白波の研究室を飛び出した一花は、自身の激しい足音に急かされるようにして、大学の図書館へと向かっていた。
頭の中では「夏目英舞」という四文字が、狂った警報のように鳴り響き続けている。あの日の蝉時雨。父の見たこともないような、心底から蕩けるような笑顔。そして、あの少年と白球の音。すべてがその名前という一本の細い糸で手繰り寄せられ、一花の心臓を容赦なく締め上げていた。
重厚な石造りの図書館の門をくぐると、ひんやりとした静寂が彼女を包み込んだ。
一花は受付の目を盗み、一般の学生すら近づかない建物の最奥――薄暗い地下へと続く階段へと足を向けた。湿った空気と、古びた紙が放つ特有の酸っぱい匂いが鼻腔を突く。そこは、数十年前の古い蔵書や紀要、学生たちの古い論文が眠る「資料倉庫」だった。
重い鉄扉を押し開けると、遮光された薄暗がりのなかに、数え切れないほどの木製棚が墓標のように整然と並んでいた。
一花は息をひそめ、棚に貼られた「経済学部」のラベルを一つずつ確認していく。指先が冷たく震えていた。棚の隙間から差し込むわずかな蛍光灯の光を頼りに、父と母が出会ったという、あの数十年前の年代が眠る埃っぽい段ボール箱へと辿り着く。
「……あった」
渇いた喉から、かすかな掠れ声が漏れた。
一花は箱の蓋を乱暴に開け、経済学部の卒業論文や研究紀要の束を貪るようにめくり始めた。茶色く変色した紙の束を、指先が黒くなるのも構わずにめくっていく。
そして、ついにその名前に指が止まった。
『昭和〇〇年度 経済学部卒業論文――夏目英舞』
心臓が、どくんと大きく跳ね上がった。一花は周囲に誰もいないことを確認すると、まるで世界で最も価値のある禁書を盗み出す泥棒のように、その一冊を棚の影へと持ち込んだ。
論文のタイトルは、『現代社会における共同体の崩壊と、個人の心理的排他性について』。
一花は取り憑かれたようにページをめくった。難解な経済用語や数式が並ぶなか、論文の後半、謝辞のページに差し掛かった瞬間――一花の全身の血が、一瞬にして凝固した。
そこには、流麗な万年筆の文字で、こう記されていた。
『本論文の執筆にあたり、常に私の精神的支柱であり続け、孤独な研究作業に多大なるインスピレーションを与えてくれた、文学部の友人・朝霧蒼士氏に、心からの親愛と感謝を捧げます』
文字の輪郭が、一花の瞳の奥で歪んでいく。
友人。親愛。感謝。
そんな生ぬるい言葉の裏に隠された、あまりにも濃厚で、あまりにもおぞましい二人の繋がりが、行間から溢れ出て一花の肌を汚していくようだった。
まぎれもない、父親と関わりがあった痕跡だった。
その瞬間、一花の頭のなかで、すべてのパズルが最悪の形で完成した。
父の代表作であり、一花が胸に抱きしめて生きてきた『涙。ー羽をもがれた蝶々達ー』。あの小説は、母との平穏な生活のなかで生まれたものではなかったのか。
この夏目英舞という女との、おぞましい不倫の共犯関係のなかで、彼女からインスピレーションを得て紡がれたものだったのだろうか。
「あ……、あはは……っ」
薄暗い資料倉庫の片隅で、一花の唇から、乾いた笑いが漏れた。
手が震え、古い紙がカサカサと音を立てる。
私が大切に守ってきた思い出も、パパの言葉も、全部、この女との愛の形だったのだろうか。
そしてその女は、別の誰かと結婚し、あの『夏目朔也』という男の子を産み、あろう事か父の愛のすべてを我が物顔で奪い去ったのだ。
一花は論文を指先が白くなるほど強く握りつぶし、その場に崩れ落ちそうになるのを耐えた。
瞳の奥から、すべての光が完全に消え去る。代わりに、どす黒く、冷徹な復讐の業火が、彼女の胸の奥で勢いよく燃え上がっていく。
夏目英舞、そして…朔也。
お前たちが父から与えられたその「愛」を、今度は私が、お前たちを永遠に閉じ込める地獄の檻に変えてあげる。
一花は論文を静かに元に戻すと、握りつぶした論文の様子を棚に押し込み、凍りついたような笑みを浮かべながら、暗い地下の資料倉庫をあとにした。



