ーーミーンミンミンミン…
部屋の外ではセミが鳴いている。毎朝セミの鳴き声が起床の合図になっている。まるで目覚ましのようで気分が悪い。
夏は嫌いだ。暑いし、汗をかくし、虫も出てくるし。良いことなんて一つもない。何より夏になるとあの時のことを思い出してしまう。
「じゃあ学校に行きますので、今日も一日中すみませんがよろしくお願いします。暑さには気をつけて、冷房は好きに使ってください
「はい。お任せください。慎太郎さんも気をつけてください」
鞄を背負い、ドアノブに手をかける。熱い。そして暑い。ここ最近は外が暑過ぎてドアノブに触っただけで外がどれだけ暑いかわかるようになった。もう夏も終わりに近づいてきたとニュースでは言っていたのに今日も気温は朝から30度を超えている。
家から最寄り駅までは少し歩く。ほんの少しだが夏は本当にこれがしんどい。なるべく汗をかかないようにゆっくりと進み、電線や電柱のわずかな日陰を利用しながら歩いていく。
きゃっ、きゃっ!
近所の公園では朝から小さな子供たちがお母さんと水遊びをしている。普通なら涼しそう、楽しそうと微笑ましく映るその光景は慎太郎にはそうは映らなかった。家族と仲良く公園。そんな日常が羨ましく思えていた。
駅につき、電車に乗り込むと冷房が直接当たるところを選んで椅子に座り、目を瞑る。この時間が好きだ。誰にも邪魔されない唯一の1人の時間。イヤホンで周りの音をシャットアウトし、自分だけの世界に入り込む。例え眠ってしまったとしても学校の最寄駅は終点だから駅員が起こしてくれる。
「お客さん。下りてください。終点ですよ」
ほらね。
「あ、はい。すみません」
寝ぼけた状態でふらふらと歩き電車を降りる。
そういえば、今何時だろうか。朝起きてから時計を見ていなかった。
ポケットからスマホ取り出し画面に映った時間見て驚愕する。
「8時40分…あぁ今日も遅刻や」
慎太郎は遅刻常習犯だった。最初こそ焦っていたが、いつからかそんな姿も無くなっていた。慣れとは怖いものだ。
もういいや、諦めよう。
駅の真横にあるスーパーでパンを買い、それを食べながら学校へと向かう。
時刻は9時。もうここまで遅れたら生活指導のうるさいおっさんもきっと学校の中に入ってる。そんな余裕ない気持ちは一瞬にして砕け散る。
「おい立石!また遅刻か!」
「うわ、まじかよ」
生活指導の谷口が玄関の前で仁王立ちをして待っていた。
「お前しかも遅刻した上で朝飯買ってきてんだろ!」
「なんでわかったんすか?!」
「いや…」
パンの袋を指さされ、あ、そっかと納得する。
「じゃ、教室に向かうんで」
「おう…ちょっと待て」
「何すか?もう授業始まっちゃいますよ?早く行かせてくださいよ」
「それが遅刻してきた奴の言い草か」
カバンを掴まれ行手を阻まれる。
「うわ!体罰だ!」
「やかましい!反省文書いてけ。これが書き終わるまでは教室へは行かせん」
A4用紙1枚。遅刻をするたびにこの紙に遅刻をした理由と申しませんという宣言を書いている。まぁ守ったことはないが。
「毎朝何だってんだ。もっと早く起きれないのか?」
「起きてますよ」
「じゃなんで遅刻するんだ」
「…なんか色々やってたら時間なくなるんすよねー」
「ふざけてんのか」
「そんなことないっすよ」
「お前もう高3だろ?そろそろ進路も関わってくるのに…」
はぁ…と大きなため息をつき呆れる谷口に慎太郎は反省用紙を突き出す。
「たにやん!書けたよ!これでいつもの通り許してくれ!じゃあな」
逃げるようにその場を去っていく。
「あ!まだ終わってねぇぞ!」
「じゃまた明日なー!」
「ちっ…あいつ全く反省してねぇ」
教室の扉を音が鳴らないようにゆっくりと開く。やはりすでに授業は始まっていた。
先生が板書のために黒板側を向いた瞬間、自分の座席へと走り出す。
「はい。おはようさん」
「ぎゃー!バレた!」
「始めからいないんだから途中で人数が増えたらバレるに決まってんだろ」
クラスメイトからはまた遅刻かよー!今日の言い訳はなんだー?とヤジが飛んでくる。
「今日はなんだ?」
「え?遅刻です」
「そうじゃねぇよ。理由を聞いてんだ!」
「うーんっと…桜を見てました」
教室は笑いに包まれる。
「…夏だぞ?どうせ寝坊だろ?もっと早く行動しろよ」
「あ!それさっきたにやんからも言われた」
「みんな思ってんだよ。もういいよ座れ」
席について5分ほど経った頃。慎太郎の意識は遠のいていき、机に突っ伏して眠りについていた。
9回ツーアウト。ランナーは満塁。マウンド上には慎太郎。甲子園優勝がかかった大一番。
「…ピッチャー第1球投げました。打ち上げた!ショートが手を挙げる!打球が落ちてきて今捕りました!優勝!優勝です!」
グラウンドにいた野手、ベンチにいた選手が一斉にマウンドに集まってくる。全員が人差し指を天に向け喜びを全身で表現する。
「慎太郎!ナイスピッチング!」
「慎太郎すごかったぞ!」
「さすがうちのエースだ!」
「慎太郎!慎太郎!…………太郎!慎太郎!」
「んぁ…?なに…?咲希じゃん」
慎太郎は目を擦りながら咲希の顔を見上げる。
「あんたまた寝坊したんでしょ?」
「うっさいな。関係ないだろ?わざわざ違うクラスから起こしに来んなよ」
「起こしなんなよじゃないわよ。今何時だと思ってんの?」
「え?1時間目が…」
時計はすでに12時を回っていた。
「え?!お昼休みだ!」
「だからわざわざ起こしに来てあげたんでしょ?」
「いやぁさすが俺の幼馴染。わかってんなぁ」
「また調子のいいこと言って」
咲希は少し嬉しそうにした。
慎太郎と咲希は小さい頃からの幼馴染。小、中、高と同じ道を歩んできた。家族絡みでも仲が良く2人が大きくなってからは無くなってしまったが、小さい頃は毎年旅行にも行っていたほどだ。家も近所にあり、お互い気の知れた仲である。
慎太郎はカバンの中を漁り、持ってきた弁当を机の上に広げた。
「また惣菜屋さんのお弁当?」
「まぁね」
「そんなんじゃ身体壊すよ?」
「大丈夫だよ。若いもん」
咲希は小さくため息をついた。
「今までずっと真由子おばさんのお弁当だったでしょ?それはどうしたの?」
「作るのめんどくさくなったんじゃないかな?」
「えー?そんな人じゃないでしょ?」
慎太郎の目は少し泳いでいた
「何かあったの?」
「え?」
突然の質問に少し驚いた。
「何かって?」
「ほら、最近遅刻気味だし、お弁当も手作りじゃなくてお惣菜コーナーに置いてあるようなやつだし。野球もやめちゃったし…」
少し心配そうにこっちを見ている。
「あぁ大丈夫だよ。なんともない」
慎太郎は咲希の目を見ずに下を見たままそう答えた。それに対し、咲希はふーんとは言いつつも納得はしていない様子だった。
一方その頃、職員室では慎太郎の担任の前原と生活指導の谷口が話し合いをしていた。
「立石の遅刻癖は全く治りませんね」
「今日もこんな感じでてきとうに流されて逃げられました」
谷口は前原に反省文を見せる。
「まぁ反省文というか…もはや書けば良いんでしょレベルですね…」
「前原先生から見て立石はどうですか?」
前原はうーんと深く唸ったあと天井を見つめながら話し始めた。
「あいつがこんなふうになり始めたのは去年のこの時期でしたね。それまでは部活も頑張ってて成績も良好。今みたいに感情が表に出やすいタイプでしたけど、学校の中でも見本となる生徒でした」
谷口はうんうんと深く頷く。
「ただ、部活を突然やめてそこからでしたね。最初は何かあったのかと思って心配して色々話しかけてたんですけど、なんでもないの一点張りで。何もないくせに生活態度は悪くなり成績も落ちた…ただ性格はかなり明るくなりましたね」
「そう!そこだよな。別に悪い奴らとつるんでるわけではなさそうなんだよな。高校2年生の中だるみにしてはたるみ過ぎている。何もないは嘘だと思うけど本人が話さない以上どうもできないしな」
「はい…」
慎太郎の変わりようは担任や生活指導の先生も手がつけられないほどだった。
6時間目が終わり、ショートホームルームへと移行する。
「じゃあ特に連絡事項もないから、明日も元気な姿で会いましょう。さようなら」
「さようならー」
生徒たちが一斉に立ち上がり、出入り口へと密集する。その1番先頭は慎太郎だった。
「あ、立石!」
「なんすか?」
呼び止めた頃にはもうすでに廊下へと飛び出していた。
「ちょっと話があるんだけど」
「どんぐらい話します?時間ないんで今度にしてもらえますか?じゃ!」
質問してきたくせに答えを聞く前に去って行った。
逃げるように颯爽と学校を後にした慎太郎は、すでに電車に揺られていた。
帰りも行きと同じく、冷房が直接当たる席を選んで座って目を瞑る
目が覚めた頃には、すでに最寄駅だった。
昼間より少し気温が下がり、風が心地よく吹いている。
「こんちわー」
「あら慎太郎くん。今日もシフト入ってたの?」
「はい。生活費働かなきゃいけないので」
「あら、そうなの?なになに彼女にプレゼントでもするの?」
「あはは…まぁそんなところです」
「うわぁ!いいわね!じゃあ頑張らなきゃね!」
慎太郎は放課後、近所の小さなお弁当屋さんで2時間ほどアルバイトをしていた。土日祝以外全ての曜日でシフトに入り、お金を稼いでは余った弁当をもらい、次の日の昼ごはんなどに当てていた。
「ありがとうございましたー」
閉店間際、おそらく今日最後であろう客を見送り、深々とお辞儀をする。
「慎太郎くん、今日はもう上がっちゃいな」
「え、でもまだ閉店作業が」
「良いのよたまには。ほぼ毎日シフトに入ってもらってるし」
「…じゃあお言葉に甘えて」
「うん!あとこれ!余ったお弁当持っていきなさい」
「あぁ…いつもほんとありがとうございます。助かってます」
「食べ盛りだからね!これで元気出して!あしたからもよろしくね」
更衣室へ入りふぅーっとため息をつく。昼間に学校であれだけ友達と盛り上がっていた慎太郎とはまるで別人のようだった。笑顔が消え、これから家に帰るというのに地獄に行くかのような表情をした自分が鏡に映っていた。
足取りは重く、前に進んでいる気がしない。地面から誰かに引っ張られているようだった。いやむしろ引っ張って行って欲しいかもしれない。そのままどこかへ連れて行ってくれるのならばそうして欲しい。
「ただいまー」
鞄を自分の部屋に置き、リビングへと向かう。
「母さん、体調は?」
「別に」
「そっか。ならいいや」
ーーピンポーン。呼んでいます。
「何?ブザー鳴らした?」
「これ」
「これって何?」
「これだろうがよ!」
空になったペットボトルを震える手で指差す。
「あぁ…中身ね。こんなの言ってくれなきゃわかんないって」
「1回ここに来てるんだから確認しろよ」
寝たきりのくせに言葉遣いが悪く傲慢。
「はい、どうぞ」
「ヘルパーの方が気が利いていいわ」
「そうかいそうかい」
と、てきとうに流しながら洗濯機のスイッチを入れる。
母の言うことにいちいち耳を傾けていたらキリがない。本気で受け止めていたらストレスで今頃死んでいただろうなと思う。
ーーピンポーン。呼んでいます。
またかよ。1回で用事を済ませてくれればいいものをわざわざ複数回に分けてしつこく呼びやがって。嫌がらせかよ。
「はいはい」
「トイレの時間」
「はいよ」
母をベッドから起こし、車椅子に乗せる。
毎度毎度トイレのたびに20分も30分も取られてこっちとしてはたまったもんじゃない。
「マッサージして」
母のお腹をのの字にさすっていき、腸を刺激する。ほんと、人の排便見てなきゃいけないこっちの気持ちにもなって欲しいもんだ。
排便を済ませ再び母をベッドへ戻し、ようやく自分のベッドに寝転がることができた。こんなことを始めてからもう1年。そのうち慣れるだろうと思っていた生活には全く慣れることなく、ただ疲れを蓄積していくだけだった。
ーーヤングケアラー。
本来は大人が担うと想定されるような家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを日常的に行っている、子どもや若者のことを言う。
慎太郎はそう呼ばれる部類の人間だ。
慎太郎が高校2年生の時、母は交通事故にあった。一命を取り留めたものの、頸髄損傷、レベルはC5。
下半身が完全に麻痺し、手先にも力が入らなくなってしまっていた。腕は動くためスプーンなどを手に巻き付ければ食事は可能だが、排便を1人ですることができなくなっていた。
下半身の感覚がないため尿意や便意を感じることができない。そのため、一定の時間になるとトイレへ連れて行き排便を促す行為が必要になる。
父親はいない。頼れる親族もいない。
学校では元気を振りまいている慎太郎は、家では学業と両立しながらたった1人で母親を支えているヤングケアラーだった。
部屋の外ではセミが鳴いている。毎朝セミの鳴き声が起床の合図になっている。まるで目覚ましのようで気分が悪い。
夏は嫌いだ。暑いし、汗をかくし、虫も出てくるし。良いことなんて一つもない。何より夏になるとあの時のことを思い出してしまう。
「じゃあ学校に行きますので、今日も一日中すみませんがよろしくお願いします。暑さには気をつけて、冷房は好きに使ってください
「はい。お任せください。慎太郎さんも気をつけてください」
鞄を背負い、ドアノブに手をかける。熱い。そして暑い。ここ最近は外が暑過ぎてドアノブに触っただけで外がどれだけ暑いかわかるようになった。もう夏も終わりに近づいてきたとニュースでは言っていたのに今日も気温は朝から30度を超えている。
家から最寄り駅までは少し歩く。ほんの少しだが夏は本当にこれがしんどい。なるべく汗をかかないようにゆっくりと進み、電線や電柱のわずかな日陰を利用しながら歩いていく。
きゃっ、きゃっ!
近所の公園では朝から小さな子供たちがお母さんと水遊びをしている。普通なら涼しそう、楽しそうと微笑ましく映るその光景は慎太郎にはそうは映らなかった。家族と仲良く公園。そんな日常が羨ましく思えていた。
駅につき、電車に乗り込むと冷房が直接当たるところを選んで椅子に座り、目を瞑る。この時間が好きだ。誰にも邪魔されない唯一の1人の時間。イヤホンで周りの音をシャットアウトし、自分だけの世界に入り込む。例え眠ってしまったとしても学校の最寄駅は終点だから駅員が起こしてくれる。
「お客さん。下りてください。終点ですよ」
ほらね。
「あ、はい。すみません」
寝ぼけた状態でふらふらと歩き電車を降りる。
そういえば、今何時だろうか。朝起きてから時計を見ていなかった。
ポケットからスマホ取り出し画面に映った時間見て驚愕する。
「8時40分…あぁ今日も遅刻や」
慎太郎は遅刻常習犯だった。最初こそ焦っていたが、いつからかそんな姿も無くなっていた。慣れとは怖いものだ。
もういいや、諦めよう。
駅の真横にあるスーパーでパンを買い、それを食べながら学校へと向かう。
時刻は9時。もうここまで遅れたら生活指導のうるさいおっさんもきっと学校の中に入ってる。そんな余裕ない気持ちは一瞬にして砕け散る。
「おい立石!また遅刻か!」
「うわ、まじかよ」
生活指導の谷口が玄関の前で仁王立ちをして待っていた。
「お前しかも遅刻した上で朝飯買ってきてんだろ!」
「なんでわかったんすか?!」
「いや…」
パンの袋を指さされ、あ、そっかと納得する。
「じゃ、教室に向かうんで」
「おう…ちょっと待て」
「何すか?もう授業始まっちゃいますよ?早く行かせてくださいよ」
「それが遅刻してきた奴の言い草か」
カバンを掴まれ行手を阻まれる。
「うわ!体罰だ!」
「やかましい!反省文書いてけ。これが書き終わるまでは教室へは行かせん」
A4用紙1枚。遅刻をするたびにこの紙に遅刻をした理由と申しませんという宣言を書いている。まぁ守ったことはないが。
「毎朝何だってんだ。もっと早く起きれないのか?」
「起きてますよ」
「じゃなんで遅刻するんだ」
「…なんか色々やってたら時間なくなるんすよねー」
「ふざけてんのか」
「そんなことないっすよ」
「お前もう高3だろ?そろそろ進路も関わってくるのに…」
はぁ…と大きなため息をつき呆れる谷口に慎太郎は反省用紙を突き出す。
「たにやん!書けたよ!これでいつもの通り許してくれ!じゃあな」
逃げるようにその場を去っていく。
「あ!まだ終わってねぇぞ!」
「じゃまた明日なー!」
「ちっ…あいつ全く反省してねぇ」
教室の扉を音が鳴らないようにゆっくりと開く。やはりすでに授業は始まっていた。
先生が板書のために黒板側を向いた瞬間、自分の座席へと走り出す。
「はい。おはようさん」
「ぎゃー!バレた!」
「始めからいないんだから途中で人数が増えたらバレるに決まってんだろ」
クラスメイトからはまた遅刻かよー!今日の言い訳はなんだー?とヤジが飛んでくる。
「今日はなんだ?」
「え?遅刻です」
「そうじゃねぇよ。理由を聞いてんだ!」
「うーんっと…桜を見てました」
教室は笑いに包まれる。
「…夏だぞ?どうせ寝坊だろ?もっと早く行動しろよ」
「あ!それさっきたにやんからも言われた」
「みんな思ってんだよ。もういいよ座れ」
席について5分ほど経った頃。慎太郎の意識は遠のいていき、机に突っ伏して眠りについていた。
9回ツーアウト。ランナーは満塁。マウンド上には慎太郎。甲子園優勝がかかった大一番。
「…ピッチャー第1球投げました。打ち上げた!ショートが手を挙げる!打球が落ちてきて今捕りました!優勝!優勝です!」
グラウンドにいた野手、ベンチにいた選手が一斉にマウンドに集まってくる。全員が人差し指を天に向け喜びを全身で表現する。
「慎太郎!ナイスピッチング!」
「慎太郎すごかったぞ!」
「さすがうちのエースだ!」
「慎太郎!慎太郎!…………太郎!慎太郎!」
「んぁ…?なに…?咲希じゃん」
慎太郎は目を擦りながら咲希の顔を見上げる。
「あんたまた寝坊したんでしょ?」
「うっさいな。関係ないだろ?わざわざ違うクラスから起こしに来んなよ」
「起こしなんなよじゃないわよ。今何時だと思ってんの?」
「え?1時間目が…」
時計はすでに12時を回っていた。
「え?!お昼休みだ!」
「だからわざわざ起こしに来てあげたんでしょ?」
「いやぁさすが俺の幼馴染。わかってんなぁ」
「また調子のいいこと言って」
咲希は少し嬉しそうにした。
慎太郎と咲希は小さい頃からの幼馴染。小、中、高と同じ道を歩んできた。家族絡みでも仲が良く2人が大きくなってからは無くなってしまったが、小さい頃は毎年旅行にも行っていたほどだ。家も近所にあり、お互い気の知れた仲である。
慎太郎はカバンの中を漁り、持ってきた弁当を机の上に広げた。
「また惣菜屋さんのお弁当?」
「まぁね」
「そんなんじゃ身体壊すよ?」
「大丈夫だよ。若いもん」
咲希は小さくため息をついた。
「今までずっと真由子おばさんのお弁当だったでしょ?それはどうしたの?」
「作るのめんどくさくなったんじゃないかな?」
「えー?そんな人じゃないでしょ?」
慎太郎の目は少し泳いでいた
「何かあったの?」
「え?」
突然の質問に少し驚いた。
「何かって?」
「ほら、最近遅刻気味だし、お弁当も手作りじゃなくてお惣菜コーナーに置いてあるようなやつだし。野球もやめちゃったし…」
少し心配そうにこっちを見ている。
「あぁ大丈夫だよ。なんともない」
慎太郎は咲希の目を見ずに下を見たままそう答えた。それに対し、咲希はふーんとは言いつつも納得はしていない様子だった。
一方その頃、職員室では慎太郎の担任の前原と生活指導の谷口が話し合いをしていた。
「立石の遅刻癖は全く治りませんね」
「今日もこんな感じでてきとうに流されて逃げられました」
谷口は前原に反省文を見せる。
「まぁ反省文というか…もはや書けば良いんでしょレベルですね…」
「前原先生から見て立石はどうですか?」
前原はうーんと深く唸ったあと天井を見つめながら話し始めた。
「あいつがこんなふうになり始めたのは去年のこの時期でしたね。それまでは部活も頑張ってて成績も良好。今みたいに感情が表に出やすいタイプでしたけど、学校の中でも見本となる生徒でした」
谷口はうんうんと深く頷く。
「ただ、部活を突然やめてそこからでしたね。最初は何かあったのかと思って心配して色々話しかけてたんですけど、なんでもないの一点張りで。何もないくせに生活態度は悪くなり成績も落ちた…ただ性格はかなり明るくなりましたね」
「そう!そこだよな。別に悪い奴らとつるんでるわけではなさそうなんだよな。高校2年生の中だるみにしてはたるみ過ぎている。何もないは嘘だと思うけど本人が話さない以上どうもできないしな」
「はい…」
慎太郎の変わりようは担任や生活指導の先生も手がつけられないほどだった。
6時間目が終わり、ショートホームルームへと移行する。
「じゃあ特に連絡事項もないから、明日も元気な姿で会いましょう。さようなら」
「さようならー」
生徒たちが一斉に立ち上がり、出入り口へと密集する。その1番先頭は慎太郎だった。
「あ、立石!」
「なんすか?」
呼び止めた頃にはもうすでに廊下へと飛び出していた。
「ちょっと話があるんだけど」
「どんぐらい話します?時間ないんで今度にしてもらえますか?じゃ!」
質問してきたくせに答えを聞く前に去って行った。
逃げるように颯爽と学校を後にした慎太郎は、すでに電車に揺られていた。
帰りも行きと同じく、冷房が直接当たる席を選んで座って目を瞑る
目が覚めた頃には、すでに最寄駅だった。
昼間より少し気温が下がり、風が心地よく吹いている。
「こんちわー」
「あら慎太郎くん。今日もシフト入ってたの?」
「はい。生活費働かなきゃいけないので」
「あら、そうなの?なになに彼女にプレゼントでもするの?」
「あはは…まぁそんなところです」
「うわぁ!いいわね!じゃあ頑張らなきゃね!」
慎太郎は放課後、近所の小さなお弁当屋さんで2時間ほどアルバイトをしていた。土日祝以外全ての曜日でシフトに入り、お金を稼いでは余った弁当をもらい、次の日の昼ごはんなどに当てていた。
「ありがとうございましたー」
閉店間際、おそらく今日最後であろう客を見送り、深々とお辞儀をする。
「慎太郎くん、今日はもう上がっちゃいな」
「え、でもまだ閉店作業が」
「良いのよたまには。ほぼ毎日シフトに入ってもらってるし」
「…じゃあお言葉に甘えて」
「うん!あとこれ!余ったお弁当持っていきなさい」
「あぁ…いつもほんとありがとうございます。助かってます」
「食べ盛りだからね!これで元気出して!あしたからもよろしくね」
更衣室へ入りふぅーっとため息をつく。昼間に学校であれだけ友達と盛り上がっていた慎太郎とはまるで別人のようだった。笑顔が消え、これから家に帰るというのに地獄に行くかのような表情をした自分が鏡に映っていた。
足取りは重く、前に進んでいる気がしない。地面から誰かに引っ張られているようだった。いやむしろ引っ張って行って欲しいかもしれない。そのままどこかへ連れて行ってくれるのならばそうして欲しい。
「ただいまー」
鞄を自分の部屋に置き、リビングへと向かう。
「母さん、体調は?」
「別に」
「そっか。ならいいや」
ーーピンポーン。呼んでいます。
「何?ブザー鳴らした?」
「これ」
「これって何?」
「これだろうがよ!」
空になったペットボトルを震える手で指差す。
「あぁ…中身ね。こんなの言ってくれなきゃわかんないって」
「1回ここに来てるんだから確認しろよ」
寝たきりのくせに言葉遣いが悪く傲慢。
「はい、どうぞ」
「ヘルパーの方が気が利いていいわ」
「そうかいそうかい」
と、てきとうに流しながら洗濯機のスイッチを入れる。
母の言うことにいちいち耳を傾けていたらキリがない。本気で受け止めていたらストレスで今頃死んでいただろうなと思う。
ーーピンポーン。呼んでいます。
またかよ。1回で用事を済ませてくれればいいものをわざわざ複数回に分けてしつこく呼びやがって。嫌がらせかよ。
「はいはい」
「トイレの時間」
「はいよ」
母をベッドから起こし、車椅子に乗せる。
毎度毎度トイレのたびに20分も30分も取られてこっちとしてはたまったもんじゃない。
「マッサージして」
母のお腹をのの字にさすっていき、腸を刺激する。ほんと、人の排便見てなきゃいけないこっちの気持ちにもなって欲しいもんだ。
排便を済ませ再び母をベッドへ戻し、ようやく自分のベッドに寝転がることができた。こんなことを始めてからもう1年。そのうち慣れるだろうと思っていた生活には全く慣れることなく、ただ疲れを蓄積していくだけだった。
ーーヤングケアラー。
本来は大人が担うと想定されるような家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを日常的に行っている、子どもや若者のことを言う。
慎太郎はそう呼ばれる部類の人間だ。
慎太郎が高校2年生の時、母は交通事故にあった。一命を取り留めたものの、頸髄損傷、レベルはC5。
下半身が完全に麻痺し、手先にも力が入らなくなってしまっていた。腕は動くためスプーンなどを手に巻き付ければ食事は可能だが、排便を1人ですることができなくなっていた。
下半身の感覚がないため尿意や便意を感じることができない。そのため、一定の時間になるとトイレへ連れて行き排便を促す行為が必要になる。
父親はいない。頼れる親族もいない。
学校では元気を振りまいている慎太郎は、家では学業と両立しながらたった1人で母親を支えているヤングケアラーだった。
