必死で走って、走って、ひたすら走り続けた。
肺が焼けるように熱く、足の感覚がなくなるほど、一花は夕闇の中をがむしゃらに駆け抜けた。あの息の詰まる教室から、碓氷馨という底の知れない男の気配から、とにかく遠くへ逃げたかった。
どれくらい走っただろうか。気づけば、一花は見覚えのある公園のベンチにたどり着き、崩れ落ちるように腰掛けていた。
ここは――この前、自分が朔也にキスを迫った場所だ。
その記憶が引き金となり、先ほどの馨の言葉が、呪いのように脳裏に鮮明に蘇る。
"……朔也としたかった?"
(そんなはず、っ……!)
一花は強く首を振った。すべては朔也への復讐のためのシナリオだ。彼に近づいたのも、恋人の座に収まったのも、すべては奪われた「父からの愛」を取り戻すため。決して、愛を求めるような甘いキスであるはずがなかった。
けれど、馨の言葉は重く冷たく、一花の胸にのしかかる。
自分はあの日、本当に復讐のためだけに、あんな真似ができたのだろうか。自分自身を犠牲にしてまで突き進むこの道に、本当はどこかで後悔の念を抱いていたのではないか……。一花の心の最も柔らかい部分を、馨の言葉は容赦なく抉り出していた。
(もし、もう彼にバラされていたら……?)
最悪の予感が頭をよぎる。馨の気まぐれなひと言で、明日には朔也との関係が終わっているかもしれない。これまでの計画がすべて水の泡になるかもしれない。恐怖が背中を駆け抜けたが、今の疲弊しきった頭では、もう何も考えたくなかった。
何より一花を苦しめたのは、自分自身の裏切りだった。
必死に抵抗していたはずなのに。馨の唇が重なったあの瞬間、脳を痺れさせたあの感覚。どうして"心地よい"だなんて、ほんの1パーセントでも思ってしまったのか。そんな自分がひどく恥ずかしく、嫌悪感で胸が押し潰されそうになる。
心の底から馨を、あのキスを否定しきれない自分が、たまらなく嫌だった。
「なんでっ……! なんでなの!?」
一花は立ち上がり、公園の水飲み場へと引き寄せられるように歩いた。蛇口をひねり、勢いよく飛び出した冷たい水で、何度も、何度も、口と顔を洗った。馨の感触を、自分の醜い動揺を、すべて洗い流してしまいたかった。
水滴を拭いもせず、一花は再びベンチに一人、ぽつんと座り込んだ。
すっかり日が落ちかけた薄暗い公園で、手の中のスマホに視線を落とす。液晶画面が明るくなり、設定された「蝶」の画像が、暗闇の中で寂しげにきらめいた。それは、彼女の心の拠り所であり、引き返せない執着の象徴。
「パパ……私は、何か間違ってるの……?」
ぽつりとこぼれ落ちた一花の切ない呟きは、誰に届くこともなく、紫色のグラデーションに染まる夕暮れの空へと静かに消えていった。



