ジュリエットは叛旗を翻す。

 彼らとの出会いは、一ヶ月前に遡る。
 こちらとあちらの境、「間」に無数に点在する物書きの街。私はその一つ、湖畔の街に住む、しがない物書きだ。詳しく述べれば、文筆だけで食べているわけではない、自称物書き。
 それでも好きな作品やゲームのキャラクターを依頼主として得て話を書き、本を作り、同好の士に楽しんでもらっていた。そんな生活を始めてもう十年になるだろうか。
 大好きなキャラの依頼人たちからの、そこそこ長いお話をいくつか書き終わったのが一年前だ。長丁場からの清々しい解放と寂しさが内混ぜになった、彼らとの別れ。以来、私はなんだか妙に満足してしまって執筆から遠ざかっていた。燃え尽きて灰になったのではなく、昇天したと表す方が合っていた。穏やかな屍の心地。読者との交流が次第に途絶えていっても、不思議と書けない焦燥は湧かなかった。書く必要を感じなかったのだ。
 このままどこまでいつまで書かずにいるかしら、とぼんやり日々を過ごしていた六月の初め。晴天の霹靂どころではない、隕石級の彼女が突如降ってきたのだった。
 前触れも兆しもなく、扉は叩かれた。

 その軽快なノックを聴き、初め私は、一年前に送り出した依頼人たちだろうと思った。長編を描き終えた後も。折りに触れて彼らは尋ねてきてくれていたからだ。今度はどんな近況報告が聞けるのかしら、とワクワクしながら「久しぶり」と扉を開け、続く言葉を失った。
「ごきげんよう。……あら、年若いのね」
 それはお互い様。そしてどちら様。
 不躾にそう尋ねたくなったのを寸で堪えた。
 なぜなら、そこに立っていたのは、紗のかかったヴェールを纏った見知らぬ少女だったからだ。長い豊かな髪は三つ編みにしてヘッドドレスに収め、どこかの舞踏会か劇場から抜け出してきたような、精緻な刺繍の入った、膨らんだ袖の赤いドレス。つんと膨らんだ唇はさくらんぼのように瑞々しく、たじろいだ私とは裏腹に、まっすぐこちらを見つめる緑の瞳は意思の強さがありありと見てとれた。
 その、星の輝きを両眼に宿した少女は、私が無意識に「まさかもしや」と想像を巡らせたとおりの名を名乗った。
「初めまして。ジュリエット・キャピュレットよ。あなたに私の物語を依頼しく、こうしてまかり越しました」
 息の呑む以外、何もできなくなった私に、少女は柳眉を顰めて可愛らしく小首を傾げた。
「私を生み出した、偉大なる劇作家の名も名乗った方がいいかしら?」
「……いいえ。よくよく存じ上げています」
 なぜなら先日、ちょっとした理由で戯曲『ロミオとジュリエット』を現代語訳して読み終えたばかりで、色々思うところがあったからだ。
 ただし、「思った」だけだ。絵も言葉も、物語の走り書きも起こしていないのに、執筆依頼が来るなんて露とも思っていなかった。
「ひとまず、どうぞ中へ」
「ありがとう」
「すみません、靴は脱いでください」
「ここで? ああ、あなた東洋人なのね」
 腑に落ちたように頷いて、用意したスリッパに彼女はしずしずと足を通した。
 本当にひとまずだ。せっかく訪ねてきてくれたものを玄関で追い返すのは躊躇われた。それにお帰りくださいと言っても、話をするまではいつまでも扉の前にいる、そんな風情が彼女にはあった。
 私の作業場兼応接間兼ご飯食べる場所に入った彼女は、「まあ」と小さく感嘆して物珍しそうにぐるりと中を見回した。「……小さなお家」とポツリと呟いたのは聞き流した。何しろ彼女は「そちらにお掛けください」と着席を促してもこちらが椅子を引くまではごく自然に佇んだままのお嬢様であったから。きっとこの「間」でも戯曲の中同様、砦のような大邸宅に住んでいるのだろう。

 しかし困った。依頼人なんて来ると思っていなかったから、およそ、おもてなしの準備がない。ひとまず有り合わせで作れるものは、と冷蔵庫を探った。
「紅茶かコーヒー、あとルイボスティーもありますが、どれがお好きですか」
 するとジュリエット姫はきょとりと瞬きした。
「何と言ったの? 好きって何を?」
 こちらも、先ほどから何度目かの思考停止する。二人してしばらく見つめあった。
「もしや姫は、紅茶やコーヒーをご存知ない」
「ええ」
「普段は何を飲んでいらっしゃる……?」
「ワインね。赤も白も好きよ。ああ、ウィルはエールやビールを飲んでいたから、名前だけは知っているけれど。美味しいのかしら」
 つまり、彼女の住む世界と時代のヴェローナには紅茶もコーヒーもまだ伝わっていないから知らない、ということだろうか。しかし生憎と酒類は一切家にない。我が家にも関わらず所在なげに立ち尽くす私に、ジュリエットは朗らかに手を振った。
「構わなくてよ、晩餐やミサに来たわけではないのだもの。それより、依頼の話をさせてちょうだい」
 さあ、掛けてと私の方が促された。
「あなたに、私たちの物語を書いてほしいの。これを見つけたのよ」
 そういってジュリエットは恭しく胸元から厚さのあるメダイユを取り出した。それはロケットペンダントであり、小さな掛け金を外すと、赤い羅紗張りの中に丸い粒が収まっていた。
「それは」
 小指の爪より小さな薄緑の木の実だった。梅か胡桃に似た殻は割れた隙間からわずかに覗いた白い茎の、くなりと曲がった背が見えた。自分の顔以外、食器もシャツも洗ったことがなさそうなほっそりした指が、そっとそれを手に取り、私の眼前にかざす。
「この物語の種、あなたのものね?」
 まさしく、私の蒔いた種だった。いや、物書き自ら、それが生じるのも飛ぶのも見られるわけではない。けれど種と対面したら、「ああ、自分のものだ」と分かるのだ。例え新たな種を見るのが十年や五年ぶりであっても。
「種は、姫のお手元にあったんですか。見つけたのですか?」
 ジュリエットは種に視線を落として「ええ」と頷いた。伏せたまつ毛で緑の瞳に陰が落ちた。が、すぐさまパッと明るい顔を上げる。
「ねえ。一体どんな風に、私たちに思いを馳せてくれたの?」
「私たち?」
「だって私を想うのは私の夫を想うも同じことだもの」
 キッパリと言って、「もしかして違うの?」と美眉を顰めた。
「つまり、私だけに思い入れがあるとか……? 言っておくけど、不実な恋には応じないわよ。夫への貞淑ゆえに金の像まで建てられた女なのだから」
「いいえ、もちろん、お二人のことを考えていました」
 なぜならあの戯曲の核心は、環境に翻弄されつつ、二人ともが一途に互いを思い合った故に起きたすれ違いにあったから。種がジュリエットの元に届いたのなら、ここ数日の私の物思いがそれほどに育っていたということだ。
「どうしたらお二人は死なずにいられたのか、どこに曲がり角があって、分岐をどう選んでいたらよかったか。うまく二人でうまく逃げ仰せていたら、その後は、とか」
「それよ! それを書いてほしいの」
 食い気味に身を乗り出したジュリエットは、ハッとして姿勢を正し直した。握り締めた種をもう一度メダイユの中にしまう。
「それってつまり、私たちの幸せを願ってくれていたってことよね」
「はい、まあ」
「ああ本当に嬉しい。神のお導きだわ。ねえ、どうか、あなたが考えたその道筋とやらを物語にしてちょうだい」
 つまりロミオとジュリエットのイフストーリーだ。即答しかねた私に「ダメなの? なぜ」とジュリエットがまた表情を曇らせる。少しだけ逡巡したが、ここまで来てくれた依頼人だ。分かって貰わなければいけなかった。
「正直荷が重いです。そちらの知名度は十分ですけど、私は書きたいものを書き散らしているだけの素人同然です。偉大なるあなたのプレイライトのように、文業で食べてるわけではありません。いつでもどこでも書かずにいられないってわけじゃあないんです。それに私が書いたところで誰が読むか」
「私とロミオが読むに決まっているでしょう!」
「えっ。ロミオもこの件はご存知なんですか」
「もちろん。けれど彼は邸宅を離れられないから、私が名代でここに」
 ロミオはヴェローナを追放されたまま死んだ。だから、この物語と現実の「間」であっても何か行動制限が働いているのかもしれない。
「それでも、今はロミオと会えるんですね。よかった」
 ジュリエットは驚いたように目を見張って、ずいと身を乗り出した。
「其方がそう思ってくれているなら、尚のことお願いよ。ちゃんと書かれた物語の中でも、神父様の薬を飲んだ後にもう一度ロミオとまた会いたいの。そうではなくて、薬を飲まなくても晴れてヴェローナで夫婦として暮らす道筋があるのなら、辿ってみたい」
 同じ想像を私も巡らせてはいた。何せロミオとジュリエットにおいては、表題の二人だけでなく関係者の死がドミノ倒しのように連なっているからだ。しかたもたった五日間の間に。名付けて、誰も死なせてはならないヴェローナ24時間×5日。そのミッションを成し遂げるためにはどうしても攻略しなくていけないトリックスターが一人、立ち塞がっているのだけど。
 しかし、彼の存在をさておいても、安請け合いはしかねた。だって執筆に取り掛かれば、長くなりそうだ。それに初めの飲み物のやり取りで分かったように彼女たちを描くとなると下調べがたくさん必要そうだし、したくなるもなるはずだ。その道のりの遠さを思うと出発するのは躊躇われる。しかも「ちゃんと」書かなければいけないらしい。私はプレッシャーに弱いのだ。
 ジュリエットは黙り込んだ私をしばらく待ってくれたが、やがて一つため息をついた。
「知ってのとおり、私たちは世界中で劇の幕が上がるたびに、戯曲のページが開かれるたびにその物語を生きる。幾千回、幾万回。でもその一つとして例外なく、私とロミオは離れ離れのまま人生を閉じてきた」
「はい」
「特に近年では、やれ若気の至りだの、恋に狂った考えなしの子どもの末路だの、冷めた目や恋の悪いお手本として見られているのも知っています」
 それはそうかも。それは口には出さなかったが、ジュリエットはまぶたを伏せ、苦い笑みを浮かべた。澄んだ水のようだった声が途端に昏くなる。
「ええ、どんな感想を抱こうと観た者の自由よ。けれど後に湧くのが哀愁だろうと嘲笑だろうと、もう散々、あらゆる時代の観客に後引く極上の悲劇をお見せしたのだから。一度くらい、私たちが望んだとおりの物語を生きてみたいと望んだところで、罰は当たらないんじゃなくって」
「おっしゃる通りだと思いますけど、わざわざ、私でなくても」
「もちろん、他の作家にも打診はしてました。けれど専業作家は常に新しいものや、オリジナルを求めるものでしょう? そういう「主」を優先して書きたがる。彼らにとって私の物語は四百年前に書かれたカビ臭く古びた物語で、売れるかどうか分からないものを書いてる暇はないようよ」
 だんだんと口調が熱と棘を帯びてきた。
「それにウィルがあまりに完璧に私たちの物語を作り出しているから、それを改変するだなんて芸術への冒涜だとかなんとか腰も歯も抜けたような言い訳を並べられたりもしたかしら」
 さすが、毒舌でも比喩が効いている。そして先ほどまで気軽に口にしているウィルとは、もしかしなくても作家、シェイクスピア本人のことだろう。何にしても、この姫が、13歳そこそこであろうと、こうと決めたことを簡単に引かない気性であるのは、戯曲からもよく知れたことだ。
 舌戦の形成不利がちらちらと見えてきて、ひとまずとにかく即答を避ける手はないかと戦略を変えようとした時だった。
 
「話は聞かせてもらった!!」
 歌うような大音声と共に、バッタリ玄関扉が開いく音がした。止める間もなくズンズンと上がり込んできた人影が、すりガラスの引き戸をガタガタ言わせて「何だ、壁か?!」と立ち往生している。
 ジュリエットは額に手を当ててため息をついた後、恐る恐る立ち上がった私に首を振って見せた。
「出なくてよろしくてよ」
「そういうわけにも」
 なぜなら引き戸は結構大きくガタついていて、このままだと、力づくで戸を蹴破られそうだったから。それにおそらく侵入者は、土足で上がりがまちに昇っているだろうし。
「今開けますから」と声をかけて戸を引き、思わずのけぞった。
 その大胆な侵入者が、長身の男性だったからだ。見るからにジュリエットと同時代の服装をしていたのだが、栗色の巻毛であろう彼女とは違って、黒々とした真っ直ぐの髪を額で二つに分けて耳にかけていた。
「なんだ? 随分とちっぽけな物書きだな。俺より若いんじゃあないか」
 踏ん反り返って私を見下ろした彼は、ジュリエットよりは年長者に見えた。けれど、彼女の反応からしてロミオではないだろう。と、すると彼は。
 私が何名かの登場人物を思い浮かべている間に、答えは背後の少女からもたらされた。
「どうして貴方がここにいらっしゃるのかしら。マキューシオ様?」
 随分と、棘を含んだ声で。

「なんだ、随分と狭いボッテーガだな」
 とりあえず靴を脱いでもらってスリッパを渡して、という同じ手順を繰り返したのち、今度のお客は堂々とそれを口にした。
「うちの納屋の方がまだ広い」
「もしかして貴方も種を持っているの?」
 鋭く訊ねたジュリエットに、いいや、とお客ーーマキューシオは肩をすくめて首を振った。
「俺はいけてる男だが、残念ながらいけてる準主役級であって、主役じゃあない。だが、そんな立場にも飽き飽きしていたところだ。姫が種を得て新たに俺たちの物語を依頼するというなら、便乗しない手はないだろう?」
「貴方じゃなくて、私とロミオの物語よ! まさか私の後を尾けてきたの? 大公家の血に連なる方が、そんな巾着切りみたいな真似を」
 もしかしなくても、二人は既知であっても仲良しではないらしい。
「何しろ我が名に負う伝令の神メルクリオは盗賊をも加護したまうからなぁ。実際に種を盗んだわけでもなし、そう怒るな」
「まったく…。面の皮が厚いにも程がございますわね」
「左様、この象の如き面の皮があったからこそ、あのキャピュレットの夜会にロミオを連れて乗り込んでいけたのだ。姫には感謝して欲しいものだ」
 でもマキューシオがティボルトの挑発に必要以上に乗っからなかければ、ロミオの追放されるほどの騒ぎには発展しなかったよね。
 私が密かにそうツッコミを入れると、対面で掛けていた二人が同時にぐるんと首を返してこちらを見た。マキューシオが目を細めてこちらを軽く睨む。
「言うじゃないか、物書き」
「え、やば。今、口にしてましたか私」
「ああ、しっかりとな。覚えておくといい、俺のこの耳はその昔悪魔と契約をしたからどんな些細な悪口でも……」
「そう、その通りよ!」
 マキューシオの言葉を待たずにジュリエットは立ち上がり、私の両手をとった。
「そういう”もしも”を書いてちょうだい。私もずっと、いつもそう思っていたの。ああ、嬉しい」
 そのまま感極まったように飛び跳ねた。そのジャンプにびょんびょん体を揺すられつつ「それは何より、です」とだけ返す。
 そうした妄想だけならいくらでも浮かべられる。が、物語にするとなると話は別だ。机上の落書きに骨子と肉を当てはめて、組み立てるようなものだ。「書いてちょうだい」にはうんともすんとも言えなかったので、話を逸らすことにした。
「ええと……お二人はお知り合いでしたっけ? 戯曲の中では確か、面と向かった会話はありませんよね」
「ええ、そうよ。まあ、我が家の舞踏会にお招きしていたから、挨拶くらいはしたことがあったかしらね。それでも、この「間」ではこうして会えるの。まあ、初めのうちは色々ロミオのことを教えてくださるから嬉しかったけれど。幼馴染としての仲を何かとひけらかすのだもの。もう辟易よ」
「また俺の悪口だな?」
「あなたが悪魔と契約しているのは耳ではなくて口でしょう? 耳の聞こえを自慢するなら、もう少し他人の話を聞いてはいかが」
 男女だから決闘沙汰、とはならないのだろうが、もしかしなくても、和気藹々の仲ではないらしい。
「むしろロミオを挟んだ三角関係?」

「そういう訳で、姫の依頼に俺も一口噛ませてもらいたい」
 どういう訳だ。確かに、彼が悪魔と契約をしたのは口の方らしい。
「さもなくば姫、あんたのこの依頼をティボルトに密告するぞ」
「何ですって?」
「ここに奴が邪魔しに訪れたらそれは楽しいことになるだろうなあ! 執筆どころではあるまい」
 それはこちらとしても勘弁願いたい。戯曲を読んだだけでも、彼の苛烈さと執念深さは恐ろしかった。考えようによっては、妨害が入ることでジュリエットが執筆を諦める方に傾きそうではあるのだが。
 丁々発止と口論を続ける二人に、両手を上げて仲裁する。
「お二人とも。ひとまず、考えさせていただけませんか。前向きに検討はいたします」
 ここで即断したところで素直に出ていく二人でないだろうから、また「ひとまず」対応だ。ジュリエットは「いいでしょう」と頷いた。大事そうに種をメダイユにしまって懐に入れた。
「ところで物書き、あなたの名は?」
 私はちょっと考え、こう答えた。
「ライター、とお呼びください」
 それでしかない。
「ではライター、ご機嫌よう。また来るわ」
 優雅に会釈して出て行った。翻ったドレスの裾の運びも相まって、花びらが風に舞うような立ち振る舞いだ。
「ライター、あれはキャピュレットの娘だぞ」
「……その心は」
「基本的に神と父親しか恐れるものはない。その父親の命令すら、あの娘はロミオのために跳ね除けた。知っているんだろう?」
「つまり」
「ロミオが絡むことならば、決して引かないということだ」
 にいやりと白い歯を見せた唇から紡がれた言葉は、それこそ悪魔の予言。言葉を失った私の肩をポンと叩き、
「諦めろ。そして書け」
 とすげなく宣った。