「一花。羽を傷付けられた蝶はね、その羽はもう、二度と再生することはないんだよ。それでも、残りの力を振り絞って、生きようと、飛び立とうと、必死で、もがいて抗うんだ。それは、人間が時に必死で、もがいて、それでも懸命に生きようとしている様によく似ていると思わないか?」
壁に向かったまま、蒼士は低く穏やかな声でそう言って、静かに笑った。
まだ五歳の一花には、その言葉がどういう意味なのか、父の真意や意図などまったく分からなかった。
ただ、部屋を微かに満たすインクと防虫剤の匂いの中で、大好きな父親の横顔をぼーっと見つめることしかできない。
けれど、一花は自分の見つけた感動をもう一度伝えたくて、小さな両手をいっぱいに広げた。
「それでね、パパ! とっても、綺麗だったの! とーっても!」
弾んだ声とともに、キラキラとした純粋な瞳で蒼士を見つめる。
蒼士は一花のその言葉に、肯定も否定もしなかった。
ただ、特注の重厚な木製額縁に収められた美しい蝶の標本を、新しく壁に立てかけようと、再び大きな背中を向けた。
一花はその父親の背中を、言葉もなくしばらくの間じっと見つめていた。
ガラスの向こう側で、妖しく、けれど息をのむほど鮮やかに青く輝くモルフォ蝶。
それは、死んでいるからこそ永遠に美しく、決して衰えることのない完璧な姿を保っていた。
幼い頃の一花には、父が漏らした言葉の真意などわかるはずもなかった。
ただ、ただ純粋に、父の手によって大切に、そして誰の手にも触れられないように守られている、あのガラスケースの中の蝶たちのようになりたかった。
例えそのガラスケースに冷たく閉じ込められていても。
鋭いピンで心臓を深く貫かれて、痛くてもがいて、苦しんでいたとしても。
この人ならきっと、変わらない、歪みのない絶対的な愛情を自分に注いでくれるのだろう。
幼い一花は、愚かなほどにそう信じ切っていた。
自分を変わらない優しい瞳で、けれどどこか酷薄で、それでいてひどく甘い、矛盾した温度で見つめてくれる父親が、何よりも大好きだった。



