馨は一花の身体をくるりと反転させ、大きな鏡の前に立たせると, そのまま後ろから覆いかぶさるように深く抱きついた。
細い腰に、逃れられないほどの強い力で男の腕が回される。それと同時に、一花の顎から頬にかけて、馨の大きな手が優しく這い上がってきた。がっちりとホールドされ、一花は完全に身動きが取れなくなる。
「……っ!」
声にならない悲鳴が、一花の喉の奥で詰まった。
四方八方の鏡に、馨の腕の中で囚われの身となった自分の姿が、無限に映し出される。
拒絶しようとする一花の首筋に、馨は愛おしそうにそっと頬ずりをして、悪魔のように甘く囁いた。
「ねぇ、一花。鏡をみて」
耳元を揺らす低く熱い声。馨の手が一花の顔を固定し、強制的に正面の鏡を見つめさせる。
「今、一花を抱きしめているのは誰? ――碓氷馨の腕の中でもがいているのは、紛れもない一花なんだよ……?」
馨の細い瞳が、鏡越しに真っ直ぐ一花を射抜く。
「君が憎くて憎くてたまらない夏目朔也じゃない、俺なんだよ。君を捕らえて一生離さない。……ねぇ、今、俺のこの腕に抱かれているのは、誰?」
その言葉は、一花が必死に保っていた復讐の檻を、内側から激しく揺さぶった。
一花は、鏡の中に映る自分と、その自分を狂おしいほどの執着で包み込んでいる馨の姿をじっと見つめた。
パパの愛を奪った朔也への憎しみ。自分を犠牲にする終わりの見えない復讐劇。そのすべてに、本当はもう疲れ切っていたのかもしれない。
いっそ、この男の強引な腕にすべてを委ね、このまま深く囚われてしまえば、どんなに楽になれるだろうか――。
一花の心の最も脆い部分に、そんな破滅的な誘惑が、ほんの一瞬だけ、確かに過ってしまった。
そんな自分自身の弱さが恐ろしくなり、一花は耐えかねて鏡からきつく目を逸らした。
一花の小さな変化を敏感に察知したのか、馨は彼女の身体をさらにぎゅっと強く抱きしめた。
その瞬間, いつも不敵に笑う彼の瞳に、ひどく切ない色が宿る。
「一花、―――俺を愛してよ」
それは、からかいでも脅迫でもない、心からの悲痛な乞いだった。
焦点の合わない虚ろな目を向ける一花を愛おしむように、馨はゆっくりと顔を近づけ、彼女の首にそっと、キスを落とした。
鏡の迷宮の暗がりのなかで、二人の歪な鼓動だけが、静かに重なり合っていた。



