馨は一花の方を見ようともせず、ただ遥か遠くに広がる街並みを見つめたまま、ぽつりと言った。
「そっちには、行けないよ」
「……え?」
一花の喉から、困惑の声が漏れる。その瞬間、二人の間を激しい突風が吹き抜けた。一花の前髪が大きく揺れ、視界が激しくブレる。
その風の中で、馨はゆっくりと立ち上がった。フェンスの向こう側、ほんの一歩で奈落へと落ちる狭い足場の上で、彼は器用にバランスを取っている。その右手には、見覚えのない一枚の白い紙が握られていた。
「……碓氷くん……?」
一花の胸に、得体の知れない不安が広がっていく。その声を無視するように、馨は手元の紙を乱暴に広げて見せた。
「俺と父親との血の繋がりは、ゼロパーセント。――これはね、その証明なんだ」
わけがわからない、というように一花は立ち尽くした。そんな彼女を置き去りにしたまま、馨はぽつりぽつりと、自分の過去を淡々と語り出し始めた。
「俺さ、母子家庭なんだよね。小さい頃、父親が俺と母さんを置いて家を出ていったんだけど……その離婚の理由がさ、俺なんだよ」
馨は自嘲気味に、どこか歪んだ笑みを浮かべる。
一花は目を見開いた。「どういう事っ……?」
「俺の顔が、父親に全然似てないからってさ。浮気相手との子供に違いないと思い込んで、父親は怒って出ていった。大人の痴話喧嘩って本当にわけわからないよね」
馨は吐き捨てるように言い、それから、胸の奥に閉じ込めていた痛みを絞り出すように声を震わせた。
「けど……俺はさ、ずっと父親の子だって信じてた。周りに何て言われようと、俺はあの人の息子なんだって、今までずっと思い込んでたんだ」
乾いた笑い声が、風に消えていく。
「なのに……本当に血が繋がってなかった。笑っちゃうよね。こんなことなら、もっと早く調べとけばよかったな……」
馨の指先に力がこもる。彼は持っていた白い紙を、怨念を晴らすかのようにビリビリと粉々に引き裂いた。
かつて一花が病室の床に落とした写真のように。バラバラになった白い紙のピースは、容赦なく吹き付ける強い風に乗って、秋の空へとひらひらと高く舞い上がり、二人の前から散り散りに消え去っていった。



