御伽噺にはなれない―お人好し文官と奇人魔術師の宮廷事件簿―

「おや、アルドリック。きみ、今日は早帰りだったのでは?」
「バナードさん」

 この角を曲がれば文書課というところで行き合った相手に、アルドリックは笑顔をつくった。
 自分と同じこげ茶の髪に、怜悧な印象を放つ銀縁の眼鏡。ひょろりと背の高い相手を見上げ、戻った理由を釈明する。

「そのつもりだったのですが、クレイさんに渡したいものがあって。クレイさん、席に戻っていらっしゃいますか」
「彼女なら席を外していましたが。代わりに渡しておきましょうか」
「ありがとうございます。でも、落とし物なので。違っていたら申し訳ないですし、僕のほうで確認してみます」
「そうですか」

 思案するように顎に手を当てたバナードが、腕時計に目を落とした。ちらりと見えた文字盤は十四時五十五分を指している。

「この時間なら、彼女は給湯室にいるかもしれません」
「え?」
「構わないと言っているのに、私の仕事の補佐をしているからと、いつも紅茶を用意してくれるんですよ。本当に構わないんですけどね」
「そうなんですね」

 二回も「構わない」と言ったことが、無駄を嫌う彼らしくなく、照れているようで新鮮だ。彼のような人でも、彼女の親切はこそばゆいのだろうか。
 意外な一面にほっこりとした気分で、にこりとほほえむ。なんとか三度目の正直にもなりそうだ。

「顔を出してみます。教えていただいてありがとうございました」

 では、と見慣れた鉄仮面で片手を上げて応えたバナードに会釈をし、エリアスに声をかける。

「じゃあ、最後。給湯室に行ってみようか。もし会えなかったら、明日の朝、聞いてみることにするよ」
「……はじめからそうすればよかったのではないか?」
「いや、だって、なくなったことに気づいたらびっくりするだろ? できる限り早いうちに返してあげないと」

 付き合わせたことは悪かったと思っているものの、それはそれだ。言い切って、アルドリックは足を速めた。
 辿り着いた給湯室の入り口のカーテンを、ひょいとかき分ける。人影はひとつ。背中で揺れる金色のポニーテルは、間違いなくクレイのものだ。

「あ、いた、いた。クレイさ――」
「ア、アルドリックさん!?」

 呼びかけに、スカートのポケットを漁っていた彼女の肩が大きく跳ねる。
 振り向いた真っ赤な顔に、アルドリックは「えっと……」と戸惑った笑みを刻んだ。

「すみません、驚かせてしまったみたいで」
「あ、いえ、こちらこそ。過剰に反応してしまって。まだお帰りになってなかったんですね」
「えっと、これ」

 眉を下げたまま、小さな瓶を取り出す。丸くなった瞳は、彼女の持ち物であることを示していて。よかった、とアルドリックは頬を緩めた。

「やっぱり、クレイさんのだったんだね。書類をお願いしたあとに、足もとに落ちていることに気がついて」
「あ、……ありがとうございます」

 スカートのポケットを漁っていたのは、小瓶を探してのことだったのかもしれない。差し出した小瓶を、彼女は両手で握りしめた。

「気に入っていた香水だったんです」
「そうなんだ」

 彼女の背後の台には、トレイに乗ったティーカップがある。
 香水じゃないよね、と指摘するべきなのだろうか。悩んだものの、アルドリックは「よかった」と笑うことを選んだ。忍びなかったのである。

 ――褒められたことではないけど、でも、もう使わないかもしれないし。

 こういうものは、一度「待った」が入ると、冷静に返るものだ。
 それに、「眠り姫の毒」の騒動以降。流しの魔術師に対する抜き打ち検査が増えたことはエミールから聞き及んでいる。
 おそらくは、気の持ちよう程度の効果しかない薬だろう。無論、エリアスが言うように、粗悪品を引く可能性はあるだろうが。