夏の温度

 ――キスしたい。
 ぽつりとこぼれた声に驚いたのは、相手ではなく俺のほうだった。いま、なんて? なんて言った? 思わず自分で自分に問いかけてしまう。
 いくら外が暑すぎるからって、問題が難しいからって、大きな喉仏が目に入ったからって、麦茶を飲んだあとの唇が冷たそうだからって、だからって、だからって、決して声に出すべきものじゃないだろう。
 やばい。なんか言い訳しないと。早く、早く、なにか。なにか言わないと。誤魔化せなくなる。バレてしまう。俺が本当はずっと――。
「する?」
「は?」
 反射的に返した声が、麦茶のなかでバランスを崩した氷の音と重なる。いま、なんて?
「だから、キス」
 戸惑いも揶揄いもない、まっすぐな視線に言葉がなにも出てこない。パクパクと餌を求める魚にでもなったみたいに。
 見慣れた自室の真ん中、ローテーブルに広げられているのは夏休みの課題。サッカー部が休みになるお盆に思いきり遊べるようにと早めに取り掛かることにした。俺ら真面目すぎじゃない、とふたりで笑っていたのに。
「したいんでしょ?」
 もはや目の前の課題は一文字も頭に入ってこない。なんで、こんな普通なの? 俺なら「ないわ」「誰とだよ」って返して、冗談にして、でもどこかで本気だったらいいのにって期待して、でもそんなわけないって落ち込んで、それで……。
「とりあえずそっち行くわ」
 ぐるぐると考えているうちに、ノートに落ちていた影が形を変える。冗談? 本気? どっち? ドクドクと心臓の音が耳を塞ぎ、緊張と期待が勝手に膨らんでいく。
 よし、と声が落ちてきたかと思えば、トンと肩が軽くぶつかる。肩、だけじゃない。体の左側がじわりと熱を持つ。
「しないの?」
 空気を小さく揺らし、顔を覗き込まれる。揶揄われている? 俺が応えたら「なーんてな」って笑われる? それとも本当に本気だったり……する?
 そろりと視線を向ければ、見慣れた顔がきゅっと頬を上げる。そう、見慣れた、本当に嬉しいときの表情だ。胸の奥で期待がぎゅっと塊になる。それでもまだ信じてもいいのか不安は消えない。
「えっと、揶揄ってる?」
「言い出したの、そっちなのに? 揶揄われてるとしたら俺じゃない?」
 笑っているのに、声だけはどこか不安な色を見せる。
 ――同じ、だろうか。期待と不安をずっと抱えていたこと。隠し続けていたこと。諦められたらと思いながら手放せなかったこと。
 床に置いていた手が、閉じ込められる。触れている部分から熱が溶け合う。心臓がこれ以上ないくらい大きな音を立てる。聞こえないけれど、きっと相手も同じだと思った。
 微かな揺れが唇の先に触れ、呼吸が止まる。距離を消したのはどちらだったのか。柔らかな感触とともにひやりと微かな湿り気が重なる。あ、麦茶。自然と閉じてしまった瞼の裏で思い出せば、ふっと風が通る。
「……冷たかった?」
「へ?」
「俺のほうが冷えてるなって思ったから」
「それは」
 そう、だけど。いまこの状況で確かめるのそれなの? キスしたいって言っちゃったの俺だけど。順番間違えちゃってるのもわかってるけど。でも、しちゃったし。もう冗談にできないし。
「もう一回する?」
「なんで?」
 わずかに引いた体を、重なっていた手に引き留められる。
「すきだから、じゃダメ?」
「ふぇっ」
 思わず跳ねた声のあと、ふっと空気が揺れる。
「待って、なに、その声」
 堪えきれない笑いが小さな振動となって伝わってくる。
「……笑いすぎ」
「だって、なんて言ったのか、わかんないし」
 もしもいま手を繋いでいなかったら戻れたのかもしれない。いつもの、心地がいいだけの空気に。でも、まだ熱はそこにあって。夢なんかじゃなくて。もらった言葉を手放したくなんかなくて。
「――もう黙って」
 明確な意思を持って自分から距離を消した。触れたのは一瞬。それでも振動はもうない。
「なんで?」
 ぽつりと落ちてきた問いに、今度は俺が笑って答えてやる。
「すきだから、じゃダメなの?」
「……ダメじゃない」と返ってきた言葉のあと、触れた唇はもう冷たくなかった。