「あ、やっと覚えてくれたんだ?」
馨はそう言って、底の知れない笑みを浮かべた。その視線は、獲物を観察する猛禽類のように鋭く、そしてどこか楽しげに一花を捉えている。
彼は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。張り詰めた空気の中、馨の口から信じられない言葉が飛び出した。
「あと、別に俺の前ではそんな表情、隠さなくていーよ?」
心臓がドキリと重い音を立てた。背中に冷たい汗がどっと吹き出しそうになる。
(やっぱり……気づかれてる?いや、一体いつから…どこから?どの時点で?)
机に爪を立てていたあの狂気、朔也への光の消えた瞳。そのすべてを、この男は見抜いているというのか。
だが、一花はここで崩れるわけにはいかない。全身の細胞を総動員して動揺をねじ伏せ、あくまで「無実の少女」を演じ続ける。
「ふふ、何のこと? 碓氷くんって、なんだかちょっと意地悪だね」
鈴を転がすような声で笑ってみせる。しかし、馨はその揺さぶりにも微塵も動じない。
「そうかな? 俺、結構女の子には優しいつもりだけど」
飄々とした態度で核心をはぐらかす馨。何を考えているのか、どこまで知られているのか、何一つ読み取れない。
(これ以上、この男のペースに巻き込まれたら危険だ。ボロが出る前に、一刻も早くこの場を離れないと……!)
一花は本能的な危機感に従い、自分の机から鞄をひったくるように手にとった。そして、精一杯の自然さを装って席を立ち、出口へと歩き出す。すれ違いざま、馨に牽制の言葉を投げかけることも忘れなかった。
「あ、碓氷くん。知ってるかもしれないけど、今日は朔也くんお休みだよ? じゃあ、また明日ね」
用があるなら朔也の方だろう。
そうやって話をすり替え、馨の横を通り過ぎようとした――その瞬間だった。
「知ってるよ。でも、俺が用あるのは一花ちゃんだけど?」
ピキリ、と一花の身体が凍りついた。
教室のドアの手前で、完全に足が止まる。
今、この男は何と言った?
いつもは「柊さん」と呼ぶのに、唐突に刻まれた「一花ちゃん」という歪な親密さ。その響きに含まれた確かな熱量に、ゾワリと鳥肌が立つ。
(私に、……?)
一花は引きつりそうになる顔に必死で愛想笑いを貼り付け、ゆっくりと振り返った。
「えっと…、用って……何かな?」
夕闇が迫る教室の中、二人の視線が真っ向から交錯した。



