の悲願のために……!」
あのお方、とは誰のことか。どうでもよかった。
絶叫と肉の焦げる匂いを背に、僕は地下牢を後にした。それから、子供を欲しがっていた裕福な狂気の未亡人に引き取られ、新しい身分を手に入れた。
あの一件以来、僕の中の倫理観は完全に破綻していた。大切な家族が無残に殺される様を見てから、僕は悟ったのだ。——人間にとって最大の救済とは、愛する者の手によって美しく殺してあげることなのだ、と。
僕の思考は、狂おしいほどに姫の殺害へと傾倒していった。彼女の気高い容姿だけではない。彼女だけが、僕の壊れきった精神の深淵を、あの日笑って受け止めてくれたのだから。彼女しかいない。彼女しか、僕の手で殺す価値のある存在はいない。
第三章 命の重なり
それからの僕は、城の周囲を徘徊する幽鬼となった。綿密な偵察。どうすればあの深遠な城塞に侵入し、姫の首を絞められるか。得られた最大の障壁は一つ——騎士団長アルバドフ。常に姫の背後に控え、巨大な大剣を背負った男。その鋭利な眼光と威圧感だけで、彼が並の人間ではないことが理解できた。あの男を越えない限り、姫のもとへは辿り着けない。
僕の惨劇は、ここから加速した。騎士団長を上回る力を得るため、街の闇に紛れて狩りを始めた。
静まり返った深夜の路地裏。酒に酔いしれた歩行者は、絶好の獲物だった。
「ごめんなさい、さっき銀貨を落としましたよ?」
声をかけ、言葉巧みに女を暗がりへ誘い込む。強化された腕力で頭骨を砕き、飛び散った血を舐め取る。——魔物を操るアビリティ。くだらない、路上パフォーマンスにしかならない力だ。
「……何をしている」
路地の入口から冷ややかな声が聞こえた。見られた。即座に命を奪うべく疾走したが——僕の不意打ちの斬撃は、まるで未来を知っていたかのように完璧な動作でかわされた。何者だ、この男は。
「安心するといい。警察に通報するつもりはないよ。ただ、君と『友達』になりたかったんだ」
気がつくと、僕は男に促されるまま静かな酒場のカウンターに座っていた。
「君と話したかったのは、君の魂から溢れ出す圧倒的な『多層の力』が見えたからだ」
男は、僕が秘匿していた模倣のアビリティを、一目で見抜いていた。
「お前は……何者だ?」
「僕は予言者。この世界でこれから起こる事象を、寸分違わず見通すことができる」
そんな神のごとき『ギフト』が存在するのか。
「僕はね、君にもっとこの世界を憎んでほしいんだ。君も気づいているだろう? 世界は根本から腐敗している。多くの人間は生への執着を演じながら、その実、生きるという苦痛から逃れる『死』を心から渇望している。人間の本当の望みは、どちらだと思う?」
僕は迷わず答えた。
「全員、僕が殺してあげればいいと思うよ」
予言者の男は、腹を抱えて歓喜の声を上げた。
「素晴らしい! 君とはもう、こんな穏やかな形では会えないだろう。どうか……変わらない君のままでいておくれ」
男は歓喜の声を上げ、謎めいた言葉を残して消えた。その一言一言が、僕の殺意をより研ぎ澄ませていった。なぜ僕がそいつを殺しその最強と呼べるギフトを取らなかったのかは分からない。そんな思考に至る事が許可されていないかのように封じられた。
それからも僕は殺戮を重ね、無数の命と能力を自分の中に溜め込んでいった。これだけの魂を融合させれば、騎士団長とも互角に渡り合えるはずだった。
ある日、道端でひとり膝を抱えて泣いている幼い男の子を見かけた。他人の苦痛に何も感じなくなっていたはずの僕の目から、突然ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。——理由を知って、背筋が凍りついた。記憶の奔流。その少年と過ごした温かな日常が、脳裏に再生される。僕が先週殺した、しがない父親の記憶だ。僕の『ギフト』の代償。それは、喰らった人間の「感情」や「愛憎」までもが、僕の魂に永久に融け合ってしまうことだった。模倣とは、単なる能力のコピーではない。他者の人生そのものを自分の魂に継ぎ接ぎする、おぞましい呪いだったのだ。
だが、その呪いは僕に決定的なアドバンテージを与えた。喰らった兵士たちの記憶から、騎士団長アルバドフの『ギフト』の全貌を完璧に理解したのだ。彼のギフトは『絶対斬断』。一度放たれた大剣の軌道は概念となり、対象を真二つに切断するまで空間を追跡し続ける。直撃を受ければ即死。勝算は五分五分。だが、逃げる選択肢など最初から存在しなかった。
街ではすでに「姿なき模倣の殺人鬼」の噂で持ちきりとなり、騎士団も厳戒態勢を敷いていた。僕は正面から、城塞の決戦へと足を踏み入れた。
「アルバドフ、今日はもう下がりなさい。顔色が悪いぞ」
団長の最愛の弟の姿と声を完璧に模倣し、僕は執務室の前に現れた。
巨躯の騎士団長がゆっくりと振り返る。
「……お前は誰だ」
「な……なぜ分かった?」
「弟は一度たりとも、私を名前で呼んだことはない。『兄上』としか呼ばん」
初歩的な失策。だが、もはや引き返す必要はなかった。
「貴様が……弟を殺した模倣の殺人鬼か」
「そうだよ。僕が君の弟を殺し、肉を喰らった。次はお前の番だ」
アルバドフの顔に、怒りと絶望が入り混じった深い皺が刻まれる。彼は静かに背中の大剣を引き抜いた。
僕は知っていた。アルバドフの『絶対斬断』には致命的な二つの弱点がある。一つは、網膜で対象の「個体識別」を完了しない限り発動できないという制約だ。剣が振り上げられた瞬間、僕は空間魔法で数千の鏡の欠片を室内に撒き散らした。無限に屈折する光の中、彼の視界には無数の「僕」が映し出される。初撃の判定を完全に潰した。
ここからが、真の心理戦だった。僕は穏やかな声で口を開く。
「動きを止めろ、アルバドフ。僕を斬れば、お前は取り返しのつかない後悔をすることになる」
「ハッ、命乞いか?」
「僕はこの城の地下水脈に、街全体を粉砕する大量の爆薬を仕掛けた。さらに『今宵、騎士団長アルバドフが姫奪還のために城と街を火の海に変える』という声明文を、街中の掲示板に貼り出しておいた。今ここで僕を殺せば、爆薬が起動し、お前は永遠に国を滅ぼした逆賊として歴史に刻まれる」
弱点の二つ目。アルバドフと姫は、主従を超えた禁断の愛で結ばれていた。騎士としての名誉と姫への忠誠。それを踏みにじられることが、彼にとって最大の恐怖だった。
「ブラフだ……そんなハッタリに騙されるか!」
「本当に爆薬があるか、試してみるかい?」
僕は爆撃のギフトを使い、城に隣接する兵士の詰所を一棟、跡形もなく爆破してみせた。凄まじい振動と悲鳴が部屋まで届く。
「これで国民はお前を疑う。今僕を殺しても、お前と姫の潔白を証明する術は永遠に失われる。どちらにせよ生き地獄だ。……だから提案だ。今、僕の目の前でその大剣で己の腹を貫け。そうすれば爆薬の起爆は止めてやる。これが、最期まで姫を愛し抜いたお前への救済だ」
彼の忠誠心と愛は、僕の計算通りあまりにも気高く、そして脆弱だった。アルバドフは何も言わず、ただ静かに姫の部屋の方向を一度だけ見つめると、躊躇なく己の腹部へ大剣を突き立てた。鮮血が床を赤く染めていく。
崩れ落ちる彼の耳元に歩み寄り、僕は優しく囁いた。
「全部嘘だよ。告発状も爆薬も、あの詰所の一つしか仕掛けていない。城の中に入るのは想像以上に難しいからね……お前の皮がなければ」
死にゆくアルバドフの瞳に、激しい憎悪と悲痛な涙が溢れ出す。
——ああ、なんて美しいのだろう。愛する者のために自らを犠牲にするという行為は、これほどまでに無価値で、だからこそ美しい。
僕は絶命していく彼の頸脈に喰らいつき、血を飲み干した。風化のアビリティで彼の巨躯を灰に変え、僕は「騎士団長アルバドフ」の皮膚と存在を完璧に纏った。
重厚な装飾が施された大扉を開けると、そこには洗練された豪奢な私室が広がっていた。
「お帰りなさいませ、アルバドフ様」
控えていたメイドが恭しく頭を下げる。
「姫様が、あなたをお呼びでした」
「そうか。すぐに向かう」
部屋の奥、シルクのカーテンが揺れる天蓋付きのベッドに、あの日の銀髪の少女が佇んでいた。
「お勤めご苦労様、アルバドフ」
「ありがたき幸せにございます、姫様」
「近くへおいで」
姫がゆっくりと衣類を滑り落としていく。僕もまた、アルバドフとしてその柔肌に触れるべく手を伸ばした。彼女を押し倒したその瞬間、姫は僕の耳元で可憐に微笑み、こう囁いた。
「いつまで……そんな無骨な男の皮を被っているの? レオン」
心臓が跳ね上がった。全身の毛穴が開くような衝撃。破られた。完璧だったはずの模倣が。
「……なぜ、分かった?」
僕が素顔に戻ると、姫は愛おしそうに僕の頬を撫でた。
「団長様とあなたの目は決定的に違うわ。その瞳に宿る色がね。あなたの目には……ドロドロとした狂おしい愛が、今にも溢れ出しそうに渦巻いているもの」
模倣の限界を、僕はそこで思い知らされた。肉体や記憶を奪えても、魂が醸し出す「色」だけは偽れないのだと。
「ねえレオン……私を殺しに来てくれたのでしょう? 私を殺して」
言葉を失った。殺そうとしていた対象が、まるで歓喜に震えながら死を求めているのだから。
「私はね、ずっと昔からあなたに恋をしていたの。だから、あなたを私と同じ不快な死の思想に染め上げるために、裏から色々と手を回させてもらったのよ」
脳内で、全てのジグソーパズルが狂暴な音を立てて噛み合わさった。あの日、僕の家族を殺させた黒衣の男たち。彼らを動かしていた糸の引き手は、目の前にいるこの幼い姫君だったのだ。
一瞬、苛烈な怒りが胸を焼いた。しかし次の瞬間には、その怒りすらも愛おしい快楽へと変わっていた。僕はとっくに、彼女が用意した狂気のシナリオに染まりきっていたのだから。
「愛する人は、自分の手で美しく殺してあげるのが一番の愛よね、レオン?」
「ああ……その通りだ」
「でもその前に、ひとつだけ願いを聞いて」
「なんだい?」
「この不快な城を、跡形もなく壊してほしいの。私、ここが死ぬほど大嫌いだったのよ」
それからの日々は、狂気の共作だった。僕はアルバドフとして騎士団を内部から崩壊させ、姫は内通者として防衛線を無力化した。最後の日、僕たちは城の柱という柱に火を放った。
「大好きだよ、レオン」
燃え上がる炎が夜空を赤く染める中、僕たちは強く抱き合った。そして僕は、彼女の華奢な首に両手をかけ、徐々に力を込めた。彼女の瞳から生の色が消え去り、舌を吐き出して絶命するまで、僕はその美しい死顔を見つめ続けた。
彼女の肉体を喰らい、能力を奪おうとした時——不可解なことが起きた。僕の中に、彼女の『ギフト』は何一つ流入してこなかったのだ。無能力者だったのか、それとも拒まれたのか。疑問は残りつつも、僕は満足感の中に浸っていた。
姫を殺して以来、僕は生きる目的を失った脱け殻となった。手当たり次第に飯を喰い、泥のように眠る。ただそれだけの虚無の日々。
そんなある日、酒場の片隅で流れた噂話が、僕の死んでいた心を激しく揺り動かした。
「おい、聞いたか? 西の丘に『天使』が降臨したって話だ!」
「ハッ、おとぎ話か? 天使なんて存在するわけねえだろ」
「本当なんだよ! 俺が魔物に襲われた時、眩い翼を持った天使が舞い降りて、命を救ってくれたんだ!」
天使——神の使者。その存在は、どれほど美しく、どれほど気高いのだろうか。それをこの手で穢し、殺し、奪い取ることができたなら、どれほどの快楽が得られるだろう。姫を殺して以来の、狂おしい高揚が身体を駆け巡った。
目撃者の男から記憶を読み取り、正確な場所を特定した。夕暮れの丘に到着すると、僕は自ら猛毒をあおぎ、血を吐きながら大声で叫び続けた。
「ああ……神様! 私には家に残してきた幼い家族がいるのです! こんなところで死ぬわけにはいかない……誰か救ってください!」
弱者の演技。惨めに泥を舐め、助けを求める哀れな人間。何度も叫び続け、意識が遠のきかけたその時だった。
上空の雲が十字に割れ、神聖な光芒が降り注いだ。そこから現れたのは、この世の造形とは思えない美しすぎる翼を広げた存在——天使だった。
「可哀想に……今、助けてあげます」
天使が差し出した手に解毒の光が宿った瞬間。
——ズブリ。
腰に忍ばせていたアルバドフの『絶対斬断』のアビリティを乗せた短剣が、天使の脇腹を深く貫いた。宙を舞う、白銀の眩い血液。それは僕がこれまで見てきたどんな流血よりも、圧倒的に美しかった。
天使という種族の弱点は、弱者の嘘を見抜けぬ無垢な「善性」にある——僕の目論見は完璧に的中した。
天使は地面に叩きつけられ、羽を散らしながら血の海に伏せた。先ほどまでの神聖な威厳は消え去り、ただの無力な獲物へと成り下がっていた。僕はその顔を踏みつけ、問いかけた。
「天使様……僕の姿は、君の目にどう映る?」
天使は吐血しながら、静かに僕を見つめた。
「……悪魔以外の、何者でもありません」
「ハハッ! 簡潔で素晴らしい答えだ! だがそれじゃダメなんだよ。君と僕が『対等』になってしまうじゃないか。僕は神になりたいんだ。君ごときに負けてたまるか」
僕の中に育っていたのは、世界への憎悪を超えた「神への渇望」だった。
天使は最後に、悲しげに呟いた。
「……世界は、あなたが思っているよりも、ずっと優しいものなのです」
「くだらない」
僕はナイフを振り下ろし、天使の首を切り落とした。そして、その白銀の血をむさぼるように飲み干した。
その瞬間、脳髄が破裂するほどの奔流となって情報が流れ込んできた。天使の記憶、そして——何千、何万という「別の次元の世界」の映像。理解した。天使の持つ『ギフト』とは、次元の壁を穿ち、世界を自由に渡り歩く能力だったのだ。
僕の心に、新たなる暗い歓喜が湧き上がった。他の世界へ行ける。つまり——こんな腐りきった世界、いつでも捨てられるということだ。人々が絶望の中で死に絶えていく光景を、もっと見たい。世界は腐敗している。だから僕が、全てを焼き尽くして浄化してやらねばならない。
僕は解き放った高位火炎魔法で、僕の生まれた世界全体に業火の雨を降らせた。逃げ惑う人々、焼き尽くされる街並み。最後の人類にとっての救済(死)を与えた後、僕は次元の亀裂を破り、新しい世界へと飛び立った。
——だが、その瞬間だった。次元の狭間で、僕は見えない巨大な力によって強引に捕らえられ、底なしの暗黒へと引きずり落とされた。
目覚めた場所は、赤黒い大地が広がる地獄のような世界だった。空からは血の雨が降り、遠くには針の山が連なっている。囚われたことに気づいた僕は、すぐさま飛行のアビリティを使って上空へ逃れようとした。
——しかし、身体がピクリとも動かない。
そこで僕は思い知ることになった。「弱者」の絶対的な無力感を。この世界を守護する異形の魔物たち。その頭領である巨大な角を持つ悪魔が、僕の持つすべての『ギフト』を完全に無効化する領域を展開していたのだ。
「身の程を知れ、矮小な人間よ。お前はここで永遠の罪を償うのだ」
無力な肉体へと戻された僕は、その世界でひたすら拷問を受け続けた。かつて僕が地下牢で受けていたものとは比較にならない、概念的な苦痛。舌を抜かれ、肉を削がれ、魂を切り刻まれる日々。声を出すことすら許されず、ただ苦痛だけが更新されていく。
——そうして、百年が過ぎた。
僕の精神は完全に崩壊し、思考することすら放棄していた。ただ一つ、宇宙を塗り潰すほどの規格外の「憎悪」だけが、僕の魂の核心に残留し続けた。
僕は、ただ静かに生きようとしていた普通の人間だったはずだ。僕をここまで歪ませたのは理不尽な世界そのものだったのに、なぜ僕だけが罪人として罰せられねばならないのか。
『許さない……許さない……許さない……!!』
神を恨み、天使を恨み、運命を恨み——僕の存在のすべてが、純粋な殺意へと昇華された。
百年目の日、異次元の歪みが生じ、僕は元の世界へと吐き出された。僕は驚いた。なぜなら帰ってきた世界は前いた様子と全く変わっていなかったからである。あの場所は時間さえ他の場所とは違っていたのかと気付かされる。僕の目に空から降る何かが映る。白い羽……それは明らかに見覚えがあった。薄々と勘づいていた。僕を地獄送りにした者が天使の残党であることを。自由を取り戻した僕は、暴走する憎悪のままにその世界を再び炎で包み込んだ。逃げ惑う人々、抱き合い最後の言葉を交わす者たち、その光景を見ている僕の顔はまさに悪の権化としか表せない。そんな様子を見送った僕は空間を力任せに引き裂いた。もう二度と、どの世界も僕を繋ぎ止めることはできない。
第四章 生みの世
次に僕が降り立ったのは、高度な機械技術によって繁栄を極めた世界だった。高層ビルが立ち並ぶその街は「ニューヨーク」と呼ばれ、異界から現れた僕の姿に群衆が混乱を極めていた。僕が世界を渡る理由はただ一つ——すべての次元を焼き尽くし、無に帰すためだ。
「ファイア! 撃て!!」
この世界の兵器と思われる鉄の弾丸や光線が僕に注がれたが、百年の拷問を耐え抜いた僕の肉体には、蚊が刺したほどの痒みすら与えられなかった。
虐殺が始まった。情熱も愉悦もなく、ただ作業のように人間を肉片に変えていく。だが、この世界は僕の故郷よりも遥かに広大で、すべてを滅ぼすには膨大な時間を要した。
疲弊した僕は、街の外れにポツンと佇む一軒の無人の家に舞い降りた。人の気配のない静まり返った部屋。なぜか視線が吸い寄せられ、机の上に置かれた束ねられた原稿用紙へと手が伸びた。そこに書かれていた文字を目にした瞬間、僕の時が止まった。
そこには——僕が生まれた日からの全人生、母の死、姫との出会い、天使の殺害、そして百年の拷問に至るまで、僕の思考と行動のすべてが寸分違わず文字として綴られていたのだ。
「……ハハ……ハハハハハ!!」
僕は腹を抱えて大声を上げて笑った。そういうことか! 全ては仕組まれていた! 僕の苦痛も、狂気も、愛も、すべてはこの紙の上に描かれた「シナリオ」に過ぎなかったのだ!
「読んでくれたかい? 僕の最高傑作を」
部屋の暗がりから、静かに男が歩み出てきた。その顔を見て、僕は目を見開いた。かつて酒場で僕に「予言者」だと名乗った、あの男だった。
「僕はね、君の生みの親……いわゆる『著者』だよ。君はこの物語の、哀れで魅力的な主人公に過ぎないんだ」
男の言葉に、僕は妙に納得していた。道理で僕の人生がこれほどまでに理不尽で、美しく壊れていたわけだ。全てはこの男の気まぐれなペン先一つで決められていたのだから。
刹那、僕の中に沸き立ったのは、これまでの全人生を凌駕する殺意だった。アビリティを全開にし、男の首を刈り取らんと肉薄する。
「無駄だよ。君のその動きすら、僕が今この原稿に書き込んだ通り——」
僕の短剣は、男の首皮一枚のところでピタリと停止した。見えない「原稿の力」が僕の肉体を拘束している。だが、男は致命的な勘違いをしていた。彼は、この主人公に苦痛を与えすぎたのだ。百年の地獄で培養された僕の「憎悪」は、すでに「作品」という器の容量を遥かに超え、現実の物理法則すら侵食していた。
バリバリバリッ!!
空間が悲鳴を上げ、見えない原稿の拘束にヒビが入る。僕は怨嗟の絶叫とともに拘束を力任せに打ち破り、短剣で男の身体を細切れに切り刻んだ。
「な……そんなはずは……」
男は絶望と恐怖に顔を歪ませながら、肉片となって転がった。僕は男の生温かい血に喰らいつき、その魂を飲み干した。その男の記憶が流れ込む、はずだった。そのはずなのに、少しも鮮明に見ることができなかった。その記憶に入ることがまるで禁忌とされているような、そんな次元のものである。もう一度深く入り込もうとする。すると僕の心がそれを拒絶した。
『創造』——それが、この男の持つ『ギフト』である。世界を文字通り書き換え、万物を産み出す神の力。今やその絶対の権能すらも、僕の手の中に落ちたのだ。
その時、僕の脳内の奥深くから、懐かしい声が響き渡った。
『……これで、私とあなただけの世界が叶えられるわね、レオン』
心臓が跳ね上がった。姫の声だった。
『ずっと待っていたの。あなたがこの「世界の壁」を打ち破る瞬間を』
彼女の声は、僕の魂の最深部から直接響いていた。
『あの日、あなたに殺された時から、私はあなたの中で生きていたの。あなたの苦痛も、殺意も、ずっと一番近くで見つめていたわ』
彼女の真の『ギフト』は『寄生』——自分を殺した者の魂に寄生し、永遠に存在し続ける能力だったのだ。だからあの日、彼女のアビリティは僕に流入しなかったのだ。
「なるほど……ずっとそこにいたのか」
『さあレオン、創造の力で私とあなただけの美しい愛の世界を作りましょう?』
姫の魂が、僕の意識を侵食し、僕という存在を乗っ取ろうと膨れ上がる。
「生憎だが……君の望みには応えられない。今の僕にあるのは、世界への憎悪だけだ」
『……なんですって? 私を拒絶するの!? 私の愛を否定するの!?』
姫の声が恐ろしい怪物の叫びへと変貌し、僕の自我を内側から食い破ろうとする。だが、今の僕には『創造』の力があった。
「消えろ」
僕は自身の魂の内部を『書き換えた』。姫という概念を消去し、上書きする。
『嫌……嫌あぁぁぁぁぁ!! レオン、あなたを愛して——』
姫の叫びは途切れ、完全に虚無へと消滅した。
それからの僕は、愛も、情も、哀愁もすべてを削ぎ落とし、ただ私欲と憎悪のためだけに世界を支配する絶対神となった。創造の力で何万、何億という新しい世界を生み出し、そこに生きる登場人物たちに、僕が味わった以上の地獄と苦痛を与え続けた。人生というものが、存在というものが、いかに腐りきったゴミ屑であるかを証明するために——
——ここで、本の手記は途切れていた。
終章 最後の一文
ハッと息を吹き返した時、私は無意識のうちに隣に立つ天使の細い首を強く締め上げていた。
「あっ……ご、ごめんなさい……!」
我に返り、慌てて手を離す。本を読んでいる間に、私は少年の絶望と狂気に深く共鳴し、自我を失いかけていたのだ。
「……つまり」
私が震える声で呟くと、首を押さえて咳き込んでいた天使が悲痛な瞳で私を見つめた。
「そう……この本に書かれていることは、すべて真実なんだ。私たちの生きるこの世界も、あの男が憎悪のままに創造した無数の玩具の一つに過ぎない。私は殺された天使の生き残りだ。君の持つ『可能性』に賭けて、世界の外側から君をスカウトしに来たんだ」
突拍子もない話だったが、私の中に残る読後感と辻褄は、吐き気がするほど完璧に合致していた。
天使の手を取り、私たちは次元の亀裂を越えた。降り立った場所は、手記の最後に記されていた通りの場所——燃え盛る廃墟と化したニューヨーク。人っ子一人いない静寂の中、空から漆黒の衣を纏った男が舞い降りてきた。
本には顔の描写がほとんどなかった。だから、初めてその素顔を見た。哀しいほどに美しく、そして救いようのないほどに孤高な——「悪魔」そのものの姿だった。
「僕を百年の地獄に叩き落とした天使の生き残りかい?」
黒い男——レオンが、冷ややかな声で天使に問いかける。
「そうだ。お前の狂気を止めるために来た」
「なら、今度こそ木っ端微塵に砕いてあげないとね」
レオンが不吉な圧力を放ち、殺意とともに地を蹴った瞬間、私は迷わず天使の前に立ちはだかった。
「私を……私を先に殺しなさい! 私はこの世で最強のアビリティを持っている。私を殺せば、それがあなたのものになる!」
レオンは空中でピタリと動きを止め、不審そうに私を見下ろした。死を恐れず、むしろ差し出してくる私の心理が理解できなかったのだろう。世界が一瞬静まりかえる。
「……いいだろう。望み通りにしてやる」
静まり返った世界に、肉体を容易く引き裂く刃の音が響いた。レオンは私の言葉を信じ、私の首筋を切り裂いて、流れ出る血をその唇で受け止めた。
いつものように。彼がこれまで何千人もの命を奪ってきた時のように。私の記憶と存在が、彼の狂った魂の深淵へと流れ込んでいく。
「……あ……?」
レオンの動きが完全に止まった。その漆黒の瞳から、ボロボロと大きな涙の粒が溢れ落ちる。
彼の中に流れ込んだのは、圧倒的な暴力でも、絶大な能力でもなかった。それは——私という人間が生きてきた、惨めで、貧しくて、けれど絶対的に温かかった「記憶」だった。
毎朝のイジメ、痛みに満ちた日常。その極限の地獄の底で、私を固く抱きしめてくれた母の温もり。『何があっても、私はあなたの世界でたった一人の味方だから』という、無償の愛。
レオンの魂の中で、何千もの殺戮の記憶が弾け飛んだ。彼がずっと前に失い、忘れ去っていたもの。かつて貧しくも温かかった家庭で、母や妹と笑い合っていたあの「純粋な愛」の記憶が、私の記憶と激しく共鳴し、彼の殺意を内側から浄化していく。
「生きているからこそ……愛し合える……というのか……?」
悪魔は、己の中にいた「幼い頃の自分」とついに再会してしまった。世界を滅ぼすほどに肥大化した憎悪の鎧が砕け散り、そこに残されたのは、ただ傷つき疲れ果てた一人の少年だった。
「人とは何か……生きるとは何か……。それを測るには、この世界は……あまりにも複雑で、美しすぎたんだな……」
レオンは膝をつき、絞り出すような声で呟いた。
「僕は……もう疲れてしまった。全てを……終わりにしよう」
彼は虚空から一冊の古い原稿用紙を取り出すと、震える指先で最後の『創造』の力を込め、一文を書き走らせた。
『僕はその日、全てを終わりへ導いた』
ついに天使が口を開く。
「私はあの子を犠牲に差し出した。君にとって一番恋しい幸せ。それを彼女が持っていた。そしてそれは君が最も目を向けるべき真実だった」
レオンは続けた。
「僕は痛みで溢れる世界が大嫌いだった。でも本当はその世界に遺った愛の記憶までも嫌いになれなかった」
光が溢れ出した。燃え盛るニューヨークも、次元の壁も、天使も、私という存在すらも、優しい光の中に溶けていく。
消えゆく意識の中で、私は最後に思い出していた。図書館で手にした、あの漆黒の本のタイトルを。
その本の名は——
『終わりの共作』
——全ては最高傑作のために。
序章 救済の一節
私にとっての世界とは、靴箱の底に沈む濡れたゴムの匂いと、毎朝上履きの中に敷き詰められた鋭利な画鋲の感触でしかなかった。そんな無機質なもので私の世界は構成される。
「毎回試験は赤点」「50m走は速くて12秒」
「すっごく泣き虫」それが私を象徴する性質。生まれつきなんだ。私はあらゆる意味で「弱者」だった。弱さは存在すること自体が罪なのだと、教えられるまでもなく皮膚で理解していた。だって今こんな人生を送ってしまっているから。
——だが、本当にそれは「生まれつき」だったのだろうか。不思議なことに、私には幼少期の記憶が一切ない。白く塗り潰されたキャンバスのように何もかもが欠落している。何度も思い出そうとするがそこには永遠と続く白い情景が広がるのみ。
私は聞く。
「お母さん、どうして私には昔の思い出が残ってないの?」
「重い病気にかかっていたからなのよ」
と優しく微笑む。
これがテンプレになっている。
しかしその病名を聞いたことは一度もなかった。その質問のときはいつも母は答える前に一息置いていた。
「ねえ、どんな気持ち? あんなちゃん」
分厚く塗られたべっとりとしたリップグロスが、歪んだ弧を描く。ロングヘアの少女——この狭い教室の支配者。彼女の声は教室の角まで届き、一斉に人間が哀れみの燻んだ目を私に放射する。だが、私の中に湧き上がる感情はもう何一つなかった。怒りも、悲しみも、絶望すらも。私の世界からは、ずっと前に色が脱色してしまっていた。人の苦しみの先に待つのは諦めのみ。
「……ごめんなさい」
私の選択肢はその文言が何千と並んでいるもの。どれを選んでも同じである。彼女たちが欲しいのは理由のある謝罪ではない。ただ屈服し、自我をすり減らす愚かな人間の顔が見たいだけなのだから。時間が過ぎ去るのを待つだけの木偶になることが、私の唯一の生存戦略だった。その教室にはいっときの空白が流れる。やけに外の蝉が騒がしく必死に鳴いていた。
「キンコーン」
昼休みのチャイムが学校中に響き渡った。
私から言えば悪魔が迎えにやってくる汽笛といえよう。
「さ、行こうか」
少女が目の前に現れる。強い音を立て私の手首は握られる。向かう場所は決まって一つしかない。毎度の定位置だ。ジメついていて、生温い女子トイレ。そこで顔以外の全てを殴られる。私はその度にこの世界の在り方に憎しみが募っていった。世の中というものは、理不尽に踏みつけられる「受け皿」が存在することで辛うじて均衡を保っている。
私は涙を腕で拭き取る。天井の明るい蛍光灯が目の先で揺れ動く。私はシステムの下層に配置されただけの存在だろう。
下校のとき、一枚の落ち葉を踏んだ。それは茶色く、脆い。その存在にすら私は気づかない。
雲が月を覆う夜、食材を刻む母親を横目にカッターナイフを持ち出した。自室に戻ると私はその刃を腕に当てていた。刃先を押し込もうとするたび、手が情けなく震える。私は罪を被る弱い存在である私に罰を与える。しかしやはり私の息は荒れたままでそれ以上は何もない。こんなことも上手くこなせない自分に涙をこぼす。静かな部屋に私の殺傷力のない嗚咽が響いた時、ドアが軽やかな音を立てて開いた。
「どうしたの? あんな」
そこには悲しみの顔をした母が立っていた。リビングとの壁は薄いことはわかっていた。泣き声を聞かれてしまったのだろう。母は静かに部屋に足を踏み入れ、カッターを握りしめる私の手を優しく包み込み、そのまま強く抱きしめた。
「何があんなを苦しめているのか、話せるようになるまでお母さんは待つわ。何があっても、私はあなたの味方だから」
母はいかなる時も私のことを愛してくれた。私にとって生きる理由の根源はそこにある。その優しさに触れ、再び踏み締めて生きていこうと誓った。
そんなときのことだ。突然、部屋全体が眩しく灼けつくような純白の光に飲み込まれた。視界が焼き切れそうな光芒の中、薄目を開けた私の目に飛び込んできたのは——鳥の羽とは明らかに異質な、金色の幾何学模様を帯びた巨翼だった。
「初めまして」
あまりにも現実離れした光景に、息をすることすら忘れた。初めまして、と。天使とは、これほど平然と人の言葉を騙るものなのか。
「……どちら様、ですか」
脳は処理を終えることなく、返答することを最優先にした。聞かずともわかっていた。それが「天使」と呼ばれる存在であることに疑いの余地はなかったからだ。でも私は確かめずにはいられなかった。
「あなたを救いに来た者です」
その絶世の容貌には、神聖なまでの優しさと希望——そして、その奥底にどうしても隠しきれていない、微かで爆発的な憎悪が宿っていた。
それ以来、天使は私の影のように寄り添うようになった。誰もいない通学路、静まり返った自室。天使は人間の認知をすり抜けながら、恐ろしいほどの速度と精密さで私に様々な「助言」を与えた。天使とは羽の生えた天才のことだったのかと一人で結論づけた。
「ねえ……どうして私だったの?」
ある夕暮れ、誰もいない屋上で私は尋ねた。天界から見下ろしたとき全くもって気付けないほどに陰に隠れた人間である私が選ばれたのだ。凄く不思議な話である。
「君が特別だからだ」
不完全な答えだった。けれど、天使はそれ以上教えてくれることはなかった。私がしつこく聞き出す立場ではない事は分かっている。この地獄から連れ出そうとしてくれる存在に、私はただ縋るしかないのだから。
そんなある朝、天使は唐突に私へ命じた。
「今日、学校を休んで街の図書館へ行きなさい」
今まではそんな直接的で意図が読めない言葉など吐いたことがなかっただけに驚いた。しかし言われるままに私は足を進める。いつの間にか私は天使へ絶対の信頼を置いていたのだ。そこは木々が生い茂った場所に立地している古びた雰囲気を持つ図書館である。カビと古い紙の匂いが充満する室内の奥深く、人気の途絶えた書庫へと導かれていった。
「あの棚の上から二段目、左端。その本を手に取りなさい」
天使の示すままに、私は細い指を伸ばした。漆黒の革装丁の本。好奇心のままにそれを開いた瞬間——私の存在そのものが、底なしの暗闇へと引きずり込まれていく感覚に襲われた。私にとって普通の読書のはずだったその行為は、全てを歪ませる一手となる。
そこに書かれていたのはひとりの少年が世界を呪い、踏みにじっていった残虐な物語だった。
第一章 死へ向かう誓い
——ぶちっ。
小さな命が潰れる湿った音が、静寂に響いた。真っ赤な甲殻を持つ、一匹のてんとう虫だった。それを指先で潰したのは、僕だ。命というものは、決して平等になど作られていない。強者は生き、無力な者はただ踏みにじられる。僕はただ、この世界の冷酷な摂理を指先で体現したに過ぎない。
「何をしているの?」
背後から届いた声は、まるで銀の鈴を転がしたかのように美しく、透き通っていた。
「虫を、殺していたんだ」
指についた赤い体液を拭いもせず冷淡に答えると、その子は鈴を鳴らすように高く笑った。不思議な子だ、と思いながら振り返る。
そこに立っていたのは、光を吸い込んだような眩い銀髪を持つ、美しい少女だった。
僕はその瞬間、落雷に打たれたような衝撃とともに、一つの明確な意志を刻み込んだ。——必ず、この手でこの美しい少女を殺してやろう、と。
「姫様!」
遠くから、重厚な鋼の鎧を鳴らした男が大声で駆けてくる。ああ、なるほど。この少女は、この国を統べる王家の姫君だったのだ。
「レオン!」
続いて僕の母が蒼白な顔で駆け寄ってくる。僕たちは無造作に引き離され、引きずられるように家へと連れ戻された。離れていく距離の中で、最後まで僕と姫の視線は絡み合ったままだった。彼女の瞳には、死を予感した恐怖ではなく、底知れない愉悦が揺らいでいた。
第ニ章 世界が僕を殺した日
僕が壊れ始めたのは三年前の夜だった。
当時の僕の家は、貧困の底にあった。毎日のように人の物を盗み金貨に変え、生計を立てていた。こうなったのも全部父のせいである。母と結婚した父は財産になる物全てを奪って姿を消した。それからというもの生き延びるための唯一の手段は盗みとなっている。母は僕が盗みをしている事は知らず、採掘の仕事だと伝えられている。帰るたびに母は優しい笑顔を向け、目を見て「ありがとう」と一言言ってくれるのだ。それが僕にとっての誇りだった。
「お兄ちゃん、おかえり!」
そんな母の隣には可愛らしい僕の妹がこちらに光を点した目を向けている。
ある日、人の声と熱気が渦巻く夜の市場。今夜は何か「大物」が手に入る——根拠のない直感が、僕の背中を押していた。僕はその大物を狙い、細めた目を四方八方に配っていた。そんなとき、人込みの隙間を、一瞬、妖しく光る美しい宝石が通り過ぎた。あれを逃せば次はない。僕は吸い寄せられるようにその男の影を追った。
男が肉屋の店頭で足を止めた瞬間、僕は滑り込むように指先を男の鞄へと滑らせた。ずっしりと重い感触が掌に触れる。それを掴み取るやいなや、僕は脱兎のごとく闇の中へ駆け出した。背後から追ってくる気配はない。暗がりで息を整えながら、ガッツポーズを作った。
月光の下で盗み出した石を確かめる。吸い込まれそうなほど美しく、そしてどこか禍々しい光を放っていた。すぐにでも金に換えるため、僕は路地裏にある鑑定士の店を叩いた。そこは白髪の老夫婦が静かに営む古物商だった。
「これを見てほしい」
カウンターに石を差し出した瞬間、老夫婦の顔から血の気が引いた。
「これは……あいつらの所有物じゃないか! 頼む、何も見ていない! とっとと出ていってくれ!」
半ば突き飛ばされるように店を追い出された。背中に冷や汗が流れる。僕は取ってはならない悪魔の持ち物を盗んでしまったのだと、初めて本能的な恐怖を覚えた。
その夜。薄暗い隠れ家で眠りについた僕を揺り動かしたのは、頑丈なドアが爆音とともに破壊される音だった。覚えているのはそこまでだ。暗闇の中から放たれた高位の睡眠魔法が、僕の意識を塗り潰した。
目を覚ましたとき、僕の全身は太い鉄の鎖で頑丈に拘束されていた。
「君が、あの石を盗んだのだね」
僕を見下ろすのは、黒い装束に身を包んだ大柄な男だった。周りを取り囲む男たちも同じ漆黒の衣装を纏っている。そして——僕の目の前には、同じように捕らえられ、腕を縛られた母と妹の姿があった。ふたりの瞳からは、すでに生の色が失われていた。
「さあ、始めよう。愚かな羽虫が犯した大罪の償いを」
男の淡々とした合図とともに、小柄な男が巨大な肉切り斧を振り上げ、母へと近づいていく。
「やめてくれ! 母さんは関係ない! 僕が、僕がやったんだ!」
僕の叫びは、虚空を割るだけだった。男の手元が下がり、重厚な刃が母の首筋を容赦なく断ち切った。鮮血が床を染める。
我が家はかつて、クズのような父の手によって破滅させられた。財産のすべてを奪われ、暴力を振るわれ、それでも母は必死に血を吐く思いで僕たちを育ててくれたのだ。その母が、僕の浅知恵のせいで、目の前で首を撥ねられた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
黒衣の男たちへの命乞いなのか、母への贖罪なのかも分からぬまま、僕は額を床に擦り付け、血を吐くように謝罪を繰り返した。
「次は、妹だ」
「頼む、お願いだ、僕を殺してくれ! 妹だけは……!」
僕の懇願は、彼らにとって娯楽のBGMに過ぎなかった。妹の細い身体は壊れるまで痛めつけられ、最期は首を絞められて苦悶のうちに息絶えた。僕が無力だったからだ。僕が弱かったからだ。
この世界では、誰もが生まれながらに一つの超常能力『ギフト』を授かる。怪力、魔法、回復——様々な恩恵が存在する中で、僕はごく稀に生まれる完全な「無能力者」だった。僕が価値のないゴミ屑だったから、家族は無残に殺されたのだ。
それからの日々は、終わりのない地獄だった。幾度となく皮膚を削がれ、骨を砕かれる拷問。瀕死に陥るたびにヒーラーの魔法で治癒され、再び苦痛のどん底に叩き落とされる。肉体が崩壊と再生を繰り返す中で、僕の頭を満たしていたのは家族の断末魔だけだった。
「早く殺してくれ……頼むから殺してくれ……」
「何を言っている。お楽しみはこれからじゃないか」
そんな会話を何ヶ月も繰り返した、ある日のことだった。再び爪を剥がそうと近づいてきた拷問官に対し、僕は残された最後の力で抵抗した。彼の太い手首に、思い切り歯を立てたのだ。肉を食いちぎる感触とともに、生温かく鉄臭い血が口内いっぱいに広がる。
「痛えっ! このガキが!!」
重い拳が僕の側頭部を撃ち抜き、視界が真っ暗に染まった——はずだった。だが、その意識の海底で僕が見たのは、たった今噛み千切った拷問官の、くだらない人生の記憶のすべてだった。
目を覚ますと、部屋の中に人の気配はなかった。交代の休憩にでも行ったのだろう。僕は、脳裏に刻み込まれた拷問官の歪んだ記憶に意識を集中させた。肉体の芯から、ぞわりと不気味な熱量が湧き上がる。次の瞬間、僕の腕や足の筋繊維がみるみる肥大化し、爆発的な腕力が全身に充満していくのを感じた。今なら、この重厚な鉄鎖すら引き千切れる——そう直感し、腕に力を込めた。
ガチァンッ!
重厚な鎖が、まるで腐った縄のように弾け飛んだ。その瞬間、僕は己の真の『ギフト』を理解した。僕は死者の血肉を喰らうことで、その者の持つ能力と記憶、存在そのものを模倣・強奪できるのだ。
「何の音だ!?」
廊下から足音が近づいてくる。見張りが入ってくる直前、僕は身体を収縮させ、元の無力な少年の姿へと戻った。
「実は僕……金属を分解する腐食のアビリティに覚醒したんです。この鎖を少しずつ劣化させて壊しました」
見張りの男は、自身の知識の範囲内で納得したような顔をした。思考の隙を与えず、僕は滑らかに言葉を重ねる。
「よければ……あなたの持つその美しい長剣で、僕の力を試してみませんか?」
呑気な男はあっさりと乗ってきた。檻の外から、無造作に剣を投げ入れてくる。剣は僕の足元に転がった。
「ごめんなさい……足の骨が折られていて拾えないんです。もう少しだけ、こちらへ寄せてくれませんか?」
男は腰の鍵で檻を開け、無警戒に足を踏み入れた。剣を引き寄せようと彼がかがんだその瞬間を、僕は待っていた。
身体を一瞬で膨張させ、極限の腕力で男の頭部と四肢を力任せに引き千切った。生温かい血の雨が降り注ぐ。圧倒的な暴力を振るう快感が、脳髄を痺れさせた。
異変に気づいた残りの見張りが雪崩れ込んできた。血の海と化した牢獄を見て、彼らは絶叫した。
「どういうことだ!? 何が起きた!?」
「急に俺の剣が宙に浮いて……男が自分自身を切り刻み始めたんです!」
見張りの男の姿へと変身した僕が叫ぶと、リーダーらしき男が激昂した。
「あのガキ、隠れて『物体浮遊』のアビリティを持っていたのか! なぜ自害させた、貴様!」
リーダーが僕の胸ぐらを掴み上げる。僕は怯えた振りをしながら呟いた。
「は、早く主様の元へこの死体を運びましょう……!」
「主」が何者かは知らなかったが、この組織の奥底に漂う不穏な気配は感じ取れていた。僕は巧みに男たちを誘導し、狭い地下牢の奥へと死体を回収させに入らせた。
全員が牢の最奥に入り切った瞬間、最後尾にいた僕は流れるように鉄格子を閉め、鍵を回した。
「……おい、何の真似だ!?」
一斉に振り返る男たち。僕は見張りの皮をベリベリと剥がすように解除し、素顔を晒して微笑んだ。
「君たちは、本当に救いようのない馬鹿だ。今から全員、死んでもらう」
先ほど奪った記憶の中から覚えた高位の火炎魔法を、狭い檻の中へ解き放った。燃え盛る業火の中、ヒーラーの男だけが狂ったように神へ祈りを捧げ、焼き尽くされる皮膚を自己再生させながら苦痛に耐え続けていた。
全身を黒く焦がしながら、リーダーの男が絶叫する。
「全ては……全ては『あのお方』の悲願のために……!」
あのお方、とは誰のことか。どうでもよかった。
絶叫と肉の焦げる匂いを背に、僕は地下牢を後にした。それから、子供を欲しがっていた裕福な狂気の未亡人に引き取られ、新しい身分を手に入れた。
あの一件以来、僕の中の倫理観は完全に破綻していた。大切な家族が無残に殺される様を見てから、僕は悟ったのだ。——人間にとって最大の救済とは、愛する者の手によって美しく殺してあげることなのだ、と。
僕の思考は、狂おしいほどに姫の殺害へと傾倒していった。彼女の気高い容姿だけではない。彼女だけが、僕の壊れきった精神の深淵を、あの日笑って受け止めてくれたのだから。彼女しかいない。彼女しか、僕の手で殺す価値のある存在はいない。
第三章 命の重なり
それからの僕は、城の周囲を徘徊する幽鬼となった。綿密な偵察。どうすればあの深遠な城塞に侵入し、姫の首を絞められるか。得られた最大の障壁は一つ——騎士団長アルバドフ。常に姫の背後に控え、巨大な大剣を背負った男。その鋭利な眼光と威圧感だけで、彼が並の人間ではないことが理解できた。あの男を越えない限り、姫のもとへは辿り着けない。
僕の惨劇は、ここから加速した。騎士団長を上回る力を得るため、街の闇に紛れて狩りを始めた。
静まり返った深夜の路地裏。酒に酔いしれた歩行者は、絶好の獲物だった。
「ごめんなさい、さっき銀貨を落としましたよ?」
声をかけ、言葉巧みに女を暗がりへ誘い込む。強化された腕力で頭骨を砕き、飛び散った血を舐め取る。——魔物を操るアビリティ。くだらない、路上パフォーマンスにしかならない力だ。
「……何をしている」
路地の入口から冷ややかな声が聞こえた。見られた。即座に命を奪うべく疾走したが——僕の不意打ちの斬撃は、まるで未来を知っていたかのように完璧な動作でかわされた。何者だ、この男は。
「安心するといい。警察に通報するつもりはないよ。ただ、君と『友達』になりたかったんだ」
気がつくと、僕は男に促されるまま静かな酒場のカウンターに座っていた。
「君と話したかったのは、君の魂から溢れ出す圧倒的な『多層の力』が見えたからだ」
男は、僕が秘匿していた模倣のアビリティを、一目で見抜いていた。
「お前は……何者だ?」
「僕は予言者。この世界でこれから起こる事象を、寸分違わず見通すことができる」
そんな神のごとき『ギフト』が存在するのか。
「僕はね、君にもっとこの世界を憎んでほしいんだ。君も気づいているだろう? 世界は根本から腐敗している。多くの人間は生への執着を演じながら、その実、生きるという苦痛から逃れる『死』を心から渇望している。人間の本当の望みは、どちらだと思う?」
僕は迷わず答えた。
「全員、僕が殺してあげればいいと思うよ」
予言者の男は、腹を抱えて歓喜の声を上げた。
「素晴らしい! 君とはもう、こんな穏やかな形では会えないだろう。どうか……変わらない君のままでいておくれ」
男は歓喜の声を上げ、謎めいた言葉を残して消えた。その一言一言が、僕の殺意をより研ぎ澄ませていった。なぜ僕がそいつを殺しその最強と呼べるギフトを取らなかったのかは分からない。そんな思考に至る事が許可されていないかのように封じられた。
それからも僕は殺戮を重ね、無数の命と能力を自分の中に溜め込んでいった。これだけの魂を融合させれば、騎士団長とも互角に渡り合えるはずだった。
ある日、道端でひとり膝を抱えて泣いている幼い男の子を見かけた。他人の苦痛に何も感じなくなっていたはずの僕の目から、突然ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。——理由を知って、背筋が凍りついた。記憶の奔流。その少年と過ごした温かな日常が、脳裏に再生される。僕が先週殺した、しがない父親の記憶だ。僕の『ギフト』の代償。それは、喰らった人間の「感情」や「愛憎」までもが、僕の魂に永久に融け合ってしまうことだった。模倣とは、単なる能力のコピーではない。他者の人生そのものを自分の魂に継ぎ接ぎする、おぞましい呪いだったのだ。
だが、その呪いは僕に決定的なアドバンテージを与えた。喰らった兵士たちの記憶から、騎士団長アルバドフの『ギフト』の全貌を完璧に理解したのだ。彼のギフトは『絶対斬断』。一度放たれた大剣の軌道は概念となり、対象を真二つに切断するまで空間を追跡し続ける。直撃を受ければ即死。勝算は五分五分。だが、逃げる選択肢など最初から存在しなかった。
街ではすでに「姿なき模倣の殺人鬼」の噂で持ちきりとなり、騎士団も厳戒態勢を敷いていた。僕は正面から、城塞の決戦へと足を踏み入れた。
「アルバドフ、今日はもう下がりなさい。顔色が悪いぞ」
団長の最愛の弟の姿と声を完璧に模倣し、僕は執務室の前に現れた。
巨躯の騎士団長がゆっくりと振り返る。
「……お前は誰だ」
「な……なぜ分かった?」
「弟は一度たりとも、私を名前で呼んだことはない。『兄上』としか呼ばん」
初歩的な失策。だが、もはや引き返す必要はなかった。
「貴様が……弟を殺した模倣の殺人鬼か」
「そうだよ。僕が君の弟を殺し、肉を喰らった。次はお前の番だ」
アルバドフの顔に、怒りと絶望が入り混じった深い皺が刻まれる。彼は静かに背中の大剣を引き抜いた。
僕は知っていた。アルバドフの『絶対斬断』には致命的な二つの弱点がある。一つは、網膜で対象の「個体識別」を完了しない限り発動できないという制約だ。剣が振り上げられた瞬間、僕は空間魔法で数千の鏡の欠片を室内に撒き散らした。無限に屈折する光の中、彼の視界には無数の「僕」が映し出される。初撃の判定を完全に潰した。
ここからが、真の心理戦だった。僕は穏やかな声で口を開く。
「動きを止めろ、アルバドフ。僕を斬れば、お前は取り返しのつかない後悔をすることになる」
「ハッ、命乞いか?」
「僕はこの城の地下水脈に、街全体を粉砕する大量の爆薬を仕掛けた。さらに『今宵、騎士団長アルバドフが姫奪還のために城と街を火の海に変える』という声明文を、街中の掲示板に貼り出しておいた。今ここで僕を殺せば、爆薬が起動し、お前は永遠に国を滅ぼした逆賊として歴史に刻まれる」
弱点の二つ目。アルバドフと姫は、主従を超えた禁断の愛で結ばれていた。騎士としての名誉と姫への忠誠。それを踏みにじられることが、彼にとって最大の恐怖だった。
「ブラフだ……そんなハッタリに騙されるか!」
「本当に爆薬があるか、試してみるかい?」
僕は爆撃のギフトを使い、城に隣接する兵士の詰所を一棟、跡形もなく爆破してみせた。凄まじい振動と悲鳴が部屋まで届く。
「これで国民はお前を疑う。今僕を殺しても、お前と姫の潔白を証明する術は永遠に失われる。どちらにせよ生き地獄だ。……だから提案だ。今、僕の目の前でその大剣で己の腹を貫け。そうすれば爆薬の起爆は止めてやる。これが、最期まで姫を愛し抜いたお前への救済だ」
彼の忠誠心と愛は、僕の計算通りあまりにも気高く、そして脆弱だった。アルバドフは何も言わず、ただ静かに姫の部屋の方向を一度だけ見つめると、躊躇なく己の腹部へ大剣を突き立てた。鮮血が床を赤く染めていく。
崩れ落ちる彼の耳元に歩み寄り、僕は優しく囁いた。
「全部嘘だよ。告発状も爆薬も、あの詰所の一つしか仕掛けていない。城の中に入るのは想像以上に難しいからね……お前の皮がなければ」
死にゆくアルバドフの瞳に、激しい憎悪と悲痛な涙が溢れ出す。
——ああ、なんて美しいのだろう。愛する者のために自らを犠牲にするという行為は、これほどまでに無価値で、だからこそ美しい。
僕は絶命していく彼の頸脈に喰らいつき、血を飲み干した。風化のアビリティで彼の巨躯を灰に変え、僕は「騎士団長アルバドフ」の皮膚と存在を完璧に纏った。
重厚な装飾が施された大扉を開けると、そこには洗練された豪奢な私室が広がっていた。
「お帰りなさいませ、アルバドフ様」
控えていたメイドが恭しく頭を下げる。
「姫様が、あなたをお呼びでした」
「そうか。すぐに向かう」
部屋の奥、シルクのカーテンが揺れる天蓋付きのベッドに、あの日の銀髪の少女が佇んでいた。
「お勤めご苦労様、アルバドフ」
「ありがたき幸せにございます、姫様」
「近くへおいで」
姫がゆっくりと衣類を滑り落としていく。僕もまた、アルバドフとしてその柔肌に触れるべく手を伸ばした。彼女を押し倒したその瞬間、姫は僕の耳元で可憐に微笑み、こう囁いた。
「いつまで……そんな無骨な男の皮を被っているの? レオン」
心臓が跳ね上がった。全身の毛穴が開くような衝撃。破られた。完璧だったはずの模倣が。
「……なぜ、分かった?」
僕が素顔に戻ると、姫は愛おしそうに僕の頬を撫でた。
「団長様とあなたの目は決定的に違うわ。その瞳に宿る色がね。あなたの目には……ドロドロとした狂おしい愛が、今にも溢れ出しそうに渦巻いているもの」
模倣の限界を、僕はそこで思い知らされた。肉体や記憶を奪えても、魂が醸し出す「色」だけは偽れないのだと。
「ねえレオン……私を殺しに来てくれたのでしょう? 私を殺して」
言葉を失った。殺そうとしていた対象が、まるで歓喜に震えながら死を求めているのだから。
「私はね、ずっと昔からあなたに恋をしていたの。だから、あなたを私と同じ不快な死の思想に染め上げるために、裏から色々と手を回させてもらったのよ」
脳内で、全てのジグソーパズルが狂暴な音を立てて噛み合わさった。あの日、僕の家族を殺させた黒衣の男たち。彼らを動かしていた糸の引き手は、目の前にいるこの幼い姫君だったのだ。
一瞬、苛烈な怒りが胸を焼いた。しかし次の瞬間には、その怒りすらも愛おしい快楽へと変わっていた。僕はとっくに、彼女が用意した狂気のシナリオに染まりきっていたのだから。
「愛する人は、自分の手で美しく殺してあげるのが一番の愛よね、レオン?」
「ああ……その通りだ」
「でもその前に、ひとつだけ願いを聞いて」
「なんだい?」
「この不快な城を、跡形もなく壊してほしいの。私、ここが死ぬほど大嫌いだったのよ」
それからの日々は、狂気の共作だった。僕はアルバドフとして騎士団を内部から崩壊させ、姫は内通者として防衛線を無力化した。最後の日、僕たちは城の柱という柱に火を放った。
「大好きだよ、レオン」
燃え上がる炎が夜空を赤く染める中、僕たちは強く抱き合った。そして僕は、彼女の華奢な首に両手をかけ、徐々に力を込めた。彼女の瞳から生の色が消え去り、舌を吐き出して絶命するまで、僕はその美しい死顔を見つめ続けた。
彼女の肉体を喰らい、能力を奪おうとした時——不可解なことが起きた。僕の中に、彼女の『ギフト』は何一つ流入してこなかったのだ。無能力者だったのか、それとも拒まれたのか。疑問は残りつつも、僕は満足感の中に浸っていた。
姫を殺して以来、僕は生きる目的を失った脱け殻となった。手当たり次第に飯を喰い、泥のように眠る。ただそれだけの虚無の日々。
そんなある日、酒場の片隅で流れた噂話が、僕の死んでいた心を激しく揺り動かした。
「おい、聞いたか? 西の丘に『天使』が降臨したって話だ!」
「ハッ、おとぎ話か? 天使なんて存在するわけねえだろ」
「本当なんだよ! 俺が魔物に襲われた時、眩い翼を持った天使が舞い降りて、命を救ってくれたんだ!」
天使——神の使者。その存在は、どれほど美しく、どれほど気高いのだろうか。それをこの手で穢し、殺し、奪い取ることができたなら、どれほどの快楽が得られるだろう。姫を殺して以来の、狂おしい高揚が身体を駆け巡った。
目撃者の男から記憶を読み取り、正確な場所を特定した。夕暮れの丘に到着すると、僕は自ら猛毒をあおぎ、血を吐きながら大声で叫び続けた。
「ああ……神様! 私には家に残してきた幼い家族がいるのです! こんなところで死ぬわけにはいかない……誰か救ってください!」
弱者の演技。惨めに泥を舐め、助けを求める哀れな人間。何度も叫び続け、意識が遠のきかけたその時だった。
上空の雲が十字に割れ、神聖な光芒が降り注いだ。そこから現れたのは、この世の造形とは思えない美しすぎる翼を広げた存在——天使だった。
「可哀想に……今、助けてあげます」
天使が差し出した手に解毒の光が宿った瞬間。
——ズブリ。
腰に忍ばせていたアルバドフの『絶対斬断』のアビリティを乗せた短剣が、天使の脇腹を深く貫いた。宙を舞う、白銀の眩い血液。それは僕がこれまで見てきたどんな流血よりも、圧倒的に美しかった。
天使という種族の弱点は、弱者の嘘を見抜けぬ無垢な「善性」にある——僕の目論見は完璧に的中した。
天使は地面に叩きつけられ、羽を散らしながら血の海に伏せた。先ほどまでの神聖な威厳は消え去り、ただの無力な獲物へと成り下がっていた。僕はその顔を踏みつけ、問いかけた。
「天使様……僕の姿は、君の目にどう映る?」
天使は吐血しながら、静かに僕を見つめた。
「……悪魔以外の、何者でもありません」
「ハハッ! 簡潔で素晴らしい答えだ! だがそれじゃダメなんだよ。君と僕が『対等』になってしまうじゃないか。僕は神になりたいんだ。君ごときに負けてたまるか」
僕の中に育っていたのは、世界への憎悪を超えた「神への渇望」だった。
天使は最後に、悲しげに呟いた。
「……世界は、あなたが思っているよりも、ずっと優しいものなのです」
「くだらない」
僕はナイフを振り下ろし、天使の首を切り落とした。そして、その白銀の血をむさぼるように飲み干した。
その瞬間、脳髄が破裂するほどの奔流となって情報が流れ込んできた。天使の記憶、そして——何千、何万という「別の次元の世界」の映像。理解した。天使の持つ『ギフト』とは、次元の壁を穿ち、世界を自由に渡り歩く能力だったのだ。
僕の心に、新たなる暗い歓喜が湧き上がった。他の世界へ行ける。つまり——こんな腐りきった世界、いつでも捨てられるということだ。人々が絶望の中で死に絶えていく光景を、もっと見たい。世界は腐敗している。だから僕が、全てを焼き尽くして浄化してやらねばならない。
僕は解き放った高位火炎魔法で、僕の生まれた世界全体に業火の雨を降らせた。逃げ惑う人々、焼き尽くされる街並み。最後の人類にとっての救済(死)を与えた後、僕は次元の亀裂を破り、新しい世界へと飛び立った。
——だが、その瞬間だった。次元の狭間で、僕は見えない巨大な力によって強引に捕らえられ、底なしの暗黒へと引きずり落とされた。
目覚めた場所は、赤黒い大地が広がる地獄のような世界だった。空からは血の雨が降り、遠くには針の山が連なっている。囚われたことに気づいた僕は、すぐさま飛行のアビリティを使って上空へ逃れようとした。
——しかし、身体がピクリとも動かない。
そこで僕は思い知ることになった。「弱者」の絶対的な無力感を。この世界を守護する異形の魔物たち。その頭領である巨大な角を持つ悪魔が、僕の持つすべての『ギフト』を完全に無効化する領域を展開していたのだ。
「身の程を知れ、矮小な人間よ。お前はここで永遠の罪を償うのだ」
無力な肉体へと戻された僕は、その世界でひたすら拷問を受け続けた。かつて僕が地下牢で受けていたものとは比較にならない、概念的な苦痛。舌を抜かれ、肉を削がれ、魂を切り刻まれる日々。声を出すことすら許されず、ただ苦痛だけが更新されていく。
——そうして、百年が過ぎた。
僕の精神は完全に崩壊し、思考することすら放棄していた。ただ一つ、宇宙を塗り潰すほどの規格外の「憎悪」だけが、僕の魂の核心に残留し続けた。
僕は、ただ静かに生きようとしていた普通の人間だったはずだ。僕をここまで歪ませたのは理不尽な世界そのものだったのに、なぜ僕だけが罪人として罰せられねばならないのか。
『許さない……許さない……許さない……!!』
神を恨み、天使を恨み、運命を恨み——僕の存在のすべてが、純粋な殺意へと昇華された。
百年目の日、異次元の歪みが生じ、僕は元の世界へと吐き出された。僕は驚いた。なぜなら帰ってきた世界は前いた様子と全く変わっていなかったからである。あの場所は時間さえ他の場所とは違っていたのかと気付かされる。僕の目に空から降る何かが映る。白い羽……それは明らかに見覚えがあった。薄々と勘づいていた。僕を地獄送りにした者が天使の残党であることを。自由を取り戻した僕は、暴走する憎悪のままにその世界を再び炎で包み込んだ。逃げ惑う人々、抱き合い最後の言葉を交わす者たち、その光景を見ている僕の顔はまさに悪の権化としか表せない。そんな様子を見送った僕は空間を力任せに引き裂いた。もう二度と、どの世界も僕を繋ぎ止めることはできない。
第四章 生みの世
次に僕が降り立ったのは、高度な機械技術によって繁栄を極めた世界だった。高層ビルが立ち並ぶその街は「ニューヨーク」と呼ばれ、異界から現れた僕の姿に群衆が混乱を極めていた。僕が世界を渡る理由はただ一つ——すべての次元を焼き尽くし、無に帰すためだ。
「ファイア! 撃て!!」
この世界の兵器と思われる鉄の弾丸や光線が僕に注がれたが、百年の拷問を耐え抜いた僕の肉体には、蚊が刺したほどの痒みすら与えられなかった。
虐殺が始まった。情熱も愉悦もなく、ただ作業のように人間を肉片に変えていく。だが、この世界は僕の故郷よりも遥かに広大で、すべてを滅ぼすには膨大な時間を要した。
疲弊した僕は、街の外れにポツンと佇む一軒の無人の家に舞い降りた。人の気配のない静まり返った部屋。なぜか視線が吸い寄せられ、机の上に置かれた束ねられた原稿用紙へと手が伸びた。そこに書かれていた文字を目にした瞬間、僕の時が止まった。
そこには——僕が生まれた日からの全人生、母の死、姫との出会い、天使の殺害、そして百年の拷問に至るまで、僕の思考と行動のすべてが寸分違わず文字として綴られていたのだ。
「……ハハ……ハハハハハ!!」
僕は腹を抱えて大声を上げて笑った。そういうことか! 全ては仕組まれていた! 僕の苦痛も、狂気も、愛も、すべてはこの紙の上に描かれた「シナリオ」に過ぎなかったのだ!
「読んでくれたかい? 僕の最高傑作を」
部屋の暗がりから、静かに男が歩み出てきた。その顔を見て、僕は目を見開いた。かつて酒場で僕に「予言者」だと名乗った、あの男だった。
「僕はね、君の生みの親……いわゆる『著者』だよ。君はこの物語の、哀れで魅力的な主人公に過ぎないんだ」
男の言葉に、僕は妙に納得していた。道理で僕の人生がこれほどまでに理不尽で、美しく壊れていたわけだ。全てはこの男の気まぐれなペン先一つで決められていたのだから。
刹那、僕の中に沸き立ったのは、これまでの全人生を凌駕する殺意だった。アビリティを全開にし、男の首を刈り取らんと肉薄する。
「無駄だよ。君のその動きすら、僕が今この原稿に書き込んだ通り——」
僕の短剣は、男の首皮一枚のところでピタリと停止した。見えない「原稿の力」が僕の肉体を拘束している。だが、男は致命的な勘違いをしていた。彼は、この主人公に苦痛を与えすぎたのだ。百年の地獄で培養された僕の「憎悪」は、すでに「作品」という器の容量を遥かに超え、現実の物理法則すら侵食していた。
バリバリバリッ!!
空間が悲鳴を上げ、見えない原稿の拘束にヒビが入る。僕は怨嗟の絶叫とともに拘束を力任せに打ち破り、短剣で男の身体を細切れに切り刻んだ。
「な……そんなはずは……」
男は絶望と恐怖に顔を歪ませながら、肉片となって転がった。僕は男の生温かい血に喰らいつき、その魂を飲み干した。その男の記憶が流れ込む、はずだった。そのはずなのに、少しも鮮明に見ることができなかった。その記憶に入ることがまるで禁忌とされているような、そんな次元のものである。もう一度深く入り込もうとする。すると僕の心がそれを拒絶した。
『創造』——それが、この男の持つ『ギフト』である。世界を文字通り書き換え、万物を産み出す神の力。今やその絶対の権能すらも、僕の手の中に落ちたのだ。
その時、僕の脳内の奥深くから、懐かしい声が響き渡った。
『……これで、私とあなただけの世界が叶えられるわね、レオン』
心臓が跳ね上がった。姫の声だった。
『ずっと待っていたの。あなたがこの「世界の壁」を打ち破る瞬間を』
彼女の声は、僕の魂の最深部から直接響いていた。
『あの日、あなたに殺された時から、私はあなたの中で生きていたの。あなたの苦痛も、殺意も、ずっと一番近くで見つめていたわ』
彼女の真の『ギフト』は『寄生』——自分を殺した者の魂に寄生し、永遠に存在し続ける能力だったのだ。だからあの日、彼女のアビリティは僕に流入しなかったのだ。
「なるほど……ずっとそこにいたのか」
『さあレオン、創造の力で私とあなただけの美しい愛の世界を作りましょう?』
姫の魂が、僕の意識を侵食し、僕という存在を乗っ取ろうと膨れ上がる。
「生憎だが……君の望みには応えられない。今の僕にあるのは、世界への憎悪だけだ」
『……なんですって? 私を拒絶するの!? 私の愛を否定するの!?』
姫の声が恐ろしい怪物の叫びへと変貌し、僕の自我を内側から食い破ろうとする。だが、今の僕には『創造』の力があった。
「消えろ」
僕は自身の魂の内部を『書き換えた』。姫という概念を消去し、上書きする。
『嫌……嫌あぁぁぁぁぁ!! レオン、あなたを愛して——』
姫の叫びは途切れ、完全に虚無へと消滅した。
それからの僕は、愛も、情も、哀愁もすべてを削ぎ落とし、ただ私欲と憎悪のためだけに世界を支配する絶対神となった。創造の力で何万、何億という新しい世界を生み出し、そこに生きる登場人物たちに、僕が味わった以上の地獄と苦痛を与え続けた。人生というものが、存在というものが、いかに腐りきったゴミ屑であるかを証明するために——
——ここで、本の手記は途切れていた。
終章 最後の一文
ハッと息を吹き返した時、私は無意識のうちに隣に立つ天使の細い首を強く締め上げていた。
「あっ……ご、ごめんなさい……!」
我に返り、慌てて手を離す。本を読んでいる間に、私は少年の絶望と狂気に深く共鳴し、自我を失いかけていたのだ。
「……つまり」
私が震える声で呟くと、首を押さえて咳き込んでいた天使が悲痛な瞳で私を見つめた。
「そう……この本に書かれていることは、すべて真実なんだ。私たちの生きるこの世界も、あの男が憎悪のままに創造した無数の玩具の一つに過ぎない。私は殺された天使の生き残りだ。君の持つ『可能性』に賭けて、世界の外側から君をスカウトしに来たんだ」
突拍子もない話だったが、私の中に残る読後感と辻褄は、吐き気がするほど完璧に合致していた。
天使の手を取り、私たちは次元の亀裂を越えた。降り立った場所は、手記の最後に記されていた通りの場所——燃え盛る廃墟と化したニューヨーク。人っ子一人いない静寂の中、空から漆黒の衣を纏った男が舞い降りてきた。
本には顔の描写がほとんどなかった。だから、初めてその素顔を見た。哀しいほどに美しく、そして救いようのないほどに孤高な——「悪魔」そのものの姿だった。
「僕を百年の地獄に叩き落とした天使の生き残りかい?」
黒い男——レオンが、冷ややかな声で天使に問いかける。
「そうだ。お前の狂気を止めるために来た」
「なら、今度こそ木っ端微塵に砕いてあげないとね」
レオンが不吉な圧力を放ち、殺意とともに地を蹴った瞬間、私は迷わず天使の前に立ちはだかった。
「私を……私を先に殺しなさい! 私はこの世で最強のアビリティを持っている。私を殺せば、それがあなたのものになる!」
レオンは空中でピタリと動きを止め、不審そうに私を見下ろした。死を恐れず、むしろ差し出してくる私の心理が理解できなかったのだろう。世界が一瞬静まりかえる。
「……いいだろう。望み通りにしてやる」
静まり返った世界に、肉体を容易く引き裂く刃の音が響いた。レオンは私の言葉を信じ、私の首筋を切り裂いて、流れ出る血をその唇で受け止めた。
いつものように。彼がこれまで何千人もの命を奪ってきた時のように。私の記憶と存在が、彼の狂った魂の深淵へと流れ込んでいく。
「……あ……?」
レオンの動きが完全に止まった。その漆黒の瞳から、ボロボロと大きな涙の粒が溢れ落ちる。
彼の中に流れ込んだのは、圧倒的な暴力でも、絶大な能力でもなかった。それは——私という人間が生きてきた、惨めで、貧しくて、けれど絶対的に温かかった「記憶」だった。
毎朝のイジメ、痛みに満ちた日常。その極限の地獄の底で、私を固く抱きしめてくれた母の温もり。『何があっても、私はあなたの世界でたった一人の味方だから』という、無償の愛。
レオンの魂の中で、何千もの殺戮の記憶が弾け飛んだ。彼がずっと前に失い、忘れ去っていたもの。かつて貧しくも温かかった家庭で、母や妹と笑い合っていたあの「純粋な愛」の記憶が、私の記憶と激しく共鳴し、彼の殺意を内側から浄化していく。
「生きているからこそ……愛し合える……というのか……?」
悪魔は、己の中にいた「幼い頃の自分」とついに再会してしまった。世界を滅ぼすほどに肥大化した憎悪の鎧が砕け散り、そこに残されたのは、ただ傷つき疲れ果てた一人の少年だった。
「人とは何か……生きるとは何か……。それを測るには、この世界は……あまりにも複雑で、美しすぎたんだな……」
レオンは膝をつき、絞り出すような声で呟いた。
「僕は……もう疲れてしまった。全てを……終わりにしよう」
彼は虚空から一冊の古い原稿用紙を取り出すと、震える指先で最後の『創造』の力を込め、一文を書き走らせた。
『僕はその日、全てを終わりへ導いた』
ついに天使が口を開く。
「私はあの子を犠牲に差し出した。君にとって一番恋しい幸せ。それを彼女が持っていた。そしてそれは君が最も目を向けるべき真実だった」
レオンは続けた。
「僕は痛みで溢れる世界が大嫌いだった。でも本当はその世界に遺った愛の記憶までも嫌いになれなかった」
光が溢れ出した。燃え盛るニューヨークも、次元の壁も、天使も、私という存在すらも、優しい光の中に溶けていく。
消えゆく意識の中で、私は最後に思い出していた。図書館で手にした、あの漆黒の本のタイトルを。
その本の名は——
『終わりの共作』
——全ては最高傑作のために。
