――そして、時は中学校三年生のある日の深夜へと進む。
外は激しい雨が窓を叩き、時折、空間を引き裂くような稲妻と雷鳴が轟いていた。
一花は、ふとトイレに目を覚ました。
枕元の時計に目をやると、針は深夜の二時を回ったところだった。
ぼんやりとした頭でベッドから抜け出し、廊下の冷たい床を踏んでトイレへと向かう。用を済ませてすっきりとした頭で、再び自分の部屋へと戻ろうとした時だった。
廊下の先、リビングのドアの足元から、微かな明かりが漏れているのが見えた。
(あれ? ママ、まだ起きてるのかな……?)
小学校の教師である母親は、いつも規則正しい生活を送っている。こんな時間まで起きているのは珍しかった。一花は音を立てないように、ゆっくりとリビングの扉へ足を運んだ。
ほんの数センチだけ開いた引き戸の隙間。そこから一花の目に飛び込んできたのは、思いもよらない光景だった。
食卓のテーブルに突っ伏し、肩を激しく震わせている母親の姿。
その細い手には、かつて三人で暮らしていた頃の、古い家族写真がくしゃくしゃになるほど強く握りしめられていた。
「う、うう……っ、ひぐ……っ」
激しい雨の音に紛れるようにして、澪は低く、押し殺したような声で嗚咽を漏らしていた。一花の前では一度だって、父親の愚痴を言わず、涙も見せず、完璧な母親として精一杯の愛を注いでくれていたあの澪が。形を失うほどに泣き崩れ、去っていった蒼士の写真を凝視して涙を流している。
一花は息を呑み、目を見開いたまま、その場で硬直した。
母親のそんな姿を目にして、一花の心は、また静かに蝕まれていった。私たちが柊の姓を名乗り、どれだけ平穏を装って生きていても、パパのいない世界はこれほどまでに不完全で、残酷なのだと突きつけられた気がした。
けれど、それと同時に。
一花の胸の奥で、何故か得体の知れない高揚感がふつふつと湧き上がってきた。
心臓がトクン、と熱く弾み、奇妙な興奮が全身の血を駆け巡る。
(ママも、私と同じ。パパに羽をもがれて、暗闇の底でもがいているのね――)
自分だけでなく、世界で一番強くて優しいはずの母親すらも、父親の不倫相手の存在によって人生を狂わされた被害者なのだ。その事実が、一花の孤独な復讐心に、正当性という名の狂った薪をくべる。
一花は込み上げてくる笑意を、自らの口元を片手で強く押さえることでどうにか抑え込み、足早にその場を離れて自室へとこもった。
激しい雷鳴が部屋の窓を白く照らす中、一花は机から、父親の書いた代表作『涙。ー羽をもがれた蝶々達ー』の単行本をひったくるように掴んだ。それを胸の前にぎゅっと握りしめ、ベッドの中へと深く身体を沈める。
天井の闇の、どこを見つめているのか分からない虚ろな目で、一花はぼーっとしながら、熱を帯びた声でぽつりと呟いた。
「パパ、ママはやっぱり寂しいって……ふふっ、私もよ」
その声は、激しい豪雨の音にかき消されて誰にも届かない。
けれど、一花の瞳の奥には、あの日公園で笑っていた少年の顔が、確かな憎しみへの心を伴って、かつてないほど鮮明に浮かび上がっていた。



