―――西日が赤く染め上げる放課後の公園。
その古びたベンチで、物語は静かに、けれど決定的な速度で動き出す。
高校生になった一花――今はその過去を捨て、母親の姓にて柊 一花と名乗る彼女は、目眩がするほど間近にある夏目 朔也の顔を見つめていた。
ドクン―――ドクン―――。
自分のものか、あるいは彼のものか。激しい心臓の音が、うるさいほどに耳の奥まで伝わり、響き渡っている。
一花は朔也の瞳から、決して目を逸らさない。まるで瞬きという行為そのものを忘れてしまったかのように、その端正な顔立ちを、網膜の裏へと冷酷に焼き付けていく。
ゆっくりと、躊躇いなく伸ばした彼女の細い指先が、朔也の柔らかな頬へと優しく添えられた。
あまりに突然の触球に、朔也は驚いたように一瞬だけ丸い目を見開く。けれど、目の前にいる一花のあまりの美しさと、その瞳に宿る吸い込まれそうな熱に圧されるように、彼は抗うことなく、ゆっくりと重い瞼を閉じていった。
受け入れられた。その確信を得た瞬間、一花の瞳孔が微かに揺れ、標的を絞り込むように鋭く開いていく。
彼女の胸の奥底では、他人に決して見せることのない、どす黒く、濁りきった感情が生き物のように蠢いていた。
(この心臓の音が、貴方に伝わってしまうんじゃないか――)
あまりの高鳴りに、思考の片隅で少しばかりの焦りが小さな灯をともす。けれど、それは決して恋のトキメキなどではない。
一花はゆっくりと自分の目を瞑り、心の中で冷たく呪文を唱えた。
(あともう少し……あともう少しよ、一花。)
閉ざされた視界の裏側で、朔也に対する底知れない軽蔑の念と、何年も温め続けてきた『復讐のステップ』が今まさに完成しようとしていることへの暗い興奮が、複雑に混ざり合って大きな渦を巻いていく。それは、ドロドロとした歪んだ感情がもたらす、至高の歓喜だった。彼のすべてを奪い、あの日の自分と同じ地獄へ引き摺り下ろすための、甘い罠の仕上げだ。
触れ合う寸前、お互いの唇の距離が、あと数ミリまで近づいたその時だった。
ブーーー、ブーーー。
無機質な、スマホのマナーモードの振動音が、静まり返った二人の空間を容赦なく引き裂いた。
ピクっと、朔也の身体が強張って動きを止める。
「あっ」
短い困惑の声を漏らしながら、朔也はハッと我に返ったように、ゆっくりと一花から身体を離した。
重ねようとした唇は虚しく空を切り、一花の指先から、彼の頬の熱がするりと逃げていく。
閉じられた瞼を開けた一花の瞳には、すでにいつもの、愛らしくて無害な少女の光が、完璧に作り直されて宿っていた。



