夕闇がすっかり街を飲み込んだ頃、朔也は息を切らせてその建物の前に立っていた。
郊外の静けさの中に佇む、大きな病院。看板に書かれた『精神科』の文字が、街灯の冷たい光に照らされている。朔也は額の汗を制服の袖で乱暴に拭うと、重い自動扉をくぐり、ナースステーションへと急いだ。
「あ、夏目くん。お母さん、さっきからまた少し興奮されていてね……」
看護師にそう告げられ、手短に面会の許可をもらうと、朔也は慣れた足取りで長い廊下を突き当たりへと向かった。
病室の扉を静かに開けると、そこは独特の薬の匂いが立ち込めていた。
視界に飛び込んできたのは、ひどく窶れ、長い髪を振り乱した母親――夏目英舞の姿だった。彼女は点滴のスタンドを握りしめ、虚ろな目を血走らせながら、狭い病室内を目的もなくウロウロと歩き回っていた。傍らでは、若い看護師がこれ以上刺激しないよう、鎮静剤のタイミングを測りながら声をかけあぐねている。
床を蹴る朔也の足音に、英舞が弾かれたように振り返った。
息子の姿をその網膜に捉えた瞬間、彼女の狂気に染まっていた顔が、ぱぁっと奇妙な子供のような明るさを帯びる。
「……朔也? 朔也なの……っ?」
英舞はボロボロと大粒の涙を流し、縋るような声を上げると、緊張の糸が切れたようにその場にへたり込んでしまった。
朔也はそんな母親の姿を、胸を締め付けられるような悲しい目で見つめた。そして、床に膝をつくと、小さな子供をあやすように優しく、英舞の細い身体をその逞しい腕で抱きしめた。
「そうだよ。遅くなってごめん、母さん……」
「どうして……どうして私を迎えに来てくれないのよぉ、朔也……! もう、お願いだから、お母さんの側から離れないでぇ……っ!」
英舞は狂おしいほどの力で、朔也の制服の背中をぎゅっと、引きちぎらんばかりに指先を立てて抱きしめてきた。
それは、愛という名の一方的な足枷だった。
不倫の末に狂い、自分を縛りつける母親。朔也は英舞の痩せた背中にゆっくりと手を回すと、その耳元で、何度も繰り返してきた呪文のような言葉を囁いた。
「大丈夫だよ、母さん。どこにもいかないよ……。ずっと、母さんだけを愛してる」
その声はどこまでも優しく、けれど、紡ぎ出された朔也の瞳からは、すべての光が完全に消え失せていた。どこを見つめているのか分からない、漆黒の虚無。
自分が母親を、そしてかつて不倫をしていたあの大人たちの罪を背負うための『嘘』。その死んだような瞳の冷たさに、泣き叫ぶ英舞も、側で見守る看護師も、誰一人として気づいてはいなかった。
やがて、息子の腕の中で英舞の病状は次第に落ち着きを取り戻していった。医師の指示で鎮静剤の注射が打たれると、彼女は深く息を吐きながら、安らかな顔をしてベッドへと横たわった。
眠りについた母親の枕元で、朔也は一人、パイプ椅子に腰掛けて静かに座っていた。



