振り返った視界の先、鏡の角から姿を現した馨を見て、一花の身体はカチリと固まった。
馨は心底嬉しそうな、愉悦に満ちた顔で一花へと近づいてくる。その足音が、鏡張りの空間に奇妙に反響した。
「はは、残念。朔也じゃないよ」
一花の背中に冷たい汗がどっと流れ落ちる。
期待を容赦なく打ち砕かれ、剥き出しになった絶望を隠すように、一花は「……っ」と鋭い視線で馨を睨みつけた。だが、馨はその敵意すらも楽しむように、余裕の笑みを崩さない。
「そんなに怖い顔をしないでよ。可愛い顔が台無しだよ?」
一花はフェンスの時のように後退りながら、必死に言葉の盾を構えた。
「空麗が待ってるんじゃないの? 今日は朔也くんもいるんだから、私に近づかないで」
「あはは、空麗ちゃんねー。……君の差し金だろ? 最初からわかってたよ」
そう言って、馨は一花の目の前に立ちはだかった。
一花はドキリとして目を見開く。空麗を使って彼を遠ざけようとした浅はかな策略は、最初からこの男にすべて見透かされていたのだ。言いようのない屈辱と恐怖が押し寄せる。一花は耐えかねて視線を逸らし、精一杯の強がりを口にした。
「……どうせ、誰でもいいくせに」
廊下で空麗に優しくしていた彼の姿が脳裏をよぎる。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、馨のまとう空気が一変した。
「それ、本気で言ってんの?」
いつもの飄々とした軽薄さが消え失せ、底冷えするような鋭い視線が一花を射抜く。
その迫力に息が詰まりそうになりながらも、一花は必死に言葉を返した。
「本気よ! 私の邪魔をしないで。はっきり言って迷惑だから……っ!」
言い終えるかどうかの瞬間、またしても強引に腕を引っ張られた。
一花の身体が宙に浮くような感覚のあと、気づけば彼女は再び、馨の硬い腕の中にすっぽりと収められていた。
「ちょっと! やめて……!」
一花は馨の胸を叩き、必死に抵抗する。四方八方の鏡に、男の腕の中でもがく自分の無様な姿が無限に映し出される。
だが、馨は回した腕にさらに力を込め、一花の耳元へと唇を寄せた。低く、冷ややかに、けれど確かな熱を帯びた声が囁かれる。
「困る? ――朔也に見られたら、君は困るの?」
その言葉は、一花が最も恐れていた事態を冷酷に突きつけていた。
どこかで朔也が見ているかもしれない鏡の迷宮の暗がりで、二人の狂おしい沈黙が深く、深く張り詰めていく。



