一花の母親は、小学校で家庭科の教師をしている、穏やかで芯の強い女性だった。
一方、父親は朝霧 蒼士。
ペンネームを『朝霧 青紫』と名乗り、純文学の世界ではそこそこ名前の知られた小説家だった。
二人の出会いは大学の図書館だった。本が並ぶ静謐な空間で出会い、ひそやかに交際を重ねて結婚した。
今日に至るまで、周囲からは誰もが羨むような、平穏で仲睦まじい夫婦として時を刻んできた。
ある日のこと。
母親の澪と公園から帰った一花は、小さな足音を響かせて父親の書斎へと向かった。
重い木製のドアをそっと押し開け、机に向かう背中に向かって声を弾ませる。
「パパあのね! 公園で、可哀想な蝶々を見つけたの!」
蒼士は振り返り、眼鏡の奥の目を細めた。
机の上には、美しく手入れされたいくつかの蝶の標本。
彼はピンセットを置き、一花の目線に合わせて微笑みかけた。
「おや、一花。何故その蝶々が可哀想なんだい?」
「だって、蝶々の羽がボロボロだったの!」
一花は小さな手を一生懸命に動かした。
必死にアリを振り払い、泥を這い、それでも木の枝から空へと飛び立とうとしたあの蝶々の姿を、身ぶり手ぶりで必死に蒼士へと伝える。
その熱を帯びた言葉を、蒼士は遮ることなく静かに聞いていた。
一花の話が終わると、彼は少しの間、何かを深く企むように黙って考え込んだ。
それから、仕上がったばかりの標本の額縁を手に取り、ゆっくりと立ち上がる。
それを部屋の壁へと新しく飾りながら、蒼士は低く穏やかな声で、語りかけるように言った。



