ある日、夏目朔也は母親の検査の付き添いという理由で、学校を休むことになった。
一花のスマートフォンの画面に、彼からの丁寧な謝罪が綴られたメッセージが表示される。あの雨の公園での一件以来、なかなか決定的な『いい雰囲気』へと持ち込めていない一花は、目に見えない停滞感に小さな焦りを覚えていた。
自室の机の上、ユリシスの標本を冷たい指先で見つめながら、一花は小さく毒を吐くように呟いた。
「なんとなく……あの母親に、私の邪魔をされている気がするなぁ……」
その正体が、かつてパパを奪った『夏目英舞』だからこそ、その存在自体が薄気味悪い障壁のように一花の神経を逆撫でしていた。
そして訪れた、朔也のいない昼休み。
教室の席でパンをかじる一花のもとに、いつものように空麗がやってきた。空麗は朔也の空席をちらりと見て、悪戯っぽく微笑む。
「あ、今日は夏目くん休みなんだ? 一花ちゃん、寂しそうだね〜?」
一花はすぐにいつものいじらしい恋人の仮面を被り、少し眉を下げてみせた。
「うん、そうなの。なんだか、お母さんの体調が良くないみたいで、大変そうなの……」
「え、そうなの……?」
空麗は手にしたパックのジュースのストローをくわえながら、ふと思い出したように言葉を続けた。
「そういえば、夏目くんの家、確か母子家庭みたいだもんね……。お母さんが病気がちで大変そうなのに、学校ではいつもあんなに明るいし、本当に健気だよねー」
空麗が何気なく口にしたその一言に、一花は大きく目を見開いた。頭の芯を殴られたような衝撃に、全身の血が凍りつく。
(母子家庭……? じゃあ、あの女は離婚しているってこと……?)
あの夏の日、父が笑顔で出てきたあの綺麗な一軒家。そこに掲げられていた表札。あの時にはもう、あの不倫の女は、父のために籍を抜いて待っていたというのか。
(信じられない……。そこまでして、私のパパと一緒になりたかったの? 一つの家庭を容赦なく壊してまで……? なんて、おぞましい女なの……っ)
過去の記憶のピースが最悪の形で噛み合い、夏目英舞への嫌悪と憎悪が、一花の身体中を急速に侵食していく。
爪が手のひらに食い込み、怒りで呼吸が浅くなるのを止められなかった。
一花の顔からあまりに急激に温度が消え、暗く曇っていくのを見て、空麗は心配そうに顔を覗き込んできた。
「一花ちゃん……? 大丈夫……? 最近、夏目くんと何か上手くいってないの……?」
「え……?」
ハッと我に返った一花は、瞬時に喉の渇きを押し殺し、貼り付けたような優しい笑みを再生させた。
「ううん、そんなことないよ。ただ……夏目くんのことが、なんだか心配になっちゃって」
「そっかぁ。一花ちゃんってば、本当に優しいね〜!」
空麗はすっかり安心したように破顔し、「あーあ、私もそんな風に心配できる彼氏がほしー!」と、羨ましそうに椅子の上で足をバタつかせた。
楽しそうにはしゃぐ空麗の声を聞きながら、一花の瞳の奥の光は、完全に凍りついていた。
母子家庭。病気の母親。そして、何も知らずに健気を装う息子。
(…その内、私が徹底的に壊してあげる)
隣の主のいない空席を見つめる一花の胸の中で、復讐の炎はかつてないほど激しく、燃え上がっていた。



