一花は走った。心臓の爆音に急かされるように、脇目も振らずに校舎を駆け抜けた。
たどり着いたのは、普段は使われていない静まり返った空き教室だった。一花は中に滑り込むと、容赦なくドアを閉める。そのままドアの木肌にずるずると背中を押し当て、床へしゃがみこんだ。
「アイツは何なのよ、一体……!」
膝を抱え、苦虫を噛みつぶしたような顔で毒づく。
先ほど、背後から強引にぎゅっと抱きしめられた感覚が、まだ身体に生々しく残っていた。
馨の体温が、服の向こうからゆっくりと伝わってくるような錯覚。あれは、優しく純粋な朔也のものとは完全に違う、それは"愛"に近い熱を孕んだ抱擁。
それなのに、鼻腔をくすぐったふわっと香るシトラスの香りに、ほんの一瞬でも酔いしれてしまいそうになった自分が、たまらなく許せなかった。
(なんで私、あんな……っ)
一花は頭を抱え、激しい混乱の渦に突き落とされていた。
あんな最低な男の、あんな理不尽な執着なのに。どうして心のどこかで、それに「縋りたい」と感じてしまうのか。
――気づきたくない真実が、記憶の底から這い上がってくる。
馨から向けられる、あの逃れられないほどの異常な執着。それが、かつて自分を全否定し、狂おしいほどの愛と束縛で支配していた「父への愛」の歪な形を、無意識に思い出させるのだ。失ったはずの絶対的な愛の熱を、一花は馨の強引さの中に錯覚してしまっていた。
「違う、違う……!」
一花は必死に首を横に振り、脳裏にこびりつく影を、力づくで振り払った。深く、深く息を吐き出し、乱れた呼吸を無理やり落ち着かせていく。
夕闇の迫る空き教室で、一花は崩れた仮面をもう一度、冷徹に拾い集めるしかなかった。
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