御伽噺にはなれない―お人好し文官と奇人魔術師の宮廷事件簿―

 そこからさらに数分歩いた先の、大きな家の前でエリアスは足を止めた。ベックと表札の出た家の扉を、エリアスが叩く。
 豪商の家の多い裕福な並びの通りだ。ベック家もそうなのだろうなと三階建ての家を見上げたところで、二階の部屋の窓辺にいる金髪の男の子に気がついた。十才にも満たない年だろうか。

 ――なんというか、すごく、かわいい子だな。

 ぼけっと見上げる自分に、向こうも気がついたらしい。にこりと笑って、少年が手を振る。幼いころに村の教会で見た、宗教画の天使のようだ。控えめに手を振り返す。

「アルドリック」

 エリアスに呼ばれ、アルドリックは慌てて扉に続く石段を上がった。

「ご、ごめん。かわいい男の子がいて……。あ、もしかして、その子が?」
「そうだ」

 小さく頷き、彼は迎えに出たメイドの老女に視線を戻した。

「一緒に上がって構わないだろうか。同郷の人間で、宮廷の事務官だ。身元はしっかりしている。子息の話し相手に良いのでは、と」
「もちろんでございます。ルカ坊ちゃまも歓迎していらっしゃるようですから」

 きっと喜ばれます、と優しい笑みを浮かべた彼女が、どうぞ、と誘う。

「坊ちゃま、魔術師さまの来訪をいつも本当に楽しみにしておいでなのですよ。どうぞよろしくお願いいたします。そちらさまも」

 穏やかであたたかな笑みが祖母と似ていて、なんだか少し懐かしい。
 ゆっくりと階段を上る彼女を追いながら、アルドリックはエリアスにそっと話しかけた。

「その、ルカ坊ちゃまという子が、例の? すごくかわいい子なんだね」
「生まれつき胸が悪いらしい。十まで生きられないだろうという診断で、ほとんどずっと二階の部屋で暮らしているそうだ」
「……そうなんだ」

 神妙に頷き、口を噤む。もう、部屋の前だ。
 坊ちゃま、という柔らかな呼び声とともにメイドが扉を叩く。

「魔術師さまがいらっしゃいましたよ。今日はご友人の方もご一緒だそうです。お招きしてもよろしいですか」
「もちろん!」

 子どもらしい元気な声に、彼女の目尻に優しいしわが生まれる。職務としてだけでなく、彼を可愛がっているのだろう。
 開いた扉の先、明るい日差しが注ぐ、きれいな部屋の窓際。大きなベッドに座っていた子どもが、きらきらとした笑顔を向けた。

「魔術師さま!」

 エリアスに懐いているんだなぁ、と。ほほえましい気分で彼を見つめる。
 まぁ、でも、たしかに。自分が小さかったころを顧みても、王都で評判の天才魔術師が現れたら喜んだに違いない。

「今日はどんなお話を聞かせてくれるの? ねぇ、欲しいものってなにかある?」
「ないと言っているだろう。そもそも、なんでも買ってやるというが、それはおまえの金じゃない。おまえの親の金だ」
「ちょ、ちょっと」

 勝手にほほえましい気分に浸っていただけに、落差がひどい。アルドリックは思わずエリアスの袖を引いたが、メイドの彼女も少年も気を悪くした様子はない。
 もしやこれがいつもの光景なのだろうか。いろいろな意味でドキドキとしていると、少年の宝石のような緑の瞳がアルドリックを捉えた。

「誰?」
「あ、ええと、……魔術師殿の友達でね。今日は、きみを紹介してもらいに来たんだ。アルドリックと言います。一緒にお話をさせてもらってもよかったかな」
「もちろん。僕はルカ。ルカ・ベック。八才だよ。――あ、僕のこと、坊ちゃまって呼ばないでね。友達なんだから、ルカって呼んで」
「うん、じゃあ、ルカくん。よろしくね」

 腰をかがめて笑いかけると、少年――ルカが満足そうに頷く。無邪気な笑みだった。

「じゃあ、ありがとう、ハンナ。またあとでお菓子とお茶を持ってきてね」
「もちろんでございますとも」

 少年が背中を預ける枕の位置を調整した彼女が、柔らかそうなブランケットを小さな肩にかける。

「あまり興奮されないようにだけ、気をつけてくださいね。坊ちゃまになにかあれば、ハンナも悲しゅうございます」
「わかってるよ」

 困ったように眉を下げ、ルカはほほえんだ。
 それでは、よろしくお願いいたします、と自分たちにも頭を下げ、彼女は部屋を後にした。閉まった扉を見つめていた少年がかたをすくめる。

「心配性なんだ」
「ルカくん」
「でも、気にしないで。僕の身体のことは僕が一番わかってるから。ねぇ、魔術師さま。このあいだの話の続き」

 フレグラントルに行った話、というおねだりに、「え」とアルドリックは目を輝かせた。

「フレグラントル!? きみ、フレグラントルにも行ったことあったんだ? あの魔術大国に」
「アルドリック、知らなかったの? 緑の大魔術師さまにも会ったことがあるんだって」
「ええ、すごいなぁ。憧れるよねぇ」
「うん、僕も。だから、魔術師さまのお話聞くの大好きなんだ」
「ねぇ、いいよねぇ」
「なぜ、おまえが興奮しているんだ」

 エリアスが呆れたように言いながら、慣れた様子で椅子をふたつベッドのそばに置く。かたちばかり「ごめん」と頭を下げて、アルドリックはありがたくひとつに腰を下ろした。

「いや、だって、やっぱり、いくつになっても憧れがあるんだよ」

 魔術学院でとんでもない面を見てしまったけれど、それでも。ねぇ、と笑い合う自分たちになんとも言えない視線を向けたものの、エリアスはゆっくりと話し始めた。ルカが望んだフレグラントルの話だ。
 彼らしい淡々とした語り口であるものの、平易な言葉を選び、ルカの質問にもきちんとすべて答えている。
 緑の大魔術師の下りで盛り上がってしまった自分には、いささか呆れた顔をしていたが。

「ねぇ、知ってる? アルドリック。魔術師さま、ハンナの作る甘いお菓子が大好きなんだよ」
「そうなんだ」

 たしかにすごくおいしいよね、と。宝石のようなジャムの乗ったクッキーを摘まむ。エリアスの反応はなかったが、もくもくと食べる顔を見れば、一目瞭然というやつだ。
 その後も少年と同じくらいの熱量でエリアスの話を楽しみ、時計の長い針が一周したところで部屋を辞することになった。元気に見えても、ルカの頬は青白い。訪問は一時間が限度なのだろう。
 理解しているらしいルカは、引き留めることなく「またね」と笑顔で手を振った。その笑顔はかわいく健気で、だからこそ胸が痛かった。
 窓越しににこにこと笑うルカに手を振り返し、エリアスを見上げる。

「今日はありがとう」
「付き合わせたのは俺だ」
「いや、でも、その……付き合わせてくれて」

 たしかに、少しおかしなことを言っている。自覚はあったものの、アルドリックは言い募った。付き合わせてもらえてよかったと本当に思っているのだ。
 夏の光を受けた銀色の髪が、きらきらときらめている。あいかわらず、きれいだなぁ、なんて。
 とりとめのないことを考えたまま、アルドリックは彼に笑いかけた。無性に、そうしたかったのだ。

「僕が休みの日、また同行してもいいかな」