東京の喧騒を象徴するような、熱気に満ちたイベント会場。一花は、新調したばかりのお気に入りの花柄のワンピースに身を包み、人混みの最端に立っていた。
今日は、小説家・朝霧青紫のヒット作を記念した出版イベント。待ちに待った握手会の日だった。会場内は熱心なファンで溢れかえり、押し寄せる熱気とざわめきが、一花の緊張をさらに高めていく。
「まもなく、著者の朝霧蒼士先生のご登壇です」
アナウンスと同時に、会場の照明がステージを照らし出した。
万雷の拍手の中、舞台の真ん中に現れたのは、仕立ての良いスーツを毅然と着こなした朝霧蒼士だった。
その姿が視界に入った瞬間、一花は瞬きをすることさえ忘れてしまった。
ドクン、ドクン、と、胸の奥から突き上げてくるような激しい鼓動。言葉では言い表せないほどの色鮮やかな感情が、一気に押し寄せてくる。熱を帯び、高揚に満ちた彼女の表情は、暗がりの会場の最後列にいてもなお、異様な存在感を放っていた。
蒼士はマイクの前に立ち、集まったファンに向けて丁寧な挨拶を述べた。しかし、話し終えて会場全体を見渡したその時、彼の視線が、最後尾で自分をじっと見つめ続ける一花のところでぴたりと止まった。
最初、蒼士の眉が不思議そうに僅かに動いた。
見覚えがあるような、しかし、ここにいるはずのない人物。
思考の歯車が急速に回り、やがて彼の脳裏にある一つの可能性が弾け飛んだ。
蒼士の額から、タラリと冷や汗が伝い落ちる。
マイクには決して拾われないほどの微かな、しかし震える声で、彼の唇が動いた。
「いちか……」
一花は、きつく胸元に抱きしめていた本を、さらに強く握りしめた。それは、一花の父が遺し、そして今や朝霧青紫のヒット作として世に出ている、あの小説の単行本だった。
本を媒介にして繋がる二人の視線。
蒼士は目を見開いたまま、まるで時間が止まってしまったかのように、壇上で完全に硬直していた。



