激しい吐き気がようやく収まり、一花は深く息を吐き出した。冷水で何度も顔を洗い、震える足に力を込めて病室へと戻る。しかし、完全に閉まりきっていないドアの隙間から中を覗いた瞬間、彼女の身体は再び凍りついた。
そこには、ベッドの上で英舞を膝枕している朔也の姿があった。
高校生の男の膝に頭を乗せ、英舞はどこか遠くを見るような虚ろな表情でぽつりぽつりと話し始めた。
「ねぇ朔也ぁ……私、あの子嫌い……。あの子の瞳をみるとね……蒼士を思いだすの……嫌よ、あの子の目……怖いの……」
蒼士――。
一花の脳裏に、かつての記憶がよぎる。しかし、その思考を遮るように、朔也は膝の上の母親の髪を優しく撫で、穏やかに微笑んだ。
「母さん、そんなこと言ったらだめだよ。一花は俺にとって大切な人なんだから……」
その言葉に、英舞の瞳に焦燥感が混じる。縋り付くように朔也の顔を見上げた。
「大切……? じゃぁ朔也にとって、母さんは何? 大切じゃないの……?」
その問いを待っていたかのように、朔也の唇が歪んだ。
「もちろん、母さんは一番大切な人だよ。ずっと俺が愛してる……。愛し続けてあげるよ……」
その笑みは、いつもの優しい朔也のものではなかった。
どこか冷酷で、全てを支配しているかのような不敵な笑み。
ドアの陰で、一花は全身の毛が逆立つような激しい鳥肌を覚えた。
異様。その一言に尽きる親子の光景。
(……あぁ、そうだったんだ)
一花の中で、バラバラだったパズルが一気に組み合わさっていく。朔也が今までまともな交際をしてこなかった、彼女を作らなかった原因は、全てこの場所にあったのだ。きっと、今までの女性たちはこの異常さに耐えられず、逃げ出したに違いない。
一花の目的は復讐だった。しかし、そのターゲットであるはずの、息子の母親は完全に精神を病み、こうしてずっと病室に囚われている。目の前の朔也の本当の気持ちは、一花にはまだ読み取れなかった。一花への言葉が本心なのか、それとも狂った母親をあやすための嘘なのか。ただ一つ確かなのは、彼から放たれる、母親への異常なまでの執着だった。
「朔也ぁ…私も愛してるわ…」
英舞はゆっくりと朔也の頬を撫でた。
悍ましさと困惑が入り混じる複雑な心境の中、一花は強く拳を握りしめた。
(私は、今までの女たちとは違う。
もう、―――逃げたりなんかしない)
あの狂った母親とも、自分は絶対に違う。
一花の瞳の奥に、暗く冷たい意志の炎が激しく燃え上がっていた。



