TRAP×GIRL【完結】



「ねぇ、母さん」

静まり返った病室で、規則正しい呼吸音だけを刻む英舞の耳元へ、朔也はそっと唇を近づけた。冷たいシーツの上に投げ出された彼女の痩せた手を、自分の大きな掌でそっと包み込む。

「俺……彼女ができたんだ」

返事のない暗がりに向かって、朔也は独り言のように言葉を紡いでいく。

「とても可愛い子なんだよ……。名前は一花っていうんだ。いつかその内、母さんに会わせてあげたいな。……きっと、きっと母さんは喜んでくれるはずだよ。俺の選んだ人なら、認めてくれるはずなんだ。だって、彼女は……」

そこまで言いかけたところで、朔也の言葉は微かにはぐれ、か細く途切れた。
だって彼女の瞳の奥には、母さんのように俺を異常なほど求めてくれるような計り知れない執着が見えたからなのか。あるいは、母が狂ってしまう前の、あの綺麗な家族の形を思い出させてくれるからなのか。

答えのない問いのような彼の呟きは、窓ガラスを激しく叩き始めた夜の雨の音の中に、静かに溶けて消えていった。


そんな朔也が、今この瞬間にどれほど昏い表情で病室に佇んでいるかなど、知る由もない一花は、自室のベッドの上で一人、苦々しい思いに囚われていた。

「少し、早まったかな……」

一花はベッドにうつ伏せになり、柔らかい枕に顔を半分埋めながら、天井の闇を睨みつけるように呟いた。

公園での、あと数ミリまで迫ったあの口づけ。
朔也の心臓の音は確かに捉えていた。罠の手応えは完璧だった。けれど、あの母親からの唐突な着信によって、最高の引き金を引くチャンスは無残に引き裂かれてしまった。

(次のタイミングを、どう狙うか……。焦って仕掛ければ、あの男の拭えない小さな警戒心に触れてしまうかもしれない)

じりじりとした焦燥感が一花の胸を焦がす。
そして、それ以上に彼女の思考の輪郭をいらだたせているのは、もう一人の男の存在だった。

「それにしても……あの、碓氷馨って人。非常にめんどくさい」

放課後の教室で、自分の手が朔也の首元へ伸びていた、あの決定的な瞬間。
すべてを見透かしたような酷薄な笑みを浮かべ、父の初版の小説『氷。』を差し出してきたシルバーの髪の彼。あの男の底の知れない切れ長の瞳を思い出すたびに、一花の肌には不快な鳥肌が立つような嫌悪感がへばりついた。

あいつは、もしかしたら…私の正体に気づいているかもしれない。
気づいた上で、朔也に告発するでもなく、まるで蜘蛛の巣にかかった獲物の観察を楽しむかのように、自身のすぐ後ろで息を潜めているのだ。

「私の邪魔をするなら、あの男ごと……っ」

一花は枕にぎゅっと顔を埋め、怒りと復讐の熱で早くなる呼吸を落ち着かせようとした。

外では雨脚がさらに強まり、一花と朔也、そして馨の三人の運命を泥沼へと引き摺り下ろすように、容赦なく降り注いでいた。