一花がぽつりとこぼしたそのひとことで、母の澪は全てを悟ったかのようだった。
その顔から一切の血の気が引き、持っていたおたまが床に落ちて高い音を立てた。
けれど、澪は取り乱すことなく、ただ静かに一花を抱きしめた。その腕は、痛いくらいに震えていた。
それから、家庭の崩壊は一瞬だった。
半年後、両親の離婚が成立した。
一花は母に引き取られることになり、父は家を出ていくことになった。
かつて美しい標本が並んでいた書斎で、淡々と荷造りをする父親の大きな背中を見て、一花はたまらなくなって駆け寄った。
感情の決壊だった。
一花は泣き叫びながら、その上質なコートの裾に両手で必死にしがみついた。
「お願い…行かないで、パパ! 私を置いていかないでっ!」
喉がちぎれそうなくらいに叫んだ。
けれど、パパが一花を振り返ることは二度となかった。冷徹なまでに前を向いたままの蒼士の身体が動き、一花の小さな手は、コートの裾を虚しくすり抜けて離れていってしまった。
蒼士はトランクを手に、一度もこちらを見ずに玄関を出て、迎えの車へと乗り込んだ。
「待って……!」
一花は家を飛び出し、遠ざかっていく車をふらふらしながら追いかけた。
車が容赦なくスピードを上げて走り去るのを、ただひたすら追いかけた。
途中で片方の靴が脱げ、バランスを崩して激しく転倒し、アスファルトで両膝を真っ赤に擦りむいた。
血が滲み、激痛が走る。けれどそんな痛みはどうでもよかった。
一花はすぐに立ち上がり、泥まみれになりながら、必死で足を動かし続けた。
「待ってっ! 待ってぇえっ!!」
排気ガスの向こう、遠ざかるテールランプが滲んでいく。
「私がいい子にするからっ!! 私がパパの蝶々になるからぁっ!」
ガラスケースに閉じ込められてもいい。
心臓をピンで刺されてもいい。
パパの標本になって、ずっと部屋の壁でパパだけを見て、愛されているだけでよかったのに。
「嫌っ、いかないでぇ!!!」
一花の悲痛な叫びを置き去りにして、車は曲がり角の向こうへと完全に姿を消した。
もう、追いかける足は動かなかった。
一花はその場に崩れ落ち、冷たい地面にひざまずいた。
「あ、あぁ……」と言葉にならない嗚咽が漏れる。
擦りむいた膝の痛みなどかき消されるほどの絶望のなか、灰色のアスファルトの上に、一花の大きな涙がぽたぽたと音を立てて溢れ落ち、黒い染みを作っていった。
"私の神様は、私を捨てた。あの男の子のために、私を標本にすらしてくれずに、羽をもぎ取って捨て去ったのだ"
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