朔也は一花から身体を離し、ひどく申し訳なさそうな顔を浮かべた。
「…ごめんっ」
咄嗟にポケットからスマートフォンを取り出し、画面を一瞥した彼の表情が強張る。朔也はそのままベンチから立ち上がり、早足で少し離れた場所へと歩いていきながら、通話ボタンを押した。
守るべき恋人の前で見せた、狼狽した彼の背中。
それを見つめながら、一花は誰にも聞こえないほどの小さな音で、「チッ」と冷たく舌打ちをした。
その瞬間、彼女の瞳からはすべての温度が消え失せていた。完全に据わったその目は、泥を這う生き物を見下ろすかのように冷酷で、一切の光を宿していなかった。せっかくの復讐の完成を邪魔された不快感だけが、胸の奥で苛立ちとなってくすぶる。
少し離れた場所で、朔也の焦燥を含んだ声が風に乗って聞こえてきた。
「はい、はいわかりました。すみません、ご迷惑おかけします。……宜しくお願いします」
深々と頭を下げ、朔也が通話を切る。彼は踵を返すと、焦りを隠せない様子で一花の元へと駆け戻ってきた。
「ごめん、一花! ちょっと母さんの状態があまり良くなくて……今から急いで病院へ向かわなきゃいけないんだ。だから、ごめん、ちょっと先に帰るねっ」
朔也は慌ただしくベンチの鞄をひったくるように掴んだ。
その姿を見た刹那、一花の顔には瞬時に完璧な仮面が張り付いた。氷のようだった瞳に瑞々しい涙を浮かべ、健気で、恋人を心から心配する少女の表情へと一変する。
「えっ! 朔也くんのお母さん……?! 大丈夫なの? 私もっ…、一緒に行こうか……?」
今にも泣き出しそうな声を震わせ、縋るように朔也を見つめる。
そんな彼女のいじらしい姿に、朔也の強張った表情が少しだけ和らいだ。彼は愛おしそうに目を細めると、一花の頭にポン、と優しく手を置いた。
「大丈夫、ありがとう一花。気持ちだけで嬉しいよ。……また帰ったら連絡するら。一花は先に帰ってて」
朔也はそれだけ言い残すと、夕闇が迫る公園の出口に向かって、全力で走って去っていった。
遠ざかっていく彼の背中を見送りながら、一花の頭には、先ほど彼の手が触れた場所に、確かな嫌悪感がへばりついていた。
夏目朔也を縛る檻の正体に、精神を病み狂気の奥で息子を縛りつける母親の存在があったのを一花は知るよしもない。
(…っ邪魔が入った……)
一花はギリッと歯を食いしばり、膝の上でクシャっと制服のスカートを握りしめて朔也の去っていった方向を睨みつけた。



