空き教室での混乱をどうにか冷徹な理性でねじ伏せ、一花は教室へと戻った。
自分の席――朔也のすぐ隣の椅子に腰を下ろす。
「おかえり、一花。遅かったね」
ノートを広げていた朔也が、いつも通りの優しい笑顔で振り返った。
一花は心臓の跳ね上がりを悟られないよう、細心の注意を払って「完璧な彼女」の声を紡ぎ出す。
「あ……うん、ごめんね。碓氷くんの話が、なんだか面白くって……」
とっさに口をついたのは、自分でも信じられないような言い訳だった。
馨の名前を出した瞬間、胸の奥がチクリと痛む。
一花は引きつりそうになる頬の筋肉を必死にコントロールして笑みを戻すと、そのまま前を向き、始まったばかりの授業に集中するフリをした。
黒板に向かって背筋を伸ばす一花。
だが、その様子を、朔也はいつもの優しい笑顔のままでは見送らなかった。
朔也は静かに目を細め、少し不思議そうに、そして何かを値踏みするような視線で一花の横顔をじっと見つめていた。
一花を疑っているのか、それとも彼女の隠された動揺を察知したのか、その瞳の真意は読めない。
しかし、馨への混乱で余裕を失っている一花は、その不穏な視線にまったく気がついていなかった。
もうすぐ、長く重苦しい夏休みが始まる。
窓の外、じりじりと照りつける太陽の下、中庭の古びた木の下では、一匹の蝉が土から這い出ようと必死にもがいていた。
暗く冷たい地中から抜け出し、羽化しようとするその姿は、歪な復讐劇の中でがんじがらめになりながらも、光を求めてあがく一花そのもののようだった。



