「あ、そうだ朔也。これ、もう読んだし返すわ」
別れ際、馨が思い出したかのようにそう言って、ポケットから一冊の文庫本を取り出した。
一花のすぐ隣から差し出されたその本。その表紙のデザインが視界に入った瞬間、一花の身体は、頭から冷水を浴びせられたかのように完全に凍りついた。
それは、まぎれもなく父親――朝霧青紫が出版していた小説だった。
タイトルは、『氷。―研ぎ澄まされた中でー』。
最高峰の『長谷川賞』を受賞し、あの『涙。ー羽をもがれた蝶々達ー』を生み出すよりもさらに前、まだ父が純文学の世界で静かに狂気を研ぎ澄ましていた頃の、初期の傑作だった。
(なんで……なんであなたが、その本を……)
一瞬、呼吸の仕方を忘れた。肺の空気がすべて抜き取られたように胸が苦しくなる。
「サンキュ。これ、馨に貸したの結構前だったよな」
「悪い悪い、机の奥に紛れ込んでてさ」という朔也と馨の他愛のないやり取りが、どこか遠くの水底から聞こえてくるようで、一花の耳には一切入ってこなかった。
心臓が早鐘を打つ。
父の愛のすべてを奪った夏目朔也の、その手元に、自分のすべての拠り所である父の小説がある。
そして、すべてを見透かそうとしてくる碓氷馨が、それを今、朔也に返した。その奇妙な巡り合わせの不気味さに、一花の脳内は完全にパニックを起こしていた。
「じゃあ一花、帰ろうか」
ちらりと一花に視線を向けた朔也の、いつもの優しい笑顔に、一花は喉の渇きを無理やり押し殺してようやく現実へと引き戻された。
「う、うん……。行こう」
消え入りそうな声でどうにか応じ、一花は朔也に促されるまま、逃げるように教室を後にした。
もう、後ろを振り返る余裕すら一花には残されていなかった。
並んで去っていく二人の後ろ姿を、馨は腕を組んだまま、訝しげに、けれどじっと見つめていた。
教室には、梅雨の湿った雨の音だけが静かに響いている。
馨はゆっくりと形の良い口角を上げると、我慢しきれないといった様子で、低くクスッと笑いだした。
「はは……。面白いなぁ、あの子」
誰もいない、薄暗い教室。
窓ガラスを打つ雨脚が強くなっていく中、馨の瞳には、かつてないほどの昏い熱が灯っていた。
「……俺、欲しくなったかも」
静かに囁かれたその傲慢な独白は、誰に届くこともなく、しとしと降りだす雨の中に深く溶けて消えていった。



