気が付いた時には、一花は碓氷馨の家の玄関に立っていた。
意識の糸が半分切れたようにぼんやりとしたまま、冷え切った身体でただ佇んでいる。そんな一花を見て、馨は深く、大きなため息を一つ吐いた。
「……ったく。何やってんの」
馨は大きなバスタオルを広げると、一花の頭に乗せ、クシャクシャと乱暴に、けれどどこか気遣うように髪の水分を拭き取った。いつもなら嫌がりそうなものだが、今の一花は人形のようにされるがままで、何の反応も示さない。
その生気のない様子に、馨は手を止め、黙って真剣な目を一花に向けた。
「で? 朔也はどうしたの……」
馨の脳裏に、一花の恋人である朔也の顔が浮かぶ。しかし、あまりにも一花の様子が奇妙だ。
「(……朔也と何かあった……とかじゃないのか)」
問いかけながらも、馨は一花の様子からそれが男女の痴話喧嘩などではないと、勝手に納得していた。
これ以上ここで冷え切らせるわけにはいかない。
馨は一花に自分の大きめの着替えと新しいタオルを押し付けると、そのまま半ば強引に風呂場へと連行した。
一花は拒むこともせず、ただ言われるがままに温かいシャワーを浴びた。冷え切った身体に熱が戻ってきても、心の芯にある冷え切った塊は消えない。
風呂から上がり、リビングで待っていた馨の前に立つ。
「……ありがとう」
蚊の鳴くような声で、一言だけ告げた。
いつまでも心を開こうとしない一花に、馨はついに痺れを切らした。
「ちょっと、こっち来て」
一花の腕を引き、半ば強引にソファに座らせる。馨は一花と視線を合わせるように膝立ちし、その細い両頬を大きな手でゆっくりと包み込んだ。
そのまま、唇を重ねようと顔を近づけていく。
「……?」
しかし、一花は拒絶も、照れも、怒りもしなかった。
ただ、虚ろな、何も映していない瞳で、馨の行動をじっと受け入れようとしていた。
その目には、貞操への執着も、自分を大切にする意志すらも感じられない。
馨の動きがピタリと止まった。あまりの生気のなさに、訝しげな、苦々しい顔をして一花から少し顔を離す。
「何、一花ちゃん。今俺に襲われても文句言えないよ? それ」
少し突き放すような口調で言ったのは、彼女からのいつもの反発を期待してのことだった。
けれど、一花の目から、ゆっくりと涙が溢れ出し、馨の手を濡らした。
予想外の涙に、馨は目を見開いた。
「……あ、いや、冗談だから。ごめんて」
焦ったように視線をそらし、頬から手を離す。
一花は顔を伏せ、低く、切ない声で、ぽろぽろと涙を流してすすり泣き始めた。
その姿はあまりにも小さく、今にも消えてしまいそうだった。
馨はしばらく彼女を見つめていたが、やがて諦めたように、壊れ物を扱うかのような手つきで、一花をゆっくりと抱き締めた。
その温もりに包まれてしばらくした後、一花は拒絶することなく、ゆっくりと馨の背中に細い腕を回した。
「パパが……もう、私から、離れるって言ったの……」
消え入りそうな声で、一花はぽつりぽつりと、胸の奥に刺さった痛みを吐き出し始めた。父に拒絶されたこと。戸籍上はもう他人だと言われたこと。世界が反転してしまったかのような絶望を。
馨は何も言わず、ただ一花の震えを受け止めながら、その重い告白を黙って聞き続けていた。
長い沈黙の後、馨はぽんぽんと一花の背中を叩きながら、複雑な声音で呟いた。
「それ……俺が聞いていい話しなの?」
一花の抱える闇の深さと、親友である朔也、そしてその周囲に渦巻く複雑な因縁を感じ取りながらも、馨はただ、腕の中の彼女を離さずにいた。



