朔也はそれ以上、母親のことについて何も答えなかった。ただ、一花の細い足首から氷嚢を離すと、手際よく新しい湿布を貼り、その上から白い包帯をゆっくりと、痛ませないように丁寧に巻いていった。
「あの、朔也くん。もう私、自分でできるから、いいよ……?」
これ以上彼のペースに巻き込まれるのを恐れるように、一花はそっと手を伸ばして彼を止めようとした。しかし、朔也は顔を上げて小さく笑う。
「いいよ。俺がここまで運んできたんだから、最後まで任せて」
いつもと変わらない、どこまでも爽やかで親切な優等生の返答。
その澱みのない声音を聞くたびに、一花の胸の奥ではどす黒い感情がふつふつと湧き上がり、それを必死で押し殺すように静かに生唾を飲み込んだ。
(私のパパを奪ったあの女に、彼もまた何かしら囚われているものがあるの…?なら、その鎖ごと、私が引きちぎってあげる)
動揺を完璧な冷徹さへと昇華させた一花は、次の計画――夏目朔也の心を完全に掌握するための、決定的な演技へと移っていく。
一花は視線を少しだけ彷徨わせ、壊れやすいガラス細工のような、儚げで無防備な声を絞り出した。
「ありがと……。ねぇ、どうして朔也くんは……私なんかに、こうして優しくしてくれるの……? やっぱり、学級委員だから……?」
あえて自分を卑下し、彼の本心をあぶり出すためのあざとい問いかけ。
床にかがんで包帯を巻いている朔也の表情は、うつむいているためによく読めない。だが、一花のその言葉が鼓膜に届いた瞬間、彼の動きに明らかな反応があった。ピクっと、白い包帯を握る朔也の大きな掌が強張って固まったのだ。
静まり返った保健室に、窓の外から梅雨のじっとりとした風が入り込み、白いカーテンを揺らす。
数秒の沈黙の後、朔也はまた、何事もなかったかのようにゆっくりと包帯を巻き進めながら、少し照れたように口を開いた。
「はは……。柊さんは“なんか”じゃないよ。そりゃ、学級委員っていう立場もあるかもしれないけど……。でも、あの時はなんだか……身体が勝手に動いてたっていうか。"俺が、一番に助けたいと思ったんだ"」
体育館の床に倒れた一花を見た瞬間、胸を突き刺したあの焦燥感。他の誰でもない、自分が彼女を抱き上げなければならないと本能が叫んだあの一瞬。朔也は自分の内に芽生えた、学級委員という枠組みをとうに超えた特別な感情を、不器用ながらも真っ直ぐに告白した。
その言葉が、静かな室内に吸い込まれていく。
一花の心臓が、ドクン―――ドクン―――と、重くゆっくり拍動していくのがリアルな感覚として伝わってきた。
(これだ。その言葉を、私はずっと待ってた…)
獲物が自ら進んで私の蜘蛛の糸に絡まり、心臓まで差し出してきた。その圧倒的な手応えに、一花は朔也からは決して見えない絶妙な角度で、狂おしい愉悦に満ちた口角をごくわずかに釣り上げた。
そして、ゆっくりと。
まるで世界の時間が引き伸ばされたスローモーションのように、一花は細く白い片手を伸ばし、床にかがむ朔也の柔らかな頬へと、優しくそっと添えていった。
肌に触れる、微かな体温。
そのあまりにも唐突で情熱的な愛撫に気が付き、朔也はハッとしたように包帯を巻く手を止め、ゆっくりと一花の方へ顔を上げた。
見つめ合う二人の視線が、至近距離で交差していく。



