白波准教授は一花の問いに少しだけ目を見開くと、からかうように愉快げに笑った。
「はは、もしかしてお父さんとお母さんの、当時の出会いの話を聞きたいのかな? そうだなぁ、蒼士くんの奥さんがどんな人かは僕には想像がつかないが……当時、教育学部に柊澪さんがいたね。他には……経済学部に、夏目英舞さんという女性もいたな。他には、理工学部の……」
白波が記憶を辿りながら名前を並べる途中で、一花の意識は完全にその一つに縫い付けられた。
「夏目……英舞……?」
唇から零れ落ちたその名前。脳裏の奥底、記憶の澱にこびりついて離れない二文字が、一花の頭の中で音を立てて弾けた。
記憶が急速に遡っていく。あの、じりじりと肌を焼くような夏の残像。見知らぬ小綺麗な一軒家から出てきた、自分の知らない笑顔を浮かべた父親。あの時、一花が必死に追いかけた一軒家の門柱、そこに掲げられていた表札には、確かに“夏”と“目”の漢字が刻まれていた。
(……それだ。見つけた)
一花は落雷に打たれたように、その場で完全に硬直した。指先が微かに震え、思考のすべてがその名前に支配されていく。
白波は一花の突然の豹変に驚いたように眉を上げたが、すぐに娘が父親の過去の女性関係にショックを受けたのだと勘違いし、慌てて取り繕うように笑った。
「あはは、蒼士くんはなかなかいい男だったからね、色々な女性の名前が絶えなかったんだ。娘さんに少し失礼な話をしてしまったね。忘れておくれ、申し訳ない」
「いえ……」
一花は瞬時に喉の渇きを押し殺し、貼り付けたような笑顔を再生させた。胸の奥で、どくどくと早くなる動悸が衣服を突き破りそうなくらいに暴れている。それを必死に抑え込みながら、一花は言葉を紡いだ。
「そんな、女性に慕われる父も素敵だと思います。……あの、実は私、大学では経済学部に進むことに興味があって。その、夏目英舞さんという方は、当時はどんな方だったんですか……?」
上擦りそうになる声をどうにか制御し、進路への興味を装って訊ねる。白波は顎に手を当て、記憶の引き出しを探るように視線を斜め上に向けた。
「そうだなぁ……凄く聡明な女性だったよ。僕もそんなに深く会話した覚えがあるわけじゃないんだが……確か、学生の身でありながら、非常に素晴らしい論文を書いていたと思う。この大学の図書室の、古い資料倉庫に確か保管されていたはずだが……」
資料倉庫。図書室。
白波がそこまで口にした瞬間、一花は自分の腕時計を見るフリをして、わざとらしく小さく声を上げた。
「――あっ、もうこんな時間!」
立ち上がり、白波に向かって深く頭を下げる。一刻も早く、その資料倉庫へ向かいたかった。ここに留まる一分一秒すらも、もどかしくて狂いそうだった。
「そうなんですね! 貴重なお話をたくさん、本当にありがとうございます。白波教授、今日は突然押し掛けたのにありがとうございました。私、もう帰らなければいけないみたいです、すみません!」
嵐のように早急に挨拶を終えると、一花は引き止める隙も与えず、研究室の重い木製のドアを開けて飛び出していった。
バタン、と静まり返った廊下にドアの閉まる音が虚しく響く。
一人残された白波は、淹れたての紅茶から立ち上る湯気を見つめながら、「はて……」と首を傾げ、不思議そうに娘が去っていったドアを見つめていた。
廊下を走る一花の足音は、心臓の激しい鼓動と同調していた。
"夏目英舞"
自分の父親を奪った女。そして、あの朔也という少年の母親。
すべてのパズルのピースが、今、不穏な音を立てて噛み合おうとしていた。



