君の心が聴けた日を記念日としよう

 あの人が出て行ってから数日後、慎太郎は突然、野球部を退部した。もちろん私の介護に集中するためだろう。しかし学校を辞めるわけにはいかないので彼なりに考えた結果、介護ヘルパーを朝昼晩の3回で契約したそうだ。さらにバイトも始めたみたいだ。

慎太郎は私のために自分のやりたいことを諦めて、介護に尽くしてくれていた。あの人も最初はそうだった。もちろんありがたいとは思ってるし、申し訳ないとも思ってる。ただ一度裏切られたからこそ、またやられるのではという不安もあった。いっそ嫌われることができれば楽なんじゃないかという思いもあった。

いつしかそんな不安な気持ちがストレスへと変わり、それを慎太郎にぶつけるようになっていた。

「ただいまー遅くなったー」
「……」
「今日はどうだった?なんともない?」
「あぁ。あんたがいる時の何倍もマシだったよ」
「そう」

母に悪態をつかれるようになってから、数ヶ月。最初こそストレスに感じていたが、いつの間にかそれが日常となり何も感じなくなっていた。

「ねぇ。トイレの時間なんだけど」
「え?あ、ごめん」

真由子ははぁーっと深く長いため息をわざとついた。

「もっと丁寧に扱ってよ!」
「はい」

別に雑に扱われているわけではない。むしろ丁寧すぎるぐらいだ。だがこうやって文句を言うことによって自分のストレスを解消していた。

ーーそんなある日。

「なぁ。なんでそんな態度しかできないの?」

しびれを切らした息子が単刀直入に聞いてきた。突然の質問に少し驚いた。本当のことを言ってやろうかとも思ったが、そうすればきっと息子はもっと自分を責めることになる。言えなかった。

「なんかもっとあるじゃん。父さんにはそんなじゃなかったし」

申し訳なさそうに話す息子の姿を見ると心が痛い。

「父さんはずっと私のことを考えてくれてたのよ。私が家に帰ってきてからね」

慎太郎は少し俯いた、

「でもあんたは違うじゃない。最初は自分を優先してた…!本当は私のことどうでもいいんでしょ?!」

徐々に口調がヒートアップしていく。

「そんな、俺だってちゃんと母さんを…」
「あーいいのいいのそう言う口だけのやつは。もう聞き飽きたわ」
「なんだよそれ!俺だって一生懸命やってんのにだいたい1人じゃ何にもできないくせに!本当の母さんじゃないのにここまでやってんだから感謝ぐらいしろよ!」

慎太郎は我に返り、とんでもないことを言ってしまったと後悔した。

「ふん。それが本心でしょ?聞けて良かったわ。あんたはそう思ってたのね」
「いや、ちがっ…」

口に出してしまったんだ。このあとどう弁解しようと慎太郎の発する言葉に力はなかった。


ーー時は現在に戻る。

嫌なことを思い出した。慎太郎にあんなこと言われたっけ。もちろん本心じゃないのはわかってる。いつか素直に話せる日が来たらいいなと思う。


翌日。

いつもはおはようと言ってくれる慎太郎だが、今日はその言葉がなかった。昨日のことが相当堪えているのだろうか。1度も目すら合わなかった。

今日は土曜日。慎太郎が一日中家にいる中でこの雰囲気は流石に居心地が悪い上にバツが悪い。

その日1日全く会話がなかった。それどころか慎太郎は珍しくずっと部屋に籠り、出てくることがほとんどなかった。

もうすぐ夜のトイレの時間だ。出てきてくれないと困る。気が乗らないが真由子は呼び出しボタンを押した。

ーーピーンポーン。呼んでいます。

慎太郎の部屋のランプが光る。

チッと舌打ちをしながら扉を勢いよく開ける。

「なに?」
「トイレの時間なんだけど」
「あぁそう」

慎太郎とした今日最初の会話だった。いつもの優しさが感じられない。そりゃそうかあんなこと言われたら嫌にもなるか。

 真由子はトイレを済ませ、慎太郎にされるがまま、ベッドへと戻される。

「じゃあもう俺部屋から出ないから。必要以上に呼ばないでね」

そう言うと慎太郎はリビングの電気をいきなり消し、自分の部屋へと戻って行った。

寝ろってことか。今日はしょうがないか。
真由子は目を閉じ、眠りについた。

 真由子が深い眠りについた頃、慎太郎の部屋にはまだ電気が灯っていた。

慎太郎はベッドに寝転がりながら考え事をしていた。

昨日、母に全てを否定されてから今までギリギリのところで耐えてきた何かが一気に崩れるような感覚があった。
何のために自分のやりたいことを諦めたんだろうか、何のために自分の人生を犠牲にしてまで母に尽くそうとしたのか。考えれば考えるほどわからなくなってくる。

誰にも言えない。言えばまた母さんに何を言われるかわからないし、言ったってどうせ助けてくれる人はいない。ひとりぼっちの慎太郎に厳しい現実が襲いかかる。どうしたら楽になるだろうか。どうやったらまた自分自身が楽しい人生を送れるようになるんだろうか。

気づいた時には台所の包丁に手を伸ばし、リビングへと向かっていた。