人の噂も七十五日とはよく言ったもので、一花と朔也の交際というニュースも、日々の喧騒の中に少しずつ溶けて自然に流れていった。周囲の目が向けられなくなることは、一花にとってむしろ都合がよかった。人目を気にせず、長く張り巡らせる茨をさらに深く絡めることができるからだ。
ある日の放課後、窓の外では生ぬるい梅雨の雨が静かに降り続いていた。
「一花、一緒に帰ろう」
荷物をまとめた朔也が笑顔で声をかけてきたが、一花は困ったように眉を下げてみせた。
「ごめんね、朔也くん。今日は委員会があって、かなり遅くなっちゃいそうなの。だから、先に帰ってて?」
いつもの健気な嘘。けれど、朔也は首を横に振った。
「いや、待ってるよ。教室で読書でもしながら待ってるから、終わったら声かけて」
そう言って、彼は一花の頭をぽんぽんと優しく叩き、自分の席へと戻っていった。
(……何それ、自分勝手ね)
一花は冷ややかに思いながら委員会へと向かった。
やがて長い時間が経ち、委員会を終えた一花は、静まり返った校舎の廊下を教室へと急いだ。すでに他の生徒たちの気配はなく、薄暗い廊下には彼女の上靴の足音だけが孤独に響いている。
教室の前へとたどり着き、ドアをゆっくりと開けた。
「あれ? 朔也くん……?」
声をかけたが、返事はない。
夕闇が差し込む教室の奥、一番窓際の後ろの席で、朔也は机に腕を枕にして、すやすやと眠りについていた。
その徹底的な無防備さ。
自分を信じ切り、何の警戒もなく眠るその姿を目にした瞬間、一花の胸の奥底から、ドロドロとしたどす黒い復讐の心が急速に侵食し、沸き上がってきた。
ドクン―――ドクン―――。
自分の心臓の音が、異常なほどリアルに耳元まで広がっていく。世界からすべての音が消え去り、自分の激しい鼓動と、彼の静かな呼吸音だけが空間を支配していた。
一花は光を失った据わった目で、ゆっくりと、足音を消して朔也の席へと近づいていった。
至近距離でのぞき込む。綺麗なまつ毛が白皙の肌に影を落とし、規則正しい呼吸音が聞こえる。この男は、自分がどんな地獄を生きてきたかも知らず、のうのうと生きて、今も私の隣で幸せそうに眠っている。
一花はそんな無防備な朔也を見つめながら、激しい憎悪の波に飲み込まれていった。
(あなたさえ、いなければ。あなたの母親もそう……。そしたら私は、柊なんて偽物の名前を名乗ることもなく、ずっとパパの愛を感じて生きていられたのに……っ)
奥歯がガチガチと鳴るほどの、血を吐くような憎悪が一気に押し寄せる。私の人生を狂わせた、不倫相手の息子。
一花は視線を彼の細い首元へと落とした。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、白く冷たい自分の両手を彼の首元へと近づけていく。
(あなたさえ。あなたさえこの世界から消えてくれたら、どんなに私は……)
指先が、朔也の首の皮膚に触れる寸前。その気管を締め上げようと、一花の手にすっと力がこもった、その時だった―――。
背後から、冷ややかな低い声が、静寂を引き裂いた。
「…何してんの?」
心臓が跳ね上がる。一花が硬直して振り返ると、そこにはいつの間にか教室の入り口に佇み、シルバーの髪を揺らしながら薄汚い笑みを浮かべている碓氷馨の姿があった。



