一花は馨を拒絶し、迷いのない足取りで屋上の出口へと歩き出した。これ以上、この男に自分の領域を侵されてたまるものか。
しかし、その強い意志は、背後から伸びた無慈悲な力によって容易くへし折られる。
――グイッ、と乱暴に腕を引っ張られた。
「あ――」
予期せぬ衝撃に一花はバランスを崩し、身体が大きくのけぞる。抵抗する間もなく、彼女の背中は馨の胸へと叩きつけられていた。
気づいたときには、後ろから完全に抱きとめられていた。
一花の細い腰に、馨の逞しい腕が容赦なく回される。がっちりとホールドされ、身動きが取れない。それだけでなく、馨のもう片方の手が、一花の首筋から顎へと、なぞるように滑り上がってきた。冷たい指先が肌を這う感触に、全身の毛穴が逆立つ。
「ちょっと……! 離してっ……!」
一花は必死に身体を捩り、馨の腕の中から逃れようともがいた。だが、男の力には到底敵わない。馨はむしろ楽しむように、その腕にさらに力を込め、一花の身体を自身の胸へとぎゅっと強く抱き寄せた。
耳元に、熱い吐息が直接吹きかけられる。
「頭から離れなかったくせに……一花は素直じゃないね」
ドクン、と心臓が跳ね上がった。
まるで、心臓を素手でぎゅっと握り潰されたかのような、息もできないほどの動揺が一花を襲う。
(なんで、それを……!)
さっき朔也とキスをしようとした瞬間、瞼の裏に浮かんだ馨の顔。その事実を、まるで超能力で覗き見られたかのような錯覚に陥り、一花の背中にドッと冷や汗が流れた。何もかも、この男にはお見通しなのだと、本能が恐怖を告げる。
混乱する一花の耳元で、馨は低くクスッと喉を鳴らした。からかうような笑みは消え、その声には酷く重い熱が孕まれている。
「俺は本気だよ?」
その一言が、一花の頭の中の危険信号を最大音量で鳴り響かせた。
これ以上ここにいたら、復讐も、自分自身も、すべてこの男に狂わされてしまう。
「――やめてっ!!」
一花は火事場の馬鹿力を振り絞り、馨の顎の手を撥ね退け、回された腕を力づくで引き剥がした。一瞬の隙を突いて彼から離れると、振り返ることもなく、逃げるように屋上の出口へ向かって走り出した。
背後から追ってくる気配はなかった。けれど、一花はひたすら走った。バタンと鉄扉を閉め、階段を駆け下りながらも、腰に残る馨の腕の感触と、「本気」だと言い放ったあの低い声だけは、いつまでも彼女の耳の奥にこびりついて離れなかった。



