朔也は慣れた手つきで、保健室の備え付けの棚から氷嚢の袋を取り出し、冷凍庫の氷をサラサラと手際良く入れ始めた。
「柊さん、靴下脱いでくれる?」
氷嚢の口を縛りながら、朔也がごく自然な調子で言った。一花はいかにも躊躇うように視線を泳がせ、少し恥ずかしそうな演技を交えながら、ゆっくりと左足のローファーと白の靴下を脱いだ。
朔也は一花の足元にゆっくりと腰をかがめた。大きな掌が一花の白い素足にそっと触れ、準備したばかりの氷嚢を優しく痛むはずのない足首へと当てた。じわりと広がる氷の温度に、一花は小さく肩をすくめる。
「ふふ、冷たい」
くすぐったそうに、無邪気な笑みを浮かべてみせた。朔也はハッとしたように少し目を見開くと、気遣わしげに顔を上げた。
「ごめん、冷たすぎたかな?」
「ううん、気持ちいい」
一花は首を横に振り、少し目を細めて微笑んだ。
「ありがとう。朔也くん、こういうのすごく慣れてるんだね」
何気ない称賛のつもりだった。彼の完璧な優等生としての引き出しを褒め、さらに心の距離を縮めるための、ありふれた一言のはずだった。
けれど、朔也の口から返ってきたのは、一花の予想を完全に裏切る言葉だった。
「あぁ……。ちょっと、俺の母親がね。よくケガをしたりしてたから、昔からよく手当てをしていたんだよ」
そう言って笑う朔也の目は、どこか遠くを見るように、少し悲しげに濁っていた。
その瞬間。一花の心臓が、硬い縄で直接締め付けられたかのような激しい痛みに襲われた。
ドクン、と胸の奥が嫌な音を立てて跳ね上がり、一花の身体は完全に硬直した。
(母親……? パパを奪った、あの、夏目英舞の話……?)
脳裏をよぎるのは、あの大学の資料倉庫で見つけた、不倫相手の女の名前。パパを自分から奪い去り、今や精神を病んで病院の奥にいるというあの女。その女の手当てを、この夏目朔也が幼い頃からしていたというのか。
(何故今ここで、あの女の話が出てくるの……?)
激しい動悸と、予想外のところから飛んできた過去の残像に、一花は動揺を必死で隠さなければならなかった。喉の奥がカラカラに渇き、貼り付けた仮面が内側からひび割れていくような錯覚に陥る。ここで表情を崩せば、これまでの苦労がすべて水の泡になる。
一花はきつく拳を握り締め、爪を手のひらに食い込ませながら、どうにかいつもの、他人に寄り添うような優しい声を絞り出した。
「そう、なの……? なんか、大変だったんだね……」
視線を落とした朔也には、一花の瞳の奥に宿った、ぞっとするほど冷酷で、激しく動揺した暗い光は見えていなかった。



