廊下の片隅で、世界が静止したかのような沈黙が流れていた。
一花は朔也の胸に抱かれたまま、その黒い瞳をじっと見つめ続けた。朔也もまた、息をするのも忘れたように目を見開いて、一花の瞳の深淵を覗き込んでいる。耳の後ろから漂う甘いコロンの香りが、二人の間のわずかな空気を狂わせていく。
十分な時間を稼いだ。これ以上は、あざとさが勝ってしまう。
一花はタイミングを見計らい、ハッとしたように大きく目を見開くと、「ご、ごめん! 私っ」と、怯えたように驚いて朔也の胸から少し身を引いた。
腕の中の温もりを失った朔也は、所在なさそうに両手を泳がせ、「いや、俺の方こそ……」と呟いた。その耳の付け根が、隠しきれずに赤く染まっているのを、一花の見落とすはずがなかった。
(……はは、軽いわね)
心の中で冷酷な嘲笑を浮かべた、その時だった。
「朔也? あれ、どうした?」
低く、どこか底の知れない男の声が、じっとりとした廊下の空気を切り裂いた。
驚いて視線を向けると、朔也のすぐ後ろに、一人の男子生徒が立っていた。梅雨の曇り空の下で鈍く輝く、シルバーの髪。いつかの渡り廊下ですれ違った男――碓氷馨だった。
一花は一瞬で無害な転校生の表情を作り直すと、小さく頭を下げた。
「じゃあ、私はこれで」
それだけ言い残し、朔也から距離を取って、馨の横をすっと横切った。
その瞬間、一花の瞳には、馨の存在など最初からそこにはないかのような、完璧な「無関心」が宿っていた。
すれ違いざま、馨の切れ上がった瞳が少しばかり大きく見開かれる。彼は足を止め、凛とした歩調で去っていく一花の背中をじっと見つめていた。
「へぇー……?」
馨は唇の端を面白そうに吊り上げると、親友の肩を軽く叩いた。
「可愛いね、あの子。何、知り合い……?」
馨の視線に追われるようにして、朔也もまた、一花が角を曲がって見えなくなるまでその場所を見つめ続けていた。
「え、あぁ、うん……。同じクラスの、柊さん。この前うちのクラスに転校してきた子だよ……」
上の空で応じる親友の横顔を見て、馨の目が細められる。
「珍しいな。朔也が女の子のことをそんな風に気にするなんて」
「え、そう、かな……」
図星を突かれた朔也は、慌てたように視線を逸らし、床に落ちた自分の鞄を拾い上げた。
(いや、本当に珍しいよ)
馨は、逃げるように歩き出す朔也の後ろ姿を追いながら、そっと心の中で呟いていた。
何より不思議だったのは、先ほどすれ違ったあの少女の態度だ。この学校の女子なら誰もが自分に向ける羨望や好奇の視線を、彼女はただの一片すら持ち合わせていなかった。自分を端から存在しなかったかのように、完全に無視して通り過ぎていったあの冷徹な瞳。
馨の鋭い本能が、あの可憐な転校生の裏にある「何か」を察知し、奇妙な胸騒ぎを覚えていた。
一方、教室へと戻る朔也の頭の中は、すでに一花で埋め尽くされていた。ぶつかった瞬間の柔らかな感触、鼻腔をくすぐった甘い香り。そして何より――先ほど至近距離で交わった、あの吸い込まれそうなほどに情熱的な一花の瞳が、どうしても頭から離れなくなっていた。
完璧な一花の撒いた毒が、朔也の心へ確実に回り始めていた。



