TRAP×GIRL【完結】



「――よし、それじゃあ新しいクラスメイトを紹介するぞ」担任の低く抑えられた声が、梅雨特有のじっとりとした湿気に満ちた教室に響いた。

その一言で、退屈な朝のホームルームに、にわかに波紋が広がる。
教室の扉が、ガラガラと静かな音を立てて開いた。
一歩、教壇へと足を踏み入れたその少女の姿を見た瞬間、クラスのあちこちから、息を呑むような微かなざわめきが沸き起こった。

「うわ、めちゃくちゃ可愛い……」
「アイドルか何か?」

男子生徒たちの目は一瞬にして釘付けになり、女子生徒たちもまた、その圧倒的な透明感に驚きの視線を隠せない。

少し長めの黒髪は絹のように滑らかで、湿度を含んだ朝の光を浴びてしっとりと輝いている。

色白の肌に、丁寧に整列した長いまつ毛。
そして、どこか儚げで、庇護欲をそそるような大きな瞳。前の学校でいじめられていたという設定を完璧に補強する、今にも壊れてしまいそうなほどに可憐な少女――それが、クラスの全員の目に映る『柊一花』の偽りの姿だった。

「柊一花です。前の学校からは、少し事情があってこちらにお世話になることになりました。まだ不慣れなところばかりですが、早く皆さんに追いつけるよう頑張ります。よろしくお願いします」

鈴を転がすような、清澄で少し内気な声。
一花が健気に頭を下げると、教室内には大きな拍手が巻き起こった。

その温かい歓迎の嵐のなかで、一花の意識は、完全にクラスの『ある一点』だけに絞り込まれていた。

彼女の目は、教室内をゆっくりと見渡すフリをしながら、一番窓際の、一番後ろの席をじっと見つめる。
そこに、彼がいた。

―――"夏目 朔也"

あの夏の日の記憶よりもずっと背が伸び、制服を端正に着こなした少年が、そこに座っていた。
彼は、クラスの中心人物らしく、周囲の友人たちと先ほどまで笑顔で話していたのだろう。
けれど、一花が教壇に立った瞬間から、その目を大きく見開いて、暫く驚きつつ彼女を見つめていた。

ざわざわと騒がしい教室のノイズが、一花の耳から綺麗に消え去っていく。

(やっと見つけた。)

脳裏にこびりついて離れなかった、父の愛を奪った不倫相手の息子。
何年もの間、自分の夢を呪いで満たし続けた、あのキャッチボールの少年が、今、自分の手の届く距離にいる。

一花は、朔也のまっすぐな視線と交わるのを、静かに待った。
そして、二人の視線がパチリと一瞬重なった、その刹那。一花は、朔也だけに向けて、ゆっくりと小さく微笑んでみせた。

それは、他の誰にも気づかれないほど微かで、けれど最高に愛らしく、同時にぞっとするほど冷徹な深淵を秘めた笑みだった。
向けられた朔也の肩が、微かに瞬きをするのが見えた。彼の瞳に、困惑と、それ以上に抗えない強烈な「興味」の光が灯るのを、一花は見逃さなかった。

まだ、言葉は交わさない。
声をかけるのは、今ではないから。

まずはその濁りのない純粋な瞳に、自分の存在という消えない烙印を焼き付けるだけで十分だった。

「柊の席は、あそこの窓際、学級委員の夏目の隣だな。夏目、いろいろ教えてやってくれ」

担任の言葉に、朔也は「あ、はい!」と少し上擦った声で答えた。

一花は、静かに上靴の音を響かせながら、彼の隣の席へと歩き出す。

すれ違う瞬間、朔也の横顔から、微かに緊張した気配が伝わってきた。

一花は一切彼を見ることなく、ただ前を見据えたまま、自分の机に鞄を置いた。

これからが始まりよ…。

じっとりとした六月の風が窓から吹き込み、一花の黒髪を、そして二人の距離を、静かに揺らしていた。